もう2年間、このブログをほったらかしにしていました。

こんな誰も読まないのに自分の自己満足だけで書いても意味がないな、と思っていたからです。

ところが昨夜ブログの読者に遭遇。

こんなものにも興味を持って下さる方がいらっしゃることに驚きと感動が!

というわけで、久しぶりに書いてみることに。

 

今日は8月11日に開催する公演「雪」それぞれの愛について。

 

スーパーフルーティスト 赤木りえさん

キャーッ、めちゃかわゆい-

昔から美人で有名だったけど今はおちゃめな愛くるしい方に成長。

 

この方が今回の公演のパートナー。

 

いろんな曲をやります。

バッハから始まり・・・・・・バッハですよ~

フルートだけじゃなく、私も舞うんですよ

それからタンゴ、実はこれは舞いません

期待を裏切って

 

それから愛する加藤和彦さんの「長相思」

これは舞います。

 
それから地唄舞と言えば❛雪❜
平凡ですが、舞います。
私の舞は平凡ですが、演出がちょいと斬新です。

これを舞わないでフルートとかアコーディオンだけにして、中央にスポットライトを落とし、

私ではなく狸の焼き物を置く、というアイディアもありましたが、さすがに実行の勇気がありません。

 

とまあ、雑多な曲を並べましたが、この選曲に大きな影響を与えた方がいます。

偉大なる小泉文夫先生 

wao!

先生に選曲のご相談をしたら、・・・ということはなく。

大分前にお亡くなりになっています。

民族音楽学の小泉先生には大学時代に半年だけ講義を受けたのですが、その時の衝撃と言うか、

とにかくびっくりした感覚は忘れることができません。

(よくご存じない方は名著「音楽の根源にあるもの」を読んで下さい)

モーツァルトもバッハも美空ひばりも物売りの声も、アフリカの音楽も、もちろんインドの音楽も、

みんなみんな優劣なしに並べて講義なさるんです!

我ら人類、みな兄弟!  なぜ歌ったり踊ったりするかって?

そりゃ人間だもの、と言う感じです。

この時の衝撃が、音楽や芸能への自分の立ち位置をぐいっと変え、何十年もたって今回の選曲に

影響を与えています。

というわけで、バッハのあとはタンゴ、その後は中国風、かと思えばオリジナル曲、しまいには地唄。

これでもまだまだジャンルの垣根がありますね。

 

私の世代にはこの小泉文夫チルドレンを時々見かけるのですが、

今回のパートナー 赤木りえさんもそのお一人です。(まだお若いので前世の記憶だそうです)

チルドレンというには恐れ多いですが美智子上皇后さまが熱心に支持なさっていたことは有名です

 

なので、決してばらばらではないのよ。

そうして小泉文夫先生が民族音楽に興味をもたれるきっかけになったのが

地唄「ままの川」 です ス・テ・キ ❤

その、無駄をそぎ落とした美しさに衝撃をうけられたそうで、

それから日本音楽、民族音楽に関心を拡げて行かれるのです。

 

小泉文夫先生のお話になると今日のブログが終わらないので、

また別の機会に。

 

8月11日、いらして下さいね。

絶対面白く致します。

 

 

 

 

 

今日は、少し理屈っぽくてしかもビジュアル的に何の面白さもないのですが、

地唄舞の腕を上げたい方は読んで頂けると嬉しいです。

 

私は以前は音楽関係の仕事をしておりましたが、特にピアノなどの楽器演奏において

「技術」と「表現力」ということがよく言われ私も考えていました。

今、地唄舞の指導をしていて、そのとき考えたことがとても役に立ち応用しています。

 

「技術」と「表現力」、その両方が相互に影響しあいながらレベルアップしていくことが大切で

どちらか片方だけが飛びぬけたり、劣ったりしていてはいけないし

技術=表現力であることが理想なのですが、地唄舞ではもう一つ「振り」という要素があります。

 

楽器演奏でいうと、読譜に近いですね。楽譜に残されていることを読み、再現する力ですね。

整理してみると

1.振り=読譜 →その先に暗譜

2.技術

3.表現力 

となります。

 

