久々に宿坊掲示板を見たが、御祈念文について、とやかく言っているものがいる。

ネット対策云々という名の彼は、「また創価大学の宮田教授のような習い損ないの学者を重んじていることからも教学部が脆弱であることは明白です。私のような一会員より教学力が無いのですからどうにもなりません」と述べている。

彼の言う「教学力」というものの基準がよく分からないが、なんとも傲慢な発言に聞こえる。

彼は、次のように述べている。

「原田ニセ会長が作った御祈念文

法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊に南無し、報恩感謝申し上げます。

南無=帰命

原田ニセ会長の御祈念文を読むとすぐに矛盾が生じます。

妙法蓮華教に帰命の御本尊に帰命し報恩感謝申し上げますと言う御祈念文です。

意味わかりませんね。

三大秘法の大御本尊に南無し奉り報恩感謝申し上げます。

これが正解です。」

読んで分かる通り、ただの言葉遊びに過ぎない。

南無妙法蓮華経とは、たしかに衆生に約せば「妙法蓮華経に帰命する」ことだが、仏界に約せば法体のことである。

御義口伝に「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」と述べられている通りだ。

「南無妙法蓮華経の御本尊」と言えば、何を指しているのかは明らかであろう。

「妙法蓮華教に帰命の御本尊に帰命」云々などと馬鹿なことを言って、わざわざ恥をさらけ出すこともあるまい。

 読むに値しない投稿ばかりな宿坊掲示板の中でも、読み応えのある投稿がいくつか存在する。コモンセンス氏の「再び、違和感です。」シリーズも読んで損のない投稿のひとつである。

彼は、1日に1回程度しか投稿しないため、他のくだらない投稿によって埋もれてしまい、探すのに苦労する。

他のくだらない投稿を減らして欲しいと心底思っているのは、私だけではあるまい。

 さて、ざっと見たところコモンセンス氏に対して、理路整然と反論している投稿は、見当たらない。反論しようとしている投稿もあるが、相変わらず感情的にコモンセンス氏を罵っているだけのものがほとんどである。

彼らは、執行部に対して、対話拒否などと批判しているが、そもそも彼ら自身に対話能力があるのかどうか?

私と太ちゃんの噛み合わない対話を見ても明らかであろう。

 彼らの反論もどきを見ているとお得意な印象操作が垣間見えてくる。

「執行部に都合よく内容改ざんがされていたことは証明尽くされていたよね~www」

「あらゆる論客さまが、「新・人間革命」はおかしい、違和感がある、執行部の都合がいいように改竄されてるって言ってるのに・・・。」

このように、改竄であることが完璧に証明されているかの如き印象を持たせようとしているが、そんな明快な投稿があっただろうか?

 毎日、先生のご健康を祈っている我々会員にとって、先生がお元気に執筆されているのかどうかに興味があるのは当然である。

しかし、先生が既に判断能力が無いと決めつけ、新・人間革命を侮辱する行為は、やりすぎであろう。

 彼らは、新・人間革命を侮辱する前に以下の疑問に答えられるだろうか?

 

・池田先生の身近にいらっしゃる奥様は、当然すべてをご存知であろうが、何のアクションも示されていない。彼らが言うように新・人間革命が歴史の改竄であり先生への侮辱行為であるならば、何故、奥様が沈黙を守っているのか?

・仮に執行部が先生のメッセージや新・人間革命を自由に作成、改竄できるとしたならば、創価学会の会則改正を先生が認めていないとの批判に対して、何故、メッセージや談話という形で会則改正を認めるようなものを発信しないのか?

・新・人間革命にゴーストライターが存在するのであれば、これは犯罪行為である。何故、本気になって訴える者が現れないのであろうか?

先生を陥れたい輩にとっては、最高の武器になると思うが...

 

ちょっと考えただけでも、いろいろな疑問が出てくるわけだが、彼らの明快な検証を見た記憶が無い。

コモンセンス氏を感情的に批判する前に、真摯に対話の席に着いたらどうか?

賢明な読者は、それを期待している。

 拙い文章であったがお楽しみいただけただろうか?

