みんなで作る映画プロジェクト 報告会及び制作関係者懇親会のお知らせ
JIN'S PROJECT映画制作プロジェクト。
被災地の方々と共に、「人を助けることは何か」「ボランティアとは何か」を考える映画をみんなで作るプロジェクト。
企画開始から、ずれにずれ込んだ企画、制作開始、制作過程のご報告をさせて頂きます。
これも約4年間、私たちを支えて頂いた方、御協力頂いた方々、御協賛頂いた方々のお蔭です。
本当にありがとうございます。
また、この日は2011年3月11日に起こった東日本大震災直後、被災地の避難所において開催させて頂いた「映画上映プロジェクト」の再現を致します。
来場される方に、上映するものを楽しんでいただく共に、支援金がどのように使われたかを、より深く理解して頂けれれば幸いです。
(上映内容については、後日情報をあげます)
参加費
3500円(食事、飲み物フリー)
お忙しいとは思いますが、お誘いあわせの上参加宜しくお願いします。
問い合わせ
jinsproject@gmail.com
担当
菅野 090-6652-5567
長谷川 080-3556-8096
被災地の方々と共に、「人を助けることは何か」「ボランティアとは何か」を考える映画をみんなで作るプロジェクト。
企画開始から、ずれにずれ込んだ企画、制作開始、制作過程のご報告をさせて頂きます。
これも約4年間、私たちを支えて頂いた方、御協力頂いた方々、御協賛頂いた方々のお蔭です。
本当にありがとうございます。
また、この日は2011年3月11日に起こった東日本大震災直後、被災地の避難所において開催させて頂いた「映画上映プロジェクト」の再現を致します。
来場される方に、上映するものを楽しんでいただく共に、支援金がどのように使われたかを、より深く理解して頂けれれば幸いです。
(上映内容については、後日情報をあげます)
参加費
3500円(食事、飲み物フリー)
お忙しいとは思いますが、お誘いあわせの上参加宜しくお願いします。
問い合わせ
jinsproject@gmail.com
担当
菅野 090-6652-5567
長谷川 080-3556-8096
東京都 児童養護施設にての活動
活動の報告をさせて頂きます。
■東京都児童養護施設にての活動
12月25日に、東京都北区にある児童養護施設(注1)星美ホーム様(http://www.seibi-home.jp/)にお邪魔させて頂きました。
こちらの活動は(株)大泉工場様(http://www.oks-j.com/)によって1年以上前からFUNFOODの日として開催されております。
私も個人として参加させて頂いておりましたが、来年度より法人として、ご協力させて頂きたいと思いこちらに投稿します。
■FUNFOODの日
私たちは紛争地帯に生活する子ども達が大きな音に対して恐怖感を抱いていることを知りました。
それは、銃声であったり爆発音に対してです。
彼らを助けたい、守りたいという想いから、その恐怖感を楽しい音であるポップコーンの音に変えたいと考えています。
現在は、日本の児童養護施設での活動のみとなっています。
児童養護施設で暮らす子どもたちは何かしらの辛い体験をして抱えているものがあります。
その彼らにポップコーンの弾ける楽しい音で、抱えているものが少しでも和らげれればと思い活動してまいります。
宜しくお願いします。
JIN'S PROJECT 折尾仁
注1 児童養護施設とは...
