「ネットエクレシア信州」さんが、高橋三郎先生の「神の子の、刑罰代受説の問題点」を掲載されていますので、お取次させていただきます。
(高橋三郎・師)
イエスの死と復活が、われわれの罪に対する身代わりだったという古くからある解説は、その解説で納得できた時代の説明に過ぎないと私は思う。
その解説が有効か無効かではなく、自分自身で神の顕現にぶつかることが重要ではなかろうか。
使徒パウロの場合には、パウロへの顕現のケースがあり、ペテロにはペテロの、そしてヨハネにはヨハネへの神の現れ方がある。それぞれには、それぞれの与えられた使命によって現れ方が相違する。
モーセにはモーセのケースがあり、それはキリストの顕現ではないにしろ、その時代の「ファラオからのエクソダス」を具体化するために必要な形での、「神の顕現」であった。
そこでは、柴を燃やすことなく燃えている炎を目の当たりにして、「足から靴を脱げ!」という神の声を彼が聴いたことに始まる。
そして彼に率いられたエジプトの難民の大集団が、葦の海を超えて、40年間にわたる新天地への大移動を開始したのであった。
モーセは最初、エジプト人たちと戦って「ナイル川の向こうから来た難民たち」を抑圧から解放しようとした。
しかし、彼が「神の顕現」に接して取った行動は、戦うのではなく「脱出」して、新天地を目指す行動であった。だがこの脱出は「逃げる」意味ではなく、「ファラオに難民集団がエジプトから出ていくのを認めさせた」うえで、出て行ったのが限りなく重要である。
ファラオに自分たちがエジプトから出ていくのを認めさせたのは、モーセではなく神ご自身だったのである。つまり「エクソダス(脱出)」は、モーセの英雄的個人行為なのではなく、神の新たな世界創造の形だったことが重要なのである。
使徒パウロの場合には、神の律法に背く者としてキリストに従う者たちをユダヤの内部で迫害していたが、神の子としてのキリストの顕現に接して、
「エルサレムからローマへ」と、
神の教えの伝道活動が変わっていくのである。
そして「神の子・キリストの救い」は、西欧世界全体に広がっていく。
そこに共通しているのは、「倒錯」ということであった。自分自身に対する見方、人間というものに対する見方、世界に対する見え方が、「倒錯している」のであった。
世界を見る目が「逆立ちしていた」のである。
彼らは、突然神の顕現にぶつかって、生きる世界が一新したのである。そして、ものの見え方が一新しただけではなく、彼らの、世界への新たな行動が始まっていく。
「刑罰代受」は関係ないのではなかろうか。
トートタロット:「#12.The Hanged Man 倒錯した人」