彼に対する私の思いをどのように表現するか悩んだ末に、小説という形を選ばせていただいた。

 小説を書くのは初めての試みであったが、一気にラストまで書き上げることができた。

それだけ彼は、私の目に“特殊な”存在として映ったのであろう。

 内容は、すべて私の想像であるが、彼の言動から受けた印象をそのまま文章化させていただいた。多くの人がイメージしていた姿に近い状態で描けたのではないだろうか。

 

 ちなみに彼は、小説を書き始めた当初、次のような投稿をしている。

「予定を変えて「新・人間革命」がどういうものか特集してやろうかい?」

「オプションで八尋氏についても特集してやってもいいぞ?」

 恐らく、「これ以上、小説を続けるなら秘密をばらしてやるぞ」的な脅し文句だったと思われる。(その後、特集など無かったようだが...)

 再三、言っている通り私は、反板も信濃町界隈とも何の関係もない一会員である。

秘密がばらされようが、私には何の関係もないのだ。

彼の脅しを無視して、私が小説の連載を続けたことからも、私が普通の一会員であることが証明されたと言えよう。

 一会員の目から見て宿坊掲示板がどのように写っているのか?

意見の違う人間に対して口汚く罵っている太ちゃんらの行為が、一般会員にどのような印象を持たれているのか?

私の小説を読んで、少しは理解してくれたことを信じたい。

 私は、一会員として、創価学会がより良くなることを願っている一人だ。

相手を小馬鹿にし、口汚く罵るような輩に創価学会を良くすることなどできようはずがない。

何故なら「革命のためなら手段を選ばない」ようなことがあってはならないのだ。

これからは、一会員である私の忠言も素直に聞き入れることだ。

民衆の支持を得られなければ革命など出来るはずがないからだ。

 自身の功名のために先生の思想を利用し、人を蔑むとどうなってしまうのか?

彼と多くを語り合うことは出来なかったが、その表情、言葉遣いで、すべてを知ることができた。これは、私にとって何にも増して残酷な出来事であったが、また少しだけ先生の思想に近づけた気がしている。

 今の自分にできることは祈ることだけだ。どんなに相手が心を閉ざしていようとも真心からの祈りは必ず通じるだろう。もう二度と会うことはないかも知れないが、彼が少しでも人の心を取り戻せるように祈り続けていこう。

そんなことを考えながら家路についた。

 

<数年後>

 その日、私は出張先の名古屋で早めに仕事のケリがつき、予定より早い新幹線で東京に向かっていた。「新横浜~、新横浜~」とのアナウンスを聞いて、ふと太のことが頭をよぎった。「行ってみよう」心の中で、そう呟くと同僚に別れを告げ新幹線を降りた。

 太のアパートには一度しか訪れたことがなかったのだが、何故か迷うことなく辿りつくことができた。

 そこには、あのアパートの影も形も残っておらず、大きな高級マンションがそびえ立っていた。集合ポストを見たが、太の名字は見つからなかった。

 ただ、一部屋だけ表札の無いポストがあった。私は一縷の希望を持ってインターホンを押してみたが、部屋からは何の返答もなく、居住者がいるのかどうかも分からなかった。

 私は、住んでいるかどうかも分からない無名のポストに太ちゃん宛の手紙を書き入れた。

学生時代、また数年前にも語れなかったこと。必ず幸せになって欲しいと祈り続けたこと。

そして幸せになったであろう太ちゃんへの賛辞を惜しまなかった。

 太ちゃんに手紙は届くだろうか?

そう思いながらも表情は、自然と笑顔に包まれていた。胸中には、必ず祈りは通じるとの強い確信が溢れていたのだ。

終わり

 20数年振りとはいえ、4年間、共に戦ってきた同志である。

すぐに分かると思っていたのだが、当時の面影は全く無かった。面影が無いというよりは、全くの別人だと言った方が的を射ているだろう。それほど彼の姿は変わり果てていた。

 私は出来うる限りの笑顔で語りかけた。「○○大学の同級生だった・・・」と話そうとした刹那、私が誰なのかに気づいたのだろう。

「お前に先生の思想が分かるか!」と罵声が飛んできた。

 もう何日も剃っていないであろう無精ひげの効果で、もともと色黒であった太の表情は、病的なドス黒さに包まれ、真っ赤に充血した鋭い瞳だけが不気味に浮かび上がっていた。

 足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた私は、ふらつく体を手すりで支えながら必死にこらえた。

 私の目からは、いつしか涙が溢れていた。旧友に会えた懐かしさでもなく、変わり果てた姿への憐れみでもなく、何とも言えない感情が、次から次へと込み上げ、涙となって流れていった。