児童福祉法第41条において、「児童養護施設は、
乳児(ここで言う乳児とは満2歳以下の子どもを言います)を除いて、保護者のいない児童、虐待されている児童、その他環境上養護を要する児童(ここで言う児童とは2歳から18歳までの子どもを言います)を入所させ、これを養護し、あわせて自立を支援することを目的とする施設」と定義付けされております。
また、児童養護施設は児童福祉施設(助産施設、乳児院、母子生活支援施設、保育所、児童厚生施設、児童養護施設、知的障害児施設、知的障害児通園施設、盲ろうあ児施設、肢体不自由児施設、重症心身障害児施設、情緒障害児短期治療施設、児童自立支援施設及び児童家庭支援センター)の中の1つとなっております。
児童養護施設への入所の理由はさまざまです。
父母と死別した児童の他、生活能力のない親に監護されている児童、保護者はいるが、いわゆる虐待を受けている児童等さまざまです。
これらの子ども達の児童養護施設への入所措置は、児童相談所が行っています。
6月のクランクインに向けて
久しぶりの更新になってしまいましたが、最近の活動報告をさせていただきます。
これまで、団体の運営体制の変更、映画製作プロジェクトの監督等の人事面やシナリオの精査をはじめとし、水面下で活動して参りました。
(順次、公式HPの、Facebookページ、映画サイトの更新を行っていきます。)
この度、1月24日に監督、映画製作の発表を含め報告会を開催させて頂く運びとなりました。
(場所など詳細については後日メール配信Facebookのイベントページにて案内をさせて頂きます。)
これもご協賛頂いた方々をはじめ、皆様のお蔭で実現となりましたので、改めて御礼申し上げます。
※映画支援金に御協力頂いた方へ、
当方は、エンドクレジットに寄付を頂いた方の御名前を掲載させて頂きたい希望がございます。
jinsproject@gmail
に御名前の漢字だけでも頂戴出来ると有難いです。
また、あるご縁で、12月17日(水)に、福島出身の方々が集まり定期的に開催されている
懇親会「福島LOVE会」に参加させていただきました。
今回の会場は、新宿の「福島LOVE会」メンバーの方がオーナーを務める飲食店でした。
総勢20名ほどの皆様に、会の冒頭今回の映画「黒い壁」プロジェクトのお話をする機会をいただきました。
宮城県が舞台ではありますが、同じ東北地方の事として、早速趣旨にご賛同いただいた方に寄付をいただけたことは、大変嬉しく今後の活動の励みにもなりました。
今後も毎月「福島LOVE会」には参加させていただき、
さらには規模の大きな懇親会「東北LOVE会」にもプロジェクトの輪を広げていく予定です。
6月のクランクインに向けて、着実にプロジェクトは進んでいますので、
応援よろしくお願いいたします。
引き続き募金もお願いしておりますので、こちらもご協力お願いいたします。
http://kuroikabe.com/kifu/
JIN'S PROJECT
これまで、団体の運営体制の変更、映画製作プロジェクトの監督等の人事面やシナリオの精査をはじめとし、水面下で活動して参りました。
(順次、公式HPの、Facebookページ、映画サイトの更新を行っていきます。)
この度、1月24日に監督、映画製作の発表を含め報告会を開催させて頂く運びとなりました。
(場所など詳細については後日メール配信Facebookのイベントページにて案内をさせて頂きます。)
これもご協賛頂いた方々をはじめ、皆様のお蔭で実現となりましたので、改めて御礼申し上げます。
※映画支援金に御協力頂いた方へ、
当方は、エンドクレジットに寄付を頂いた方の御名前を掲載させて頂きたい希望がございます。
jinsproject@gmail
に御名前の漢字だけでも頂戴出来ると有難いです。
また、あるご縁で、12月17日(水)に、福島出身の方々が集まり定期的に開催されている
懇親会「福島LOVE会」に参加させていただきました。
