2025年12月18日に図斉氏が発表した論考で中村氏から送られた文章が紹介されている。2025年12月9日の聖教新聞に掲載された「人間主義の系譜」で引用された「法華経の智慧」の文章が捏造、改ざんにあたるのではないかとの主張であった。

その中で中村氏は、「久遠元初の仏(日蓮)が意図的に削除されています」と主張している。「法華経の智慧」を確認すると「久遠元初の仏」という言葉はあるが、「(日蓮)」という言葉はない。

これは勝手に中村氏が付け足した言葉である。

これこそ改ざんのように思うが、このように付け足さなければならないほど、「法華経の智慧」では「根源の仏=日蓮大聖人」と明言している箇所がないのである。

創価学会の中で「人間革命」と並んで教学面で重要視されているのが「法華経の智慧」であろう。

須田氏も対談者の一人であったが、池田先生が法華経を通して縦横無尽に語られた書である。

本書では、「南無妙法蓮華経如来」や「永遠の仏」「久遠元初の仏」など根源の仏を想定した用語がこれでもかと登場する。

今回改めて読んでみたが、「根源の仏が日蓮大聖人である」と明言している箇所は見当たらなかった。

かつての教学では、「久遠元初の自受用身は日蓮大聖人である」ということが当たり前のように教えられていたが、「法華経の智慧」では何故、明言を避けていたのだろうか?

「時」を待ち「時」を作る。

創価学会では、時間を掛けて徐々に変化を浸透させていく手法を取ることが多い。

教学試験の内容を徐々に変えていく手法を見ればわかるだろう。

「法華経の智慧」で明言を避けた理由も後世のための布石であったというのは考え過ぎだろうか。

「法華経の智慧」で明言されていないことは、批判派の主張を見てもわかる。このことは次回に紹介したいと思う。

かつては、末法の御本仏を学ぶこととセットで、「久遠元初の自受用身」とか「人本尊開顕の書」などの用語も教えられた。
教学要綱でそれらの言葉は使用されず、あくまで「末法という現在において現実に人々を救う教えを説いた仏という意味で、大聖人を末法の御本仏と尊称する」というスタンスである。
これを指して「中身の無い名ばかりの日蓮本仏論」というのが批判派の主張だ。
彼らは、「久遠の昔に釈尊を成仏させた根源の仏が日蓮大聖人である」という日蓮正宗の教義こそが池田先生の思想であり、創価学会が採用すべきものだと言いたいのだろう。
果たして池田先生のお考えは、本当にそうだったのだろうか?

最近の批判で一番よく取り上げられているのが末法の御本仏に関する内容であろうか。教学要綱には、「日蓮大聖人を末法の御本仏として尊崇する」という趣旨が書かれているが、批判派からすると、「それは表向きで本当の意味では尊崇していない」ということらしい。

中には、明らかな誤読もしくは意図的な改ざんと思われる主張も見られた。

例えば教学要綱の「日蓮大聖人は、単に釈尊から託された「南無妙法蓮華経」を弘める菩薩である」という一文を抜き取り教学要綱があたかも日蓮大聖人を単なる菩薩であると断定しているかのように見せかける主張があった。

教学要綱を読めば、すぐわかることだが、この一文の後には「(菩薩である)にとどまらず、仏と同じ権能を有して、末法の一切衆生を救う教えを説いた教主である。」と続いている。原本を見ると、この二つの文章の間には句読点すら存在しない。

意図的に文章を切り取り教学要綱の趣旨をミスリードするような人間の主張を鵜吞みにすることはできない。

「時」が大事という点でエピソードを紹介したい。
かつて福島源次郎が宗門に対する不用意な発言で失脚したことは、皆さんご存知であろう。
それからわずか10年後の本部幹部会で柏原ヤスさんが豪快に宗門批判をして拍手喝采を受けていたことは今でも記憶に残っている。
たしか「私たちは宗門の坊主から信心を教わってなんかいないわよね!」という調子だったと思う。
同じ宗門批判でありながら、一方は失脚、もう一方は英雄である。
「時」の恐ろしいまでの峻厳さを感じるエピソードだ。
それを考えると、池田先生に与えられた「時」は、先生が語りたかったことに対して充分足りたのであろうか?
今は、戒壇の大御本尊に関する見解など、先生が直接語らなかったことを弟子が代弁する「時」が到来したと言える。
釈尊滅後に大乗運動が起こり法華経が誕生したのと同じようなことが今後展開されるのかも知れない。

学会の教学が変わり始めていると言っても昨日今日の話ではない。

教学試験の内容を注意深く観察していると、徐々に使用されなくなった用語が存在するのがわかる。

このように創価学会としては、かなり前から教学を変えようとしていたが、2014年の原田会長の御本尊に関する発表で、大きな節目を迎えたと言える。

1991年に魂の独立を果たしてから23年後のことである。

それからさらに9年後の2023年に教学要綱が発刊された。

仏法では「時」が大事であると教えられる。

もし宗門問題勃発直後に池田先生が「戒壇の大御本尊は受持の対象としません」などと発言していたら、どうなっていただろうか?