20数年前に語れなかったこと。語るべきだったこと。それらをすべて語り尽くそうと焦れば焦るほど、嗚咽が止まらなくなり時間だけが過ぎ去っていった。

時間にして数秒の出来事であったと思うが、数十分にも数時間にも感じた。

 彼は、私の涙を見て、一瞬だけ人間の表情に戻ったように感じたが、すぐに扉は閉じられ、2度と開くことはなかった。

 彼が住んでいるアパートを「それ」と表現したのには理由がある。

アパートだと聞いてはいたが、それは昭和を思い起こさせるような佇まいで、壁は剥がれ落ち、2階に上がる外階段の塗装は剥げ、人が歩くと崩れてしまうのではないかと不安になるほど錆び付いていた。

それでいて、何とも異様な雰囲気を醸し出しており、来る人を拒むかのような殺気を感じるのだ。まさに悪鬼を思わせるアパートを思わず「それ」と表現してしまったわけである。

 軋む階段を上っていった2階の一番奥の部屋が彼の部屋だった。

1階と2階を合わせて8部屋あるうちで人が住んでいそうな部屋は、1階の1部屋と、2階では太が暮らしているはずの1部屋だけのようだった。残りの部屋のポストからは郵便物が溢れかえり、長らく人が住んでいないことがひと目で分かった。

 無造作に捨てられた空き缶やらゴミやらをうまく避けながら通路を進んでいき、目的の部屋の前になんとか辿りつくことができた。

 呼び鈴は無く、木でできたドアをノックするにも、叩けば凹んでしまうのではないかと思わせるほど、その扉は腐りかけていた。

 私は躊躇しながらも勇気を出してドアを3回ノックした。しかし、案の定、腐りかけたドアをノックしてもフニャフニャフニャという、およそノックとは言い難い微かな音がしただけである。

私は意を決して、道路の通行人が振り向くほどの大きな声で叫んだ。

「ごめんください。太ちゃんは、いますか?」

 叫んだ自分が馬鹿だったと思わせるような静寂が続いた。

部屋からはラジオ放送が聞こえており、絶対に人がいるという確信を持っていた私は、もう一度叫ぼうとして、息を吸い込んだその時、その扉は開いた。

 「おい、大丈夫か」

高橋の心配そうな声に我に返った私は、太の住所を教えてもらい駅に向かった。

道すがら、今日は高橋と飲む約束だったんだよなと申し訳ない気持ちを引きずりながらも、今日、太に会いに行かなければ、きっと後悔するはずだ。もう一生会えないかも知れない。

そんな思いに駆られて神奈川に向かった。

 高橋にメールで、今日の無礼を詫びたあと、太について知っていることを全部教えて欲しいと頼んだ。

 彼からの返信で分かったことは、もう既に両親は亡くなっていること。奨学金の返済に困り実家を売り払ってしまったこと。大学卒業後、会社員として働いていたが数年前にリストラに遭い、今ではアルバイトで細々とアパート暮らしをしているとのことであった。

 数年前に偶然出会った友人には「独身貴族を満喫しているよ」と笑顔で話していたそうだが、強がっているようにしか見えなかったそうだ。

 生きてさえいてくれれば、それでいいんだ。

変な胸騒ぎを感じながら、彼のアパートから歩いて20分という最寄り駅に到着した。

たかだか20分の道のりであったが、普段デスクワークの私には十分な運動であった。

早く太に会いたいという思いから早足になっていたのも原因であろう。額の汗を拭きながら歩いていると、それは目の前に現れた。

 太に取って、あまりにも図星の指摘だったのであろう。先生を語り、人に対して「先生の弟子ではない」と罵りながら、当の本人は、最も先生の弟子とは程遠い位置にいたのだ。

それは、太自身が一番良く分かっていた。だから咄嗟に後輩を殴ってしまったのだろう。

 私は、後輩の治療を皆に任せて、太と二人きりになるため部室を出た。

今、ここで語っておかなければ取り返しのつかないことになる。そんな思いに駆られながら彼と対峙した。私の真剣さが伝わったのだろう。彼は私と目を合わせることはなかった。

うつむきながら彼は、声を絞るように呟いた。

「何も話すことはない。お前に俺の気持ちがわかるものか」

「いや違う...わ、分かるよな。俺の方が正しいって、お前は分かってくれるよな。あいつは、前から気に入らなかっ...いや、あいつは先生の思想が分かってないんだよ。俺は、あいつの為を思って殴ってやったんだ」