今回の会場は、新宿の「福島LOVE会」メンバーの方がオーナーを務める飲食店でした。
総勢20名ほどの皆様に、会の冒頭今回の映画「黒い壁」プロジェクトのお話をする機会をいただきました。
宮城県が舞台ではありますが、同じ東北地方の事として、早速趣旨にご賛同いただいた方に寄付をいただけたことは、大変嬉しく今後の活動の励みにもなりました。
今後も毎月「福島LOVE会」には参加させていただき、
さらには規模の大きな懇親会「東北LOVE会」にもプロジェクトの輪を広げていく予定です。
6月のクランクインに向けて、着実にプロジェクトは進んでいますので、
応援よろしくお願いいたします。
引き続き募金もお願いしておりますので、こちらもご協力お願いいたします。
http://kuroikabe.com/kifu/
JIN'S PROJECT
〝黒い壁〟に出会うまでのこと
あの震災が起きた時、僕は家の中にいました。家の中のものが揺れで落ちてきて慌てましたが、この時点で地震の大きさや本当の怖ろしさを実感することはありませんでした。
その後、都内に住む、宮城出身の知人に電話するも、なかなか繋がらず、15時半頃になって、 ようやく彼と繋がり、 多賀城に住む彼の家族と連絡が取れないことを懸念していると聞きました。
この時、はじめて津波が来ていることを知りました。
夜になって、 近くに住む友人たちと合流し、先の知人とも連絡を取りながら、とにかく現地へ物資を運んだり、何らかの手助けができないものかと話し合いました。
翌日には物資などを集めるために奔走しましたが、すでに都内でも物資が不足していて、ようやく集めることができたのは、ほとんどがお菓子でした。知人はなんとかトラックにガソリンを調達してきて、さあ出発しようか、というところで福島第1原発の水素爆発が報じられました。ここで知人と話し合い、ひとまず現地入りは断念することになりました。
14日になって例の知人から連絡入り、「姉と連絡が取れ、多賀城市内の小学校にいるが、彼の妻と子供は依然連絡取れない」ということを知り、現地に行くことを最終的に決めました。
その日の夜に出発し、途中で物資を集めながら行けるところまで行こうということで出発しました。
正直に言うと、この時点ではただの旅行気分に近い気持ちでした。
明けて15日の午前3時頃、福島に差しかかったあたりで車の衝撃で目覚め、道がガタガタになっていることに気づきました。行きかう車もほとんど無い状況で、不安を覚えました。
5時頃、 あたりが明るくなってくると、山から家が滑り落ちていること、新幹線の電柱が倒れかかっているのが分かりました。6時頃、 多賀城桜木近辺に到着。 空は明るく、太陽に照らされた地面は一面真っ黒で、一同、言葉を失いました。
知人の家の近くに車を停め、徒歩で彼の家に向かいました。途中、人が集まって倒れているのを見つけ、まだ、生きてる人もいるのではと、近くに寄ってみましたが、みんな亡くなっていました。
車の中では子供が目を見開き、口も開いていて、もしやと思ってすぐに駆け寄ってみましたが、目と口に泥が詰まって死んでいました。
ここが地元だった知人は変わり果てた街の光景に愕然としていました。
朝8時頃、知人の姉がいるという小学校に到着。
避難所ではすでに物資が、集まってきている一方で、避難所にいない人には物資は分け与えられていませんでした。
その後、他の避難所を回ってみても、物資のあるところと、ないところがあることに気づきました。物資がないところに物資を届けよう、という思いを抱きながら、夜になって東京へ向けて出発しました。
東京に戻ってからは、高田をはじめとする友人たちと今後のプランを相談し、20日には友人、知人を介して様々な物資の募集を始め、呼びかけのメールはさながらチェーンメールのように拡散していきました。
すぐに電話やメールの対応に追われるようになり、手伝ってもらうために、さらに友人たちに声をかけ、集まってもらいました。