この1.振り=読譜 は最低できていなければならないのですが、一般的に趣味として舞やピアノを習う時、

振りを覚えたり譜面を読むだけで精いっぱいでその曲を終わってしまうことが多いです。

私のところでは「振りの呪縛」と呼んでいます。

でも、音大ではレッスンを受けるときに読譜が出来ていることは最低ラインで、

そこから指導が始まります。

厳しい先生ですと暗譜していないと先生の前に出られません。

楽譜がありますから、新しい曲がきまったら次のレッスンまでにそれはそれは必死で練習します。

まず先生の前でさらっと弾いた後で後ろの先生から怖~い一言が響きます。

‘in tempo' (ぞ~っ)

次に響く先生が革靴で床を踏む音

トントントントン  この速度で弾きなさい、ということです。

意を決してそのテンポで弾き始めます。

でも3回ぐらいつっかえると先生は低い声で言います「今日はもういい

今でも夢に見ます😢

 

地唄舞や日舞でも、一回の稽古でその日の振りを覚えていかないと次を教えてもらえない先生が

いらっしゃいます。

でもね、このギョクジョ先生はそんなことは要求していません。

その代りに早い段階で指導することがあります。

それは「演目における自分なりの解釈」です。

解釈は二種類あります。

①どんな気分で舞うか

②どんなストーリがあって、それが演目構成のなかにどう生かされているか

 

①のどんな気分で舞うか、は音楽で言うと発想記号で表されているものに近いですね。

カンタービレ(歌うように)とかマエストーソ(堂々と)とか、

これは、地唄舞であまり指導されないけどとても大切なものだと思います。

 

②は音楽で言うとアナリーゼみたいなものですね。

あまり分析に適していない演目もありますし、端唄小唄てきなものは感覚だけで舞ったほうが

抜け感がいかされるように思いますが、お能から来ている本行ものなどはちゃんとアナリーゼしないと

表面的なものに終わってしまいます。

その時に一番頼りになるのは、「歌詞」

楽器演奏は主題が出てきて、それが繰り返されて・・・・次の主題は・・・・

とややこしいことを楽譜とにらめっこして考えないといけないのですが、

地唄舞には「歌詞」があります。

その歌詞をちゃんと理解すれば、ここで感情がこう動くのかな、ここは二度見するところだな、と

自分で考えることが出来ます。

 

そういう自分なりの解釈、面白いですよ。

自分が解釈できていると、ご覧になる方もとてもわかりやすくなり、説得力のあるものになります。

でも気をつけないといけないのは解釈はできても「頭で考えている舞」になってしまう、ということです。

そこで解釈ができたらそれをぐるぐるっとまるめて理屈の角々をとって、身体にしみ込ませ自分のものにします。

これにはいわゆる「舞い込む」ということが必要になります。

同じ演目をなんども舞台にかけることで自分のものになっていくわけです。

初心者の段階では同じ演目を繰り返し披露することは難しいですが、機会がありましたら

せめて2回人前で披露して下さい。

2回目のときに、ああこういうことだな、とお分かりになると思います。

 

と、人にはお話しできてもいつも新曲に向かう時は一回だけでやれやれ、と忘れてしまう私です。

 

 

 

地唄舞をお始めになった方が最初に乗り越えなければならないことの一つに

曲のとてもスローなテンポに慣れなければいけない、ということがあります。

現代の、特に職場で要求されるハイテンポと真逆の遅さです。

 

この遅い遅い地唄のなかで「リズム感」というと、あまり関係ないことのように思われるかも

知れませんが、地唄、地唄舞にはリズム感が大切だと思います。

私もあまりリズム感がよくないほうですが、お教えしていて「これはなんとかしたい!」と思うのは

この、頭が強迫で、そこに体重をどすんと落とす「拍子の呪縛」みたいなものから脱出できない方に

お教えするときです。

これは、昔の小学校の西洋音楽教育の悪影響ではないかと常々考えています。

実は私は大学時代に音楽教育学をかなり勉強した(させられた)のに、すっかり忘れているのですが、

とにかくオイチニッ、サンシッと定規で線をひくように拍子を教え、

習う曲もとにかくリズムが単純なものしか教えず、聴かせず・・・・

子供時代、学校にはそんな片言みたいな音楽しかありませんでした。

仕方ないかもしれません。

当時教える先生方が西洋音楽がわからなかったのですから。

当時の音楽の先生にとって、リズム=拍子=算術 みたいなものだったのでしょう。

 

でもね、浪曲はとてもリズムが調子いいでしょう?

