日蓮正宗や顕正会は、戒壇の大御本尊が唯一無二の御本尊であると主張しているが、それを裏付けるものは何もない。

逆に「河辺メモ」の発見により日禅授与曼荼羅を元にして造った疑いが濃厚になった

池田先生がこのようなことをご存知でありながら何も発言されなかったのは、何度も書いたが「時」を待ち「時」を作る行為であったと思われる。

しかし戒壇の大御本尊を念頭に話されたスピーチは存在する。

 

池田先生と会見された宗教社会学者の感想を紹介する形で次のように述べられている。

 

「(宗教社会学者の感想の紹介)その折、私は『究極に求められるものは何でしょうか』と質問しました。おそらく板曼荼羅の御本尊と答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は『久遠元初の法です』と答えられたのです。このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に、偏狭にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た思いでした。(中略)

 

(池田先生)もとより御本尊が私どもの根本尊敬の対象であられることは言うまでもない。そのうえで、曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。当然、そこに計り知れない御仏意があられると拝されるが、曼荼羅としてあらわされた『法』は永遠である。いずれにしても、大聖人の仏法の神髄である『久遠元初の法』を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。

(池田大作全集82巻343頁)

教学要綱批判派の主張の中で三宝について触れている箇所があるので、その中の法宝について考えてみよう。
創価学会のかつての法宝は、「三大秘法の御本尊」であったが、教学要綱では「南無妙法蓮華経」に変更された。
「三大秘法の御本尊」とは、かつては日蓮正宗大石寺にある「戒壇の大御本尊」を示していたことは言うまでもないであろう。
果たして教学要綱批判派の皆さんは、どういう意味を込めて「法宝は三大秘法の御本尊である」と主張しているのだろうか?
「法宝は戒壇の大御本尊」なのか?
「法宝は本門の本尊(特定の御本尊ではない)」なのか?
このあたりを明確にしている主張を目にしたことはない。
教学要綱を批判する前に、まずは法宝の定義を明確にしてもらいたいものだ。

最後に「法華経の智慧」と「教学要綱」の共通点も紹介しておこう。
両書とも日蓮大聖人は、末法の衆生を救う教えを説いてくださったから『教主』であるというスタンスだ。
「教学要綱」が池田先生の思想を取り入れようとしている姿勢を見ることができる。

教学要綱
「創価学会では、日蓮大聖人を『末法の御本仏』と尊称している。日蓮大聖人は、単に釈尊から託された『南無妙法蓮華経』を弘める菩薩であるにとどまらず、仏と同じ権能を有して、末法の一切衆生を救う教えを説いた教主である。(中略)
末法の成仏する方途は、大聖人が示された『南無妙法蓮華経』の三大秘法である。

ゆえに、創価学会では、末法の万人成仏の法を明かした『教主』であるという意義から、大聖人を『末法の御本仏』と仰ぐのである。また、そうした尊崇の意義を込め、『大聖人』と尊称している。」


法華経の智慧
「南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙生命そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。その十界のうちの『仏界』を法華経では『久遠実成の釈尊』と『多宝如来』として説き、南無妙法蓮華経如来の『九界』を『上行菩薩』等として説いたのです。
同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。だから、ここでは南無妙法蓮華経如来を讃嘆してもしきれないと言っていると拝してよい。南無妙法蓮華経如来は、諸仏を生んだ『根源の師』ですから、師匠を讃えていることでもある。(中略)
しかも、宇宙と一体の仏であるゆえに、私ども一切衆生もまた南無妙法蓮華経如来の一部である。われわれ十界の衆生の生命の実相が南無妙法蓮華経如来なのです。
これを教えてくださったのが、日蓮大聖人です。教えてくださったのだから『教主』です。」

もう一つ紹介しておこう。
遠藤洋和氏の「原田星一郎教学部長による教授講座を破す」という論考では、「池田先生による正しい「日蓮本仏観」についてのご指導を挙げる」として「法華経の智慧」を紹介した後に次のように結論付けている。


「池田先生は明確に「無始無終の本仏=久遠元初の自受用報身如来=根本仏=南無妙法蓮華経如来=日蓮大聖人」との正しい「大聖人観」「本仏観」に立たれている」と。


しかし、彼が引用した「法華経の智慧」の抜粋をいくら読んでも最後の「=日蓮大聖人」という記載はまったく無い。
かつて我々は、「久遠元初の自受用報身如来は日蓮大聖人である」と教わっていたから、彼の頭の中で勝手に脳内変換してしまったのであろう。
教学要綱批判派の主張は、一事が万事こんな調子で、勘違いや思い違いで批判を繰り返している。
批判ありきではなく、もう少し冷静になって教学要綱や法華経の智慧を読み返してみてはいかがだろう。

2月28日の図斉氏の論文冒頭の発言で気になることがあったので取り上げたい。

該当の発言はこうだ。

 

「2 月 11 日、戸田先生のご生誕日に発刊の―「御書根本」の大道-拝読と研鑽のために―を購入、心躍らせ読みました。読了後、またも失望と悲しみに襲われました。」

 

最近の教学著作には、ことごとく批判論文を書いている彼の発言とは思えない表現だ。

「心躍らせ読みました」を本気で書いているのなら、よほど呑気な性格なのか?