全国から送られてくる物資は、日に日にその数を増していき、仕分け作業だけでも大変なことになっていきました。
これは後々の課題にもなったのですが、送られてきた物資の中には、不良品やゴミ処理などと勘違いされたのか、破れていたり、カビ臭い衣類などもありました。
それだけに膨大な数の仕分け作業はおざなりにできない仕事になるんですが、この時点ではそういったことに気付かず、避難所で荷をほどいてみてから初めて見つけて困惑したものです。
物資を運ぶトラックの手配や、災害派遣従事車両証明書の発行などを済ませ、30日には仙台、多賀城、石巻へ出発できました。
この時、震災から2週間が経過し、避難所の人たちも多少は落ち着きを取り戻しつつあるように思えたこと、そして街には街灯もなく、夜になれば真っ暗になる一方、避難所にはTVもなく時間を持て余してしまう環境であることに気づき、映画の上映会を開くことを考えました。
現地の責任者やコーディネーターの方に相談してみると、皆、懐疑的でした。
そこで東京に戻ってから、とりあえず映画の関係者の方々に相談してみましたが、基本的に皆、映画上映については反対で、「そんなことをしている場合ではないだろう」ということでした。
僕自身も漠然と、「まだそのタイミングじゃないのかな」と思えました。
ところが、4月6日に被災地に行ってみると、すでに被災者の方々に映画上映のプランの話が広まっていて、なんと上映希望リストまでありました。映画上映に否定的だった現場の責任者の方々も、一転して映画上映を望んでいて、こうして映画上映会の話はとんとん拍子に進んでいきました。
東京に戻ってからは上映用の機材の調達や、上映作品の許可の交渉などに追われましたが、邦画、洋画、共にいくつかの社が協力してくれることになり、震災を想起させるような場面を含まない作品を使用する、という条件で許可をいただけました。
4月18日から20日の3日間、宮城県内の5カ所の避難所や老人ホームで映画の上映会を開くことができました。
現地では配線ミスなどのトラブルなどもありましたが、避難所にいる被災者の方々も様々な形で協力してくれたおかげで盛況のうちに終えることができました。
ボランティア活動という形で瓦礫の除去や、不明者の捜索などにも参加しながら、被災地とそれ以外の土地との温度差を感じたり、ボランティア活動の意義というものにも意味は見出しながらも、現実には被災者の方々の思いとはすれ違ってしまっている部分があるのではないかという疑問を胸に抱きつつ、とにかく活動を続けてきました。
そして映画の上映会に限らず、訪れた被災地では多くの被災者の方々から感謝の言葉をいただきましたし、同時に、全国から集まった支援物資を送ってくれた人々に代わって届けることができている、という気持ちもあり、自分のしていることを正当化できる要素に自分自身が少し酔ったような、ある種の思い上がりの気持ちが芽生えていたと、今は思っています。
2回目の上映会となった5月中旬、上映準備中に僕は1人の被災者の方に呼び出されました。
彼の言われるがままに駐車場の車の中へついていき、そこでボランティアに対する不満を一気にぶつけられました。
それは僕を通してこれまでに出会ったボランティアの人々に対する怒りの声でした。
最初は僕も負けじと怒鳴りかえしたりもしましたが、やがて2人とも落ち着いてきて、ゆっくりと話をすることになりました。
「黒い壁」とは、その方が津波を形容した言葉です。
その方は実際に家族もろとも津波に押し流された方だったのです。
それまで、自分なりに理解したつもりだったボランティア活動が、まだまだ表面的なものにすぎなかったことを思い知らされました。
およそ数時間、車の中で僕らは語り合いました。
「知らなかったです・・・」
という僕にその方は、
「お前だけ分かったってしょうがねえよ」
と言いました。
「伝えます」
と僕は答えました。
その後もその避難所を訪れる度に僕らは言葉を交わしました。