西洋音楽を義務教育で教える前の日本の音楽はとてもリズミカルで、変化に富んでいたし、今も富んでいるのです。

日本人は農耕民族ゆえにリズム感が悪く、特に裏拍をとるのが苦手という説もありますが、

例えば能楽においてはいろいろな拍子の割り付けや謡のリズムがあり、演奏上独特のノリを

演出しています。

西洋音楽とは異なるけれど日本音楽のリズム感というものがあるのです。

落語のしゃべりの間の取り方なんて、リズムが絶妙ですね。

 

当然地唄にも豊かなリズムがあります。

もともと音楽は体で感じるもので、四分音符で縦に区切られているものではありません。

でも234と数えて音楽を勉強した体は、地唄舞の豊かなリズムを身体で表現するのが大変。

典型的な例をあげると、地唄舞のごく初歩の曲に、「裏で入る」ところがいくつかあるのですが、

ここが入れません。

 

いつもどうやって体でおぼえてもらうか苦労しているのですが、

先日新発見しました。

西洋音楽でリズム感を磨いたあるお弟子さんに「裏で入って」と申し上げたら

いとも簡単に理解されたのです。

「裏」=アウフタクトAuftakt (弱起) という感覚で理解されたようでした。

でも正確にいうと「裏」=弱起ではないのです。

その方も決して弱起的な動きはされませんでした。

何故なら「裏」は弱拍ではなく、むしろフレーズの始まりの音として格別の意味や重さのある音であることが多く、

西洋音楽でも決して弱拍で表現するとは限りません。

でも、義務教育で弱起と教えてしまったのですね。

「弱起の曲」なんて言葉を覚えさせられたぐらいですから。ショボーン

 

その点、今の子供たちは小学校の音楽もリズムが豊かなものが多く、

「鬼滅の刃」やアナ雪に親しんでいるので。

この子供たちが大きくなって地唄舞を習う時代になると、この苦労は過去のものになるのかしら?

なんて考えたりしています。

少し西洋的な「裏」になるかもしれませんが。

それを言うなら、今の地唄や小唄などの日本音楽を平均率の音階でやってしまう、

これもいつの間にか普通になりましたものね。

忘れ去られるよりはよいのではないかしら?

 

タイトルを「お弟子さんへのメッセージ」としたかったのですが、このブログ、お弟子さんでご覧になっている方は

殆どいらっしゃらないと思うので、長々と独り言を書いて見ます。

 

私は、時々振りを間違えて教えてしまいますが、舞の中で身体の使い方はよくお教えするほうだと思っております。

特に、とりあえず振りを覚えて、さて地唄舞らしく美しく舞うためには・・・・のあたりでとてもしつこくお教えします。

 

何故かというと、もともと舞の筋の良い方、というのは本当にごく少数ですが確かにいらっしゃって、

その方々はよほどダメなところだけ指摘すればできてしまいますが、

私を含め大半の方が、意識して直さなければ地唄舞の動きにならなくて、

曲はたくさんあげたけど、どれもさほどきれいな動きが出来ていない、ということになってしまい、

やはり要所要所は部分的にしつこくお教えして体にしみ込ませてほしい、と思うからです。

今日は、珍しく「茶音頭」という基本に忠実な演目の動画を撮ってありますので、

少し見て頂きたいと思います。

私がよく舞えているわけではなく、あくまでも参考動画としてご覧ください。

 

例えば、動き始めるときに動かさないほうの足をねじって次の足を動かすための身体を準備する。

後にある左足を出す前に右足を軽くねじって進行方向に向けています。

思い切りぐっとねじるわけではありませんが、これをしないとバランスを失ってふらつきます。

足の基本中の基本。

ふらつきやすい方はここを丁寧にやって体重移動をスムーズにやってほしいので、

お稽古のなかでもよく指摘します。

 

次に、扇子の持ち方。

ここは扇子を返して右方向に行くときにつまみに持ち替え、そのまま扇子で顔を隠しています。

つまみにしているので、右肩の落としが柔らかく決まります。

次はお腹の動かし方。

ここは体幹が柔らかく安定していないと難しく、ついつい肩を前に出して表現してしまいますが、

お腹をぐいと動かしていることがよく見える振りなので取り上げました。

そうして、最近私がよく申しあげるのは、荷重の場所です。

ひねるところは体重移動をスムーズに行わないと出来ないのはもちろんですが、

最後に左手を懐手にして左足でトンをして右足を引くところで前足に乗って、

右脚のアキレスけんを伸ばしています。

 