あるいは、「今度こそは正しい解釈をした本を出版してくれたか」と創価学会に期待していたのか?

彼のこれまでの論文を読む限り、批判箇所を探すために読んでいるとしか思えないのを考えると、冒頭の発言は、ただの嫌味を込めた発言としか思えない。

 

そもそも『「御書根本」の大道』は、大白蓮華に連載されたものをまとめた本である。

教学著作のほとんどに目を通してきた図斉氏が大白蓮華は読んでいなかったとは信じられない。

 

彼は、創価大学4期とのことなので恐らく70歳前後だろう。

人生総仕上げの年代で、学会著作の批判に血道をあげている姿は、果たして幸福なのだろうか?

余計なお世話だろうが、彼の論文を目にする度に心配になってしまう。

 

2025年12月18日に図斉氏が発表した論考で中村氏から送られた文章が紹介されている。2025年12月9日の聖教新聞に掲載された「人間主義の系譜」で引用された「法華経の智慧」の文章が捏造、改ざんにあたるのではないかとの主張であった。

その中で中村氏は、「久遠元初の仏(日蓮)が意図的に削除されています」と主張している。「法華経の智慧」を確認すると「久遠元初の仏」という言葉はあるが、「(日蓮)」という言葉はない。

これは勝手に中村氏が付け足した言葉である。

これこそ改ざんのように思うが、このように付け足さなければならないほど、「法華経の智慧」では「根源の仏=日蓮大聖人」と明言している箇所がないのである。

創価学会の中で「人間革命」と並んで教学面で重要視されているのが「法華経の智慧」であろう。

須田氏も対談者の一人であったが、池田先生が法華経を通して縦横無尽に語られた書である。

本書では、「南無妙法蓮華経如来」や「永遠の仏」「久遠元初の仏」など根源の仏を想定した用語がこれでもかと登場する。

今回改めて読んでみたが、「根源の仏が日蓮大聖人である」と明言している箇所は見当たらなかった。

かつての教学では、「久遠元初の自受用身は日蓮大聖人である」ということが当たり前のように教えられていたが、「法華経の智慧」では何故、明言を避けていたのだろうか?

「時」を待ち「時」を作る。

創価学会では、時間を掛けて徐々に変化を浸透させていく手法を取ることが多い。

教学試験の内容を徐々に変えていく手法を見ればわかるだろう。

「法華経の智慧」で明言を避けた理由も後世のための布石であったというのは考え過ぎだろうか。

「法華経の智慧」で明言されていないことは、批判派の主張を見てもわかる。このことは次回に紹介したいと思う。

かつては、末法の御本仏を学ぶこととセットで、「久遠元初の自受用身」とか「人本尊開顕の書」などの用語も教えられた。
教学要綱でそれらの言葉は使用されず、あくまで「末法という現在において現実に人々を救う教えを説いた仏という意味で、大聖人を末法の御本仏と尊称する」というスタンスである。
これを指して「中身の無い名ばかりの日蓮本仏論」というのが批判派の主張だ。
彼らは、「久遠の昔に釈尊を成仏させた根源の仏が日蓮大聖人である」という日蓮正宗の教義こそが池田先生の思想であり、創価学会が採用すべきものだと言いたいのだろう。
果たして池田先生のお考えは、本当にそうだったのだろうか?

最近の批判で一番よく取り上げられているのが末法の御本仏に関する内容であろうか。教学要綱には、「日蓮大聖人を末法の御本仏として尊崇する」という趣旨が書かれているが、批判派からすると、「それは表向きで本当の意味では尊崇していない」ということらしい。

中には、明らかな誤読もしくは意図的な改ざんと思われる主張も見られた。

例えば教学要綱の「日蓮大聖人は、単に釈尊から託された「南無妙法蓮華経」を弘める菩薩である」という一文を抜き取り教学要綱があたかも日蓮大聖人を単なる菩薩であると断定しているかのように見せかける主張があった。

教学要綱を読めば、すぐわかることだが、この一文の後には「(菩薩である)にとどまらず、仏と同じ権能を有して、末法の一切衆生を救う教えを説いた教主である。」と続いている。原本を見ると、この二つの文章の間には句読点すら存在しない。

意図的に文章を切り取り教学要綱の趣旨をミスリードするような人間の主張を鵜吞みにすることはできない。

「時」が大事という点でエピソードを紹介したい。
かつて福島源次郎が宗門に対する不用意な発言で失脚したことは、皆さんご存知であろう。
それからわずか10年後の本部幹部会で柏原ヤスさんが豪快に宗門批判をして拍手喝采を受けていたことは今でも記憶に残っている。
たしか「私たちは宗門の坊主から信心を教わってなんかいないわよね!」という調子だったと思う。
同じ宗門批判でありながら、一方は失脚、もう一方は英雄である。
「時」の恐ろしいまでの峻厳さを感じるエピソードだ。
それを考えると、池田先生に与えられた「時」は、先生が語りたかったことに対して充分足りたのであろうか?
今は、戒壇の大御本尊に関する見解など、先生が直接語らなかったことを弟子が代弁する「時」が到来したと言える。
釈尊滅後に大乗運動が起こり法華経が誕生したのと同じようなことが今後展開されるのかも知れない。