その方がぶつけてくれた「被災者としての本音」は、僕の胸に深く刻み込まれました。
「伝えます」
そう答えたことを形にするためにこの映画を作ります。
それは正直に言って、「被災者の方たちに観ていただきたい映画」ではありません。
「被災しなかった人たちすべて」に観てほしい、知ってほしい話なのです。
折尾 仁
その後、都内に住む、宮城出身の知人に電話するも、なかなか繋がらず、15時半頃になって、 ようやく彼と繋がり、 多賀城に住む彼の家族と連絡が取れないことを懸念していると聞きました。
この時、はじめて津波が来ていることを知りました。
夜になって、 近くに住む友人たちと合流し、先の知人とも連絡を取りながら、とにかく現地へ物資を運んだり、何らかの手助けができないものかと話し合いました。
翌日には物資などを集めるために奔走しましたが、すでに都内でも物資が不足していて、ようやく集めることができたのは、ほとんどがお菓子でした。知人はなんとかトラックにガソリンを調達してきて、さあ出発しようか、というところで福島第1原発の水素爆発が報じられました。ここで知人と話し合い、ひとまず現地入りは断念することになりました。
14日になって例の知人から連絡入り、「姉と連絡が取れ、多賀城市内の小学校にいるが、彼の妻と子供は依然連絡取れない」ということを知り、現地に行くことを最終的に決めました。
その日の夜に出発し、途中で物資を集めながら行けるところまで行こうということで出発しました。
正直に言うと、この時点ではただの旅行気分に近い気持ちでした。
明けて15日の午前3時頃、福島に差しかかったあたりで車の衝撃で目覚め、道がガタガタになっていることに気づきました。行きかう車もほとんど無い状況で、不安を覚えました。
5時頃、 あたりが明るくなってくると、山から家が滑り落ちていること、新幹線の電柱が倒れかかっているのが分かりました。6時頃、 多賀城桜木近辺に到着。 空は明るく、太陽に照らされた地面は一面真っ黒で、一同、言葉を失いました。
知人の家の近くに車を停め、徒歩で彼の家に向かいました。途中、人が集まって倒れているのを見つけ、まだ、生きてる人もいるのではと、近くに寄ってみましたが、みんな亡くなっていました。
車の中では子供が目を見開き、口も開いていて、もしやと思ってすぐに駆け寄ってみましたが、目と口に泥が詰まって死んでいました。
ここが地元だった知人は変わり果てた街の光景に愕然としていました。
朝8時頃、知人の姉がいるという小学校に到着。
避難所ではすでに物資が、集まってきている一方で、避難所にいない人には物資は分け与えられていませんでした。
その後、他の避難所を回ってみても、物資のあるところと、ないところがあることに気づきました。物資がないところに物資を届けよう、という思いを抱きながら、夜になって東京へ向けて出発しました。
東京に戻ってからは、高田をはじめとする友人たちと今後のプランを相談し、20日には友人、知人を介して様々な物資の募集を始め、呼びかけのメールはさながらチェーンメールのように拡散していきました。
すぐに電話やメールの対応に追われるようになり、手伝ってもらうために、さらに友人たちに声をかけ、集まってもらいました。
全国から送られてくる物資は、日に日にその数を増していき、仕分け作業だけでも大変なことになっていきました。
これは後々の課題にもなったのですが、送られてきた物資の中には、不良品やゴミ処理などと勘違いされたのか、破れていたり、カビ臭い衣類などもありました。
それだけに膨大な数の仕分け作業はおざなりにできない仕事になるんですが、この時点ではそういったことに気付かず、避難所で荷をほどいてみてから初めて見つけて困惑したものです。
物資を運ぶトラックの手配や、災害派遣従事車両証明書の発行などを済ませ、30日には仙台、多賀城、石巻へ出発できました。