今まで信仰の対象であったものを変更するなど容易なことではなく、信心自体が嫌になってしまう方も出てしまったと思う。

それを考えれば、どこまでも慎重に「時」を待ち「時」を作る入念さが必要だったことが想像できる。

会員の幸せを誰よりも願われていた池田先生が「言うべき時」と「言うべきでない時」を慎重に見極められながら行動していたことは言うまでもないだろう。

須田氏を擁護するつもりはないが、創価新報などの須田氏に対する態度はいただけない。創価新報の記者は、学会の先輩に対する最低限の敬意は払うべきではないだろうか。それが仏法者としての振る舞いであろう。

須田氏の書籍は何冊か購入して読んだが、昔ながらの教学を学んできた身としては、居心地の良い感じという印象だ。

一方、宮田氏の論文は、学者ならではの視点で従来の教学に切り込んでおり、刺激的な印象を受ける。

釈尊を必要以上に蔑んだり、最新の文献学や歴史学を考慮しない従来の教学に違和感を感じていた私は、宮田氏の方に魅力を感じていた。

宮田氏の論文を読み始めたのは、20年近く前になると思うが、教学要綱が発刊されても違和感を感じないのは、宮田氏に早くから触れていた影響があると思う。

今は、「やっと学会の教学も変わろうとしている」という気持ちだ。

教学要綱の作成には、元創価大学教授の宮田氏が関与していると教学要綱批判派は主張する。創価新報などは、宮田氏の関与を否定しているが、教学要綱の内容は宮田氏の主張と似ており、関与してなかったとしても影響は受けているように思われる。

一方、教学要綱批判派の筆頭格は何と言っても須田氏であろう。

創価学会の元副教学部長で「法華経の智慧」の対談者でもある彼は、学会の伝統教学を護りたいという気持ちが強いように思う。

創価自主活動支援サイトでは、しきりに須田氏を持ち上げる主張が見られるが、須田氏本人がこのサイトに関わっているかどうかは不明である。

彼は退会していないと思われるが、地元の墨田区では、仏敵扱いを受けているという話だ。(真相はわからない)

この他に、図斉氏や中村氏などが頻繫に論考を発表している。

どういう肩書をもった方たちかは知る由もないが、古くから教学を学び、今の学会教学の変化についていけない人々という印象を受ける。

2023年11月18日に教学要綱は出版されたが、聖教新聞でお知らせがあった程度で購買運動などの働きかけは皆無である。
教学要綱を使って話をする幹部もほとんどおらず、会員でもこの本の存在を知らない方は多そうだ。
発刊にあたってには「とくに、この要綱は、創価学会の教義を広く社会に対して客観的に説明することに力点が置かれています。」とあるから、内部というよりも外部向けに主眼の置かれた書籍かも知れない。
創価学会の場合、悪く言えばダブルスタンダード的なところがあり、「表向きは〇〇だが、真意は△△だ」ということが少なからずある。
例えば2021年11月18日に発表された創価学会社会憲章には「創価学会は、仏法の寛容の精神に基づき、他の宗教的伝統や哲学を尊重して、人類が直面する根本的な課題の解決について対話し、協力していく。」とある。
確かに、この精神に則りキリスト教やイスラム教など世界中の宗教諸派との平和のための協力を惜しんでいないが、未だに日蓮正宗(日顕宗)や顕正会に対して鞘を納める気配は見られない。
そういう意味で教学要綱に関しても、本音と建前(内部向け、外部向け)があるかも知れないと注意する必要がありそうだ。

かれこれ8年ぶりの投稿である。
学会執行部の批判サイトである宿坊の掲示板は幕を閉じ、創価自主活動支援サイトに彼らの活動拠点は移ったようだ。
最近の話題は、教学要綱を中心とした学会の教学に関するものが中心となっている。
彼らは何故、執拗に教学要綱批判に明け暮れるのであろうか?
教学要綱を読むと、昔勉強した内容と変化していることは確かである。
「人本尊開顕の書」や「法本尊開顕の書」「久遠元初」等という表現も影を潜めている。
だからといって教学要綱の絶版を求めるのは大袈裟過ぎるのではないか。
また最近では、日蓮正宗や顕正会なども教学要綱を通して学会批判の勉強をしていると聞く。
こうした現状を踏まえ、教学要綱の内容に問題があるのかどうか、彼らの批判内容も確認しながら検証してみたい。
創価学会中央から教学要綱に関する補足説明がまったく無いので個人的見解になってしまうが、自身の考えをまとめる意味でも無駄ではあるまい。