この形は、私が長い間わからないでいた立ち方で、ずっと腰を落とすものだと思っていました。

あるとき師匠の姿を横から見て、あっ、こんな立ち方をするとすくっと見えるのだと気がつき

それからはお弟子さんにもお教えしています。

自分が筋がよくないからこそ出来ないできたことを、今は早めに教えています。

 

次に、ターンするの時の脚の回し方。

ここはちょっとわかりにくい動画になっていますが、

軸足はあくまで右脚、そうして軸足でないほうの左脚を半円にしてくるっと回す。

これも最近よくお教えしています。

ターンが大きい時は右脚のかかとを途中でぐいとひねる、というのもお教えしています。

これは、舞台でお裾をひいたときに効果的に使えると思います。

 

以上、私が体系的に習ったわけでもないので正しいかどうかわかりませんが、

自分が長い間なかなかできなかったことはこれで解決するのではないかと考え、

少しでも皆さんのお役に立つのではないかとお教えしていることの一部です。

 

自分が出来ないからこそ,いろいろ工夫をしていることであって、間違っているかも知れません。

でも、段々体がぶれなくなってきたので、少しはあっているのかも知れません。

こういうこと、昔は「盗む」と言って、あまり手取り足取り教えるものではありませんでした。

でも、不安に思って何年もすごすよりは、少しだけ合理的に教えて納得して頂くことは

必要かも知れません。

 

教えることはとても楽しい。

自分が通ってきた道なので、自分の勉強にもなります。

でも自分の前に伸びる道は、手探りで、半歩ずつ歩いていくだけ。

答えは自分で見つけるしかありません。

もしかしたら教えてしまう私は、自分で考えることを奪ってしまうダメ教師なのかもしれない、

と思うことが多いです。

 

実に半年ぶりのブログです。

 

私の舞はキャッチフレーズが「凛としてしなやか」、これはずっと変えていません。

特に「しなやか」は私の芸風を代表する言葉だと思っています。

 

そのためか、舞の体験その他で「しなやかに動ける」コツを教えて下さい、というリクエストを

時々頂きます。

折角言って下さるのだからリクエストにお応えしようといろいろ考えていて、ハタと膝はたたきませんでしたが、

気がつきました!!

 

しなやかになるコツは、まず自分のお弟子さんにお伝えしなくては!

そこで、少し前からこんなことを考えています。

「しなやかに動くための7箇条」

 

1.力を抜くこと

これは、舞だけではなく何にでも言えることですが、すごく難しい。

これが出来たら、もう何もお教えすることはありません。🙇

 

2.息を流すこと

わかっているけど、ついつい気がつくと息を止めて、身体が固まっている。

ときどき瞬間息をお腹でとめる表現は必要ですが、それは流れているから有効なこと。

 

3.上半身は広げて上に、下半身は落とし、真ん中の丹田でコントロール

みんな落とすと、舞がしぼんでしまいます

 

4.上下運動はためて滑らかに

滑らかに起こせないのは体幹の筋力と柔軟性不足。

ピッと伸ばすと楽ですが・・・・ それはNG

 

5.関節の全てを動かす

身体の固さと、柔らかく動くことは別です。

 

6.背中とお腹八の字

胸は背中で動かして、お腹はわき腹と鼠径部で動かせます。

 

7.離見する

時間をかけてこれを言いたかったのです!

「離見の見」は世阿弥の言葉だそうで、広くとらえると、己の行い、姿を外側から落ち着いて

見ること、などとも解釈されていますが、私が考えるのは純粋に舞の場面です。

例えば舞っている時、動いている自分は自分側におりますが、見ている自分が外側にいる感覚に

陥ることがあり、それは特有の浮遊感を伴います。

実際には動いている時に外側から見ることは不可能なはずですが、自我が空気に溶けて行って、意識を向けたそこに

自分の目が浮かんでいるようななんとも言えない感覚で、私が地唄舞を始めて間もないころに感じて、

あれ、この感覚はなんだろうと思いました。

私のような未熟な者が申し上げても説得力がないかもしれませんが、この離見の感覚に陥れた時は

誰かにどう見られても動揺せず、あがるなんてこともなく、舞い終わっても気持ちがおちついています。

逆にいつまでも舞っている自分側から抜け出せないときは、最後まで「だめだ、だめだ」とむきになり、

これでもかというぐらい力んで、自分的には大失敗で終わります。

 

さて、この7箇条、できれば紙に書いて稽古場に貼りたいぐらいなのですが、それはご迷惑なので

何らかの形で一門の方々にお伝えしたいと思います。