 本人も何を話しているのか理解していなかったように見えた。支離滅裂な言葉を、時には叫び、時には哀願を求めるように話し続けた。

 ひとしきり話を聞き終わってから、私は口を開いた。

「一緒に題目をあげよう」

この時の私には、これ以上語ることができなかった。いや、語るべきことは、いくらでもあっただろう。しかし、今の彼に語ったところで、まったく無意味であるように思えた。

 一緒に近くの会館に行き、題目を唱えた。

心ゆくまで題目を唱えた後、振り返るといつもの彼の笑顔が戻っていた。と思えた。

 翌日から彼は、部室に姿を現さなかった。大学4年では、研究室が別々になっていたこともあり、その後、大学で顔を合わすことは無かった。

まだ携帯電話も無い時代である。自宅に電話しても取り次いでもらえず、あっという間に月日が過ぎていった。

そして、卒業となり、いつしか彼の事を忘れ去っていた。

 太とは、授業も一緒、放課後の学内活動も一緒ということで、特に何を話すというでもなく、同じ空気を吸って過ごしてきた。
 私たちの同級生でリーダー的存在だったのが、大学委員長になった高橋。
私は、「水の信心」を地で行くタイプで、大きな結果は出せないが、崩れることもない。そんなキャラクターが副大学委員長に適任だったのかも知れない。
太はと言うと、高橋のような人を引っ張る力は無いのだが、話の中心に自分がいなければ気がすまないタイプで、大言壮語を繰り返しては、「また始まった」と後輩たちに囁かれていた。
私は、そんな太が心配で、機会があれば話し合いたいと思っていた。
 突然、その機会は訪れた。
いつものように太が池田先生の思想を語っていた。後輩たちに向かって「お前、本当に学会員なのか?先生の思想も分からんで学生部員として恥ずかしくないのかよ」
しばらく我慢して聞き流していれば、太も満足して平穏無事に済むのだが、この時だけは勝手が違った。
 普段の鬱憤が溜まっていたのだろう。後輩の一人が反論した。
「太先輩は、先生の思想を語りますが、現実の行動が伴っていないじゃないですか!」
まさに正論であった。彼は遅刻の常習者で、私もしょっちゅう代返を頼まれた。試験前ともなれば、私のノートのコピーを取り、なんとかギリギリ進級していたという始末である。
また、相手を小馬鹿にした態度は目に余り、差別用語も頻繁に使っていた。
とてもじゃないが先生の思想を体現しているとは言えなかった。
 後輩の気持ちは良く分かると思った瞬間、太がその後輩を殴り倒した。
あまりに突然のことで誰も止めることができなかった。
後輩の頬は、みるみる腫れ上がり、殴られた衝撃でメガネは割れていた。
「忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり」
修羅場であったにも関わらず、日蓮大聖人の御金言が頭をよぎった。

 私と太が出会ったのは、大学の入学式当日、式が終わった後のオリエンテーションで、たまたま隣同士に座ったのがきっかけだった。

二人とも一浪で、私は都内、彼は神奈川の自宅から通う自宅生であった。今、思えば性格が合ったわけでもないのだが、お互い学内に知り合いが全くいなかったこともあり、孤独を恐れるかのように寄り添ったという感じだ。

 一通りの行事が終わり、彼と別れた私はひとりで、地元の先輩に言われた通り、大学内の学生部組織を探し歩いた。「第三文明」とか「東洋哲学研究会」みたいな名前があれば、学生部の学内組織の可能性が高いとのことであった。

こんな頼りない情報だけで探せるものかと不安にかられながら、様々なクラブの勧誘活動が行われている人ごみの中で、運良く見つけることができた。

 そこでは、大白蓮華を片手に掲げなから「高等部出身の方はいませんかー!」と叫ぶ数人の男たちがいた。工業系の大学ということもあり、女性の数は極めて少なく、当然のことながら学内組織に女子学生部などいなかった。

 そこの一人に声を掛けると満面の笑顔で「いやあ、今年の1年生は人材が多いぞ」と喜んでいた。挨拶しただけで人材と分かるものなのかなという疑問もあったが、確かに私の同級生は、他の学年より活動家は多かった。

 翌日から、私も新入生勧誘の輪に加わり学生部としての活動が始まった。

大白蓮華を片手に見よう見まねで先輩と一緒に叫んでいると目の前に太が現れた。

気まずい空気が流れたが、勇気を出して太に学会宣言をした。

はじめ怪訝そうな顔をしていた太だったが、学会宣言をした直後、表情が和らいだ。

「君も学会員だったんだね。良かった」

こうして彼との学生部生活がスタートした。