この時、震災から2週間が経過し、避難所の人たちも多少は落ち着きを取り戻しつつあるように思えたこと、そして街には街灯もなく、夜になれば真っ暗になる一方、避難所にはTVもなく時間を持て余してしまう環境であることに気づき、映画の上映会を開くことを考えました。
現地の責任者やコーディネーターの方に相談してみると、皆、懐疑的でした。
そこで東京に戻ってから、とりあえず映画の関係者の方々に相談してみましたが、基本的に皆、映画上映については反対で、「そんなことをしている場合ではないだろう」ということでした。
僕自身も漠然と、「まだそのタイミングじゃないのかな」と思えました。
ところが、4月6日に被災地に行ってみると、すでに被災者の方々に映画上映のプランの話が広まっていて、なんと上映希望リストまでありました。映画上映に否定的だった現場の責任者の方々も、一転して映画上映を望んでいて、こうして映画上映会の話はとんとん拍子に進んでいきました。
東京に戻ってからは上映用の機材の調達や、上映作品の許可の交渉などに追われましたが、邦画、洋画、共にいくつかの社が協力してくれることになり、震災を想起させるような場面を含まない作品を使用する、という条件で許可をいただけました。
4月18日から20日の3日間、宮城県内の5カ所の避難所や老人ホームで映画の上映会を開くことができました。
現地では配線ミスなどのトラブルなどもありましたが、避難所にいる被災者の方々も様々な形で協力してくれたおかげで盛況のうちに終えることができました。
ボランティア活動という形で瓦礫の除去や、不明者の捜索などにも参加しながら、被災地とそれ以外の土地との温度差を感じたり、ボランティア活動の意義というものにも意味は見出しながらも、現実には被災者の方々の思いとはすれ違ってしまっている部分があるのではないかという疑問を胸に抱きつつ、とにかく活動を続けてきました。
そして映画の上映会に限らず、訪れた被災地では多くの被災者の方々から感謝の言葉をいただきましたし、同時に、全国から集まった支援物資を送ってくれた人々に代わって届けることができている、という気持ちもあり、自分のしていることを正当化できる要素に自分自身が少し酔ったような、ある種の思い上がりの気持ちが芽生えていたと、今は思っています。
2回目の上映会となった5月中旬、上映準備中に僕は1人の被災者の方に呼び出されました。
彼の言われるがままに駐車場の車の中へついていき、そこでボランティアに対する不満を一気にぶつけられました。
それは僕を通してこれまでに出会ったボランティアの人々に対する怒りの声でした。
最初は僕も負けじと怒鳴りかえしたりもしましたが、やがて2人とも落ち着いてきて、ゆっくりと話をすることになりました。
「黒い壁」とは、その方が津波を形容した言葉です。
その方は実際に家族もろとも津波に押し流された方だったのです。
それまで、自分なりに理解したつもりだったボランティア活動が、まだまだ表面的なものにすぎなかったことを思い知らされました。
およそ数時間、車の中で僕らは語り合いました。
「知らなかったです・・・」
という僕にその方は、
「お前だけ分かったってしょうがねえよ」
と言いました。
「伝えます」
と僕は答えました。
その後もその避難所を訪れる度に僕らは言葉を交わしました。
その方がぶつけてくれた「被災者としての本音」は、僕の胸に深く刻み込まれました。
「伝えます」
そう答えたことを形にするためにこの映画を作ります。
それは正直に言って、「被災者の方たちに観ていただきたい映画」ではありません。
「被災しなかった人たちすべて」に観てほしい、知ってほしい話なのです。
折尾 仁
【節分・餅つきイベント】終了のご報告
2月1~2日にかけ、節分イベントを行ないましたので
ご報告させていただきます。
今回餅つきイベントも行なう予定でしたが、直前に開催先の現地の方が体調不良と
なられた為、無理に開催し負担になることを避けるため中止とさせていただきました。
餅つき開催に際し寄付をいただいたり、臼や杵を貸していただいたり、
