ベアテ・シロタ・ゴードン著『1945年のクリスマス』(朝日文庫)と、ナスリーン・アジミ、ミッシェル・ワッセルマン共著『ベアテ・シロタと日本国憲法――父と娘の物語』(岩波ブックレット)の2冊である。
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『1945年のクリスマス』
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『ベアテ・シロタと日本国憲法――父と娘の物語』
ベアテ・シロタ・ゴードンさんといえば、終戦間もない1946年に日本国憲法の草案作成の中心人物だったことで知られるが、前者はその自伝、後者はその父にしてリストの再来と言われた名ピアニスト、レオ・シロタと、娘ベアテの物語である。
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(ベアテ・シロタ・ゴードンさん:Joel Neville Anderson(ニューヨーク、ロチェスター、ニューヨーク、米国)。Beyond My Kenによってトリミング(トーク)02:43、2013年1月3日(UTC), CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)
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(レオ・シロタさん。右側の男性:不明な作者 (パブリックドメイン or パブリックドメイン), via Wikimedia Commons)
※1940年頃に撮影。出典:藤田晴子『音楽之友社』2008年。パブリックドメイン画像。左の女性は教え子の藤田晴子さん。
5月3日、私は新潟市内の書店で『ZAITEN』6月号を買い、いつものジャズ喫茶で読んでいたら、佐高信さんと寺島実郎さんの対談が掲載されていて、その中で、思いがけずベアテさんと、その父レオ・シロタさんのことが出てきた。
その記事を読んでベアテさんの自伝『1945年のクリスマス』のことを知った私は、店を出ると、すぐさま別の書店へ行き、その本のみでなく関連書籍の『ベアテ・シロタと日本国憲法』と合わせて2冊買い求めた。
このたびのウクライナ危機に関連して、ウクライナと日本の意外な関係が注目されているが、レオ・シロタさんは1885年、キエフ(キーウ)生まれのユダヤ系ウクライナ人なのだ。
ちなみに娘のベアテさんはウィーン生まれで、国籍はオーストリアだったが、多感な少女時代を両親と共に日本で過ごした。
アメリカ留学中の1941年に日本海軍が真珠湾攻撃を決行、戦争が始まり出国できなくなり、オーストリアにも日本にも戻れなくなった。それでアメリカ国籍を取得した。
レオさんとベアテさん父娘については、佐高さんが今年の3月25日のメールマガジンで詳しく書いてくれている。
それによると、ヨーロッパで公演活動を続けていたレオさんは1928年に初めて来日し、その翌年、ベアテさんを含む家族と一緒に再来日して、東京音楽学校の教授になった。
レオさんは日本をとても気に入ったらしく、同校ではかなり多くの教え子から慕われていたようである。
1941年に、娘のベアテさんが留学しているアメリカへ渡り、リサイタルを開いたが、日米関係が悪化してきていたため周囲からアメリカに残るようにすすめられたが、「日本には私を待っている生徒がいる」と言って帰って来た。
しかし、待っていたのは生徒だけでなく、筆舌に尽くし難い苦労に満ちた生活だった。
戦時中の食糧難の日本で、ひもじさを日本人と共有したシロタさんは終戦時、哀れなほど痩せていたという。
1946年、レオさんは、娘のベアテさんがいるアメリカへの移住を決め、日本を離れた。
教え子の1人、藤田晴子さん(上の画像の女性)は、還暦を過ぎてからアメリカに移住することを決めた師を見て、「日本人は恩知らずな国民なのでしょうか」と嘆いたという。
日本国憲法はアメリカからの押し付けだという人もいるが、その草案の作成に携わったベアテさんは元々はオーストリア国籍であり、最初からアメリカ人だったわけではない。
そして前述したように少女時代を日本で過ごしたベアテさんにとって、日本は故郷のようなものだった。
ベアテさんが日本国憲法に女性の権利を明記しようと尽力したことはよく知られているが、実のところ、ベアテさんが書いた草案の中で3割ぐらいしか憲法の条文に反映されなかったのだと、ベアテさん自身が語っている。
その通らなかった主な条項は、次の3点。(ベアテさんと対談した落合恵子さんが要約した。)
(1)「妊娠と乳児の保育にあたっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる」
(2)「嫡出でない子ども(非嫡出子)は法的に差別を受けない」
(3)「すべての幼児や児童には、眼科、歯科、耳鼻科の治療は無料とする」
5歳で日本に来たベアテさんは、日本の女性たちが家長が決めた相手と嫌々結婚させられたり、客が来ても同席せずに台所で働くばかりなのを目の当たりにしていた。
また、凶作の年に身売りされる農村の娘の話にも衝撃を受けた。
自伝『1945年のクリスマス』でベアテさんは、憲法の条文を考えるとき、日本の娘たちの姿が浮かんできて、女性の権利をはっきり掲げなければならないと決意したと述べている。
しかし運営委員会のケーディス大佐という人が、こういう細かい条項は民法に入れるべきもので、憲法に書くべきものではないと言って、ほとんどカットしてしまった。
それでベアテさんは思わず泣いてしまった。
日本女性の権利を獲得するために泣いて闘ってくれた外国人女性がいたことを、私たちは忘れてはいけないだろう。
最後に、『ベアテ・シロタと日本国憲法』に記されたベアテさんの言葉を紹介したい。
(以下、引用)
日本国憲法は1947年以来、軍国主義だった社会の道徳規範を大きく変え、民主主義と平等の種をまきました。文化的な違いや慣習のために、この憲法が十分に「日本的」ではないと批判する人々もいます。しかし日本の経験からわかるように、世界中の人々は結局、相違点より、はるかに類似点が多いのです。人々はみな、自由、食料、健康、子どもたちの教育、幸福を求めています。普遍的な人権に国境はありません。これらの人権を享受している私たちには、他の人々もそうできるように支援する責任があります。そのために私たちは理想と情熱をもって行動しなければなりません。そうすればその意思が勝るでしょう。そうしなければどうなるかは、考えるのも恐ろしいです。
(引用、終わり)