自衛隊の災害派遣における「隊区主義」の弊害 | じろう丸の徒然日記

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1月1日に発生した能登半島地震内閣総理大臣・岸田文雄「総力を挙げて一人でも多くの方を救命、救助できるよう全力で取り組んでほしい」と、非常災害対策本部の会議閣僚らに指示していた。
それは生存率が急激に下がるとされる「発生72時間」を目前にした4日午前のことだった。
司令塔である首相官邸の危機対応は、あまりにも遅いと言わざるを得ない。

 
『月刊日本』2024年3月号で、元朝日新聞記者でジャーナリストの奥山俊宏さんが、実に興味深い意見を述べている。
(以下、引用)
地震発生直後、気象庁はすぐに、地震の規模を示すマグニチュードは7.6で、震源は、石川県珠洲市の海岸線近くの地下にあって、その深さは「ごく浅い」と発表しました。これは阪神大震災(マグニチュード7.3)の3倍近くの規模の地震が、人が住む地面のすぐ近くで発生したということを意味します。倒壊家屋の下敷きになって救出を待っている人が多数いらっしゃるだろうと想像できます。だから72時間以内の人命救助活動が決定的に大切になるだろうことが最初から明らかでした。これは阪神大震災の強烈な教訓です。
(引用、ここまで)
 
ところが、その阪神大震災強烈な教訓がちっとも生かされなかった。
阪神大震災の様子を当時朝日新聞記者として取材した奥山俊宏さんは、そのときの状況を次のように述べている。

(再び引用)
1995年1月17日早朝に阪神大震災は発生しました。私は東京勤務の社会部記者だったのですが、その日の夕方に兵庫県内に入りました。翌18日、芦屋市でアパートの1階がつぶれている現場を見ました。2階に住んでいたという若い男性が、1階に住んでいた親子が出てこないということで、2階の床をこじ開けようとしていました。一人で、です。周りには消防も自衛隊もいませんでした。そんな現場がたくさんありました。もっと多くの救助隊をもっと早く入れていれば助かった命があった、これは間違いありません。
(引用、ここまで)
 
こうした災害発生時に、救助活動の要を担うのは自衛隊である。
だが、このたびの能登半島地震での自衛隊の派遣は、2日目に1000人、3日目に2000人、5日目に5000人派遣規模を段階的にしており、これでは遅すぎる。
道路が寸断されていたのだから仕方がないじゃないか、という声もあるようだが(防衛大臣の木原稔がそんなことを言っていた)、だったらヘリコプターを使って空から行けばいいのだ。
これは自衛隊が悪いのではなく、そういう判断ができずに命令を下せなかった政治の責任である。

 
余談だが、2016年4月14日21時26分以降に発生した熊本地震のときには、当時の首相だった安倍晋三が、珍しく良い動きをした。
地震発生から10分後21時36分晋三は、被害状況の把握や災害応急対策に全力を尽くすこと、さらに国民への情報提供を指示しただけでなく、東京猿楽町で会食中だったのを途中で退席して、21時50分過ぎには官邸に入ったと、Wikipediaには書かれているが、多分これは事実だろう。

 
ただ、米軍からの支援を受け入れたのは、まあ良いとして、救援物資の輸送MV22(オスプレイ)を投入したのはいただけない。
要するに晋三は、オスプレイを国内に配備する口実をつくりたかったのだ。
たしかにオスプレイヘリコプターより速いが、墜落事故も多い。当の米軍も使いたがらないほどなのに、日本政府アメリカのご機嫌を取ろうと躍起になってこの欠陥飛行機を購入している。
実のところ自衛隊は、オスプレイ積載量が同等で容積がより多い、つまりたくさん荷物を積めるCH-47J(チヌーク)という輸送ヘリ70機所有している。

 
【輸送ヘリコプター CH-47JA チヌーク

陸上自衛隊のHPよりダウンロードしました。)
 
さて、奥山さん阪神大震災を取材した経験から、当時自衛隊の災害派遣が遅れた原因について、次のように述べている。
(再び引用)
のちの検証でわかったことですが、このとき障害となったのが、自衛隊の「隊区主義」です。陸上自衛隊では、何か災害が起こったときはまず地元の連隊が対応し、彼らの手に余るようなら上級の師団が対応し、それでも足りなければさらに上級の方面隊が対応するといったように、それぞれの部隊の持ち場が決まっています。
(中略)
ですが、大規模災害は時間との勝負なので、できるだけ多くの人員をできるだけ早く投入する必要があります。通常の災害対応ではなく、モードを切り替えて、トップダウンで派遣を命ずる役割と責任を負っているのは、自衛隊自身ではなく、政府の司の立場にいる政治家です。
(引用、ここまで)
 
ここで出てきた「隊区」について、もう少し具体的に言うと――。
阪神大震災の被害を受けた近畿地方中部方面隊隊区に含まれていて、同方面隊には、第3師団第10師団第13旅団(震災発生当時は師団)、第14旅団4つの大きな部隊のほか、それよりも小規模いくつかの部隊から成る。なかでも兵庫県を担当していたのは第3師団だった。
しかし、大震災が発生した当時、第3師団だけでは足りないから、愛知県などを隊区とする第10師団や、広島県第13師団も投入し、中部方面隊全体で対応すべきではないかという意見が、中部方面隊司令部(総監部)の内部で出ていた。
だが結局、第10師団第13師団被災地に入ったのは、震災発生から72時間が過ぎようとしていた20日の朝になってからだった。

 
どうして師団被災地入りがそんなに遅くなったのか? 実は師団早く被災地に入るべく準備を整え終えていたが、出動の命令が下りなかったのだ。
そのため、師団被災地のすぐ外で、20日の朝まで被災地入りを足止めされる格好となった。
その間、東京政府、防衛庁陸上幕僚監部は見守る姿勢だった‥‥。

 
このたびの能登半島地震が起きた1月1日の夜、防衛大臣木原稔が記者会見で「今回は中部方面隊が中心になります」と表明したのを知った奥山さんは愕然としたという。
なぜなら、中部方面総監部のある兵庫県伊丹市より、陸上総隊司令部のある東京都練馬区のほうが、空路だと能登半島に近いからである。
たしかに、能登半島中部方面隊隊区に入っていて、第10師団の持ち場ではある。
だが、第10師団隷下第14普通科連隊(金沢市)、第35普通科連隊(名古屋市)、第33普通科連隊(三重県津市)陸路能登半島へ行こうとするとおそろしく時間がかかるばかりか、第35第33普通科連隊1月2日に出発していたものの、道路が途絶していたため、なかなか被災地に入れなかったという。

 
だからこの際、隊区などにこだわらずに、お隣の東部方面隊隊区から、新潟県長野県部隊最初の3日間だけでも派遣できたら良かったのだ。
さらにいっそのこと、首都圏陸上総隊直轄部隊を(例えば第1空挺団など)ヘリ真っ先に投入すればなお良かった。羽田から能登空港まではひとっ飛びなのだから。
何となれば、陸上自衛隊における防衛大臣直轄部隊である陸上総隊には、いざというとき、隊区に関係なく、方面隊直接動かす権限があるのだ。
だがそれには、防衛大臣なり内閣総理大臣なりがそういう命令を下さなければならない。

 
しかし、木原稔岸田文雄も、無能ゆえそういう決断を下せなかった。
 
【多用途ヘリコプター UH-1J ヒューイ

(パラシュート部隊:JAPAN NAVYさん https://www.photo-ac.com/profile/2830065
第1空挺団は、陸上自衛隊唯一のパラシュート部隊です。
 
(続きます。)