ご協力いただいた皆様には本当に申し訳ありません。
また改めて企画できればと思っております。
1日の日は南三陸まで足を伸ばし、防災庁舎跡に伺わせていただきました。
一時は取り壊しが決まっていましたが、
国が保存の為の財政支援を検討するという方向性を打ち出し、現在どうするかの
方向性がはっきり決まっていません。
周囲のほとんどはさら地になり、近くには8m以上もある防潮堤を建設中でした。
町の中心部だったとは思えない光景。
3年たった今もまだ区画整備中でなにもありません。
私達が防災庁舎跡で手を合わせていると、地元の男性が来られ私達に現状や
当時の様子を事細かに教えてくれました。
同じ境遇の周囲の人にはなかなか言えないこともあるのだと思います。
私達に話をしたい。聞いて欲しい。そんな印象のお話の仕方でした。
お昼はさんさん商店街(http://www.sansan-minamisanriku.com/)に立ち寄り、
皆で海鮮丼を食べました。漁業が盛んな地域なだけあり、とても新鮮な海の幸を
美味しくいただくことができました。
現在福興(復興)を担う様々な業種の地元事業者30程の店舗が出店しており、
観光客だけではなく、地元の方々でも賑わっていました。
きらきら丼や切り絵等、地元の皆さんの復興・町おこしの為の頑張りを
肌で感じることの出来る商店街でした。
石巻では大川小学校にも伺わせて頂きました。
周囲は農地復興の為の整備が始まっていました。
しかしもうすぐ3年経とうとしている現在も、まだ見つかっていない大切な人を
捜しておられる方々がおられます。
夜は現地の方と皆で鍋を囲み、現地の佐々木様のお宅へ宿泊させていただき、
震災の話だけでなく、若い頃の話等色んな話を伺いました。
2日は朝から真野仮設に伺い、子供たちと一緒に恵方巻きを作りました。
去年も参加してくれた子が多く、
去年より更に上手に恵方巻きを作っていました。
作った恵方巻きをみんなで今年の恵方『東北東』を向いて食べたあと、
仮設1軒1軒に配ってまわりました。30世帯ある真野仮設も、
引越し等で少しづつ世帯が減り、現在は25世帯程度しか入居されていません。
更に3世帯が退去の準備を進めているそうです。
ある方が、「家の抽選は2回しか出せない。すごい倍率で、全く当たらないよ。。
どんな風に抽選してるのか知らないけど、年寄りがいっぱいはずれてるのに、
若い人達がどんどん当たってる気がする。
2回はずれたら希望も関係なく適当なとこに適当に入れられるんだよ。仮設と違って
家賃を払わなきゃいけないんだから、希望したとこにいれてもらいたいよ。」
と言っていました。
実際はそうではないかもしれません。でもそう思ってしまう。。。
震災からもうすぐ3年。多様化していく問題の端を垣間見た気がしました。
豆まきは、今年もメンバー2名が赤鬼青鬼に扮し行ないました。
「鬼は外!」と大人も子供も鬼に向かって豆を投げ、無病息災を願いました。
子供たちも、それを見守る大人たちも皆笑顔で楽しんでくれていました。
豆まきが終わった後、現地の方々に手作りのお漬物やいなりずし、お吸い物を
ご馳走になりました。美味しくて温かくて、心までぽかぽかしました。
帰り際、お正月『もとあった場所でお店を再開することができました。』
と年賀状をいただいていたパン屋さん、萬楽堂(http://www.i-kanko.com/archives/318)さんに立ち寄りました。
主人の高橋さんは私達を笑顔で迎えてくださり、「本当に沢山の皆さんのお陰で
ここまでこぎつけました。」と話してくださり、珈琲と揚げたてのカレーパンを
ご馳走してくださいました。
今月15日がグランドオープン予定で現在まだプレオープン中でしたが、
お客さんは途切れることなく、パンも既にほとんどが売り切れている状態でした。
木が沢山使われていて喫茶スペースもある落ち着いた店内には、
沢山の笑顔と素朴で美味しいパン達と、これからもっと頑張るぞ!
