*過去の投稿を、現在の立ち位置から再考してみました。
「はじめに言葉があった」という『ヨハネ福音書』の書き出しは、世界の宇宙論としては画期的な世界認識だとわたしは感じている。
「初めに宇宙があった」とか、「はじめに神がいた」とかではなく、「はじめに言葉があった」のである。つまり、世界の「はじめ」は単独者でも、孤立者でもない。世界は「対話」または「交わること」から始まったのである。また、「言葉」は静止していない。静止していては言葉は意味を持たないからである。「はじめ」は絶え間ない運動、活動、流動から始まり、絶え間ない「言葉」の交流から始まったのである。
「言葉」は他者と通じ合うことを前提とする。異なるものが通じ合えなければ、「言葉」には何の意味もない。
つまり、世界の初めに関係があった。関係は言葉において通じ合っていた、ということである。言葉において通じ合うのが宇宙である。それが創世の世界であった。いま、わたしたちはこの宇宙を失い、国際紛争やネット中傷などに余念がない。悲惨さを目の当たりにしながらも、それを止めることもできない。
これを過去の宗教的な人々は、「宿業(しゅくごう)」とか「原罪」と表現してきたのである。生きて体験する「苦(く)」は、誰にも避けて通れない道なので、「宿業」という言い方をするのであろう。
『宿業の超越』という表題は、暁烏敏(あけがらす はや)の『歎異鈔(たんにしょう)』第四節の講話を、著書にする際に付けられた表題である。わたしにとって『歎異鈔』と言えば、まず暁烏敏が語る『歎異鈔』である。
暁烏氏は『わが歎異鈔』の中で言われる、「(*大正・昭和の当時として)歴史上の人物抹殺論がはやり、親鸞聖人もその抹殺論に入れられた仲間でありましたが、私はそういう問題には何ら煩わされる気持ちにはならずに、この『歎異鈔』を読みました。このみ教えに現れている親鸞聖人、それだけで十分である。歴史上それを否定しようが、肯定しようが、私の親鸞聖人は、この『歎異鈔』によって、私の胸に生きておられる親鸞聖人である」と。
自分の敬服する人間に対して、これほど共感する態度をとっていた人に出合えて、わたしは心底驚いているとともに、また大変な慰めを感じています。わたしは立場の相違を超えて、暁烏氏を尊敬します。
また『歎異鈔』の筆者問題でも、「私はその筆者が誰であってもよい。それが如信上人であろうが、それが唯円房であろうが、この『歎異鈔』が現実の親鸞聖人である。もし親鸞聖人という実際の人が『歎異鈔』という教えを教えられない方ならば、私の宗旨の開祖でもない。私の宗旨の開祖は『歎異鈔』の上に躍動しておいでになる聖人である、というほどにはっきりいたしました。」と述べられている。
これが「有縁の関係」と呼べるものであり、「関係内存在」と呼べるものの基本的な捉え方である。このような関係も築けず、このような関係も見出せなくなったことが、原罪であり、大宇宙の喪失なのではなかろうか。
親鸞聖人(および、それを暁烏氏に教えてくれた清沢満之)との「言葉を学び、言葉を交流する」ことが、暁烏氏にとって世界の始まり、宇宙の始まりであった。人はこのようにして「生きることの始まり、世界の始まり」を発見するのではなかろうか。