という意気込みで満ちていました。
帰り際、現地の方々がいつも言ってくれる「ありがとう。また来てね!」という言葉。
ボランティアに行くと、いつも人と人のつながりの温かさ、大切さを改めて感じます。
ご協力いただいている皆様、いつも本当にありがとうございます。
当方は、今後も様々な活動を継続予定です。
現地での活動にご興味のある方は、
jinsproject@gmail.comまでご連絡をお待ちしております。
JIN'S PROJECT


ご報告させていただきます。
今回餅つきイベントも行なう予定でしたが、直前に開催先の現地の方が体調不良と
なられた為、無理に開催し負担になることを避けるため中止とさせていただきました。
餅つき開催に際し寄付をいただいたり、臼や杵を貸していただいたり、
ご協力いただいた皆様には本当に申し訳ありません。
また改めて企画できればと思っております。
1日の日は南三陸まで足を伸ばし、防災庁舎跡に伺わせていただきました。
一時は取り壊しが決まっていましたが、
国が保存の為の財政支援を検討するという方向性を打ち出し、現在どうするかの
方向性がはっきり決まっていません。
周囲のほとんどはさら地になり、近くには8m以上もある防潮堤を建設中でした。
町の中心部だったとは思えない光景。
3年たった今もまだ区画整備中でなにもありません。
私達が防災庁舎跡で手を合わせていると、地元の男性が来られ私達に現状や
当時の様子を事細かに教えてくれました。
同じ境遇の周囲の人にはなかなか言えないこともあるのだと思います。
私達に話をしたい。聞いて欲しい。そんな印象のお話の仕方でした。
お昼はさんさん商店街(http://www.sansan-minamisanriku.com/)に立ち寄り、
皆で海鮮丼を食べました。漁業が盛んな地域なだけあり、とても新鮮な海の幸を
美味しくいただくことができました。
現在福興(復興)を担う様々な業種の地元事業者30程の店舗が出店しており、
観光客だけではなく、地元の方々でも賑わっていました。
きらきら丼や切り絵等、地元の皆さんの復興・町おこしの為の頑張りを
肌で感じることの出来る商店街でした。
石巻では大川小学校にも伺わせて頂きました。
周囲は農地復興の為の整備が始まっていました。
しかしもうすぐ3年経とうとしている現在も、まだ見つかっていない大切な人を
捜しておられる方々がおられます。
夜は現地の方と皆で鍋を囲み、現地の佐々木様のお宅へ宿泊させていただき、
震災の話だけでなく、若い頃の話等色んな話を伺いました。
2日は朝から真野仮設に伺い、子供たちと一緒に恵方巻きを作りました。
去年も参加してくれた子が多く、
去年より更に上手に恵方巻きを作っていました。
作った恵方巻きをみんなで今年の恵方『東北東』を向いて食べたあと、
仮設1軒1軒に配ってまわりました。30世帯ある真野仮設も、
引越し等で少しづつ世帯が減り、現在は25世帯程度しか入居されていません。
更に3世帯が退去の準備を進めているそうです。
ある方が、「家の抽選は2回しか出せない。すごい倍率で、全く当たらないよ。。
どんな風に抽選してるのか知らないけど、年寄りがいっぱいはずれてるのに、
若い人達がどんどん当たってる気がする。
2回はずれたら希望も関係なく適当なとこに適当に入れられるんだよ。仮設と違って
家賃を払わなきゃいけないんだから、希望したとこにいれてもらいたいよ。」
と言っていました。
実際はそうではないかもしれません。でもそう思ってしまう。。。
震災からもうすぐ3年。多様化していく問題の端を垣間見た気がしました。
豆まきは、今年もメンバー2名が赤鬼青鬼に扮し行ないました。
「鬼は外!」と大人も子供も鬼に向かって豆を投げ、無病息災を願いました。
子供たちも、それを見守る大人たちも皆笑顔で楽しんでくれていました。
豆まきが終わった後、現地の方々に手作りのお漬物やいなりずし、お吸い物を
ご馳走になりました。美味しくて温かくて、心までぽかぽかしました。
帰り際、お正月『もとあった場所でお店を再開することができました。』
と年賀状をいただいていたパン屋さん、萬楽堂(http://www.i-kanko.com/archives/318)さんに立ち寄りました。
主人の高橋さんは私達を笑顔で迎えてくださり、「本当に沢山の皆さんのお陰で
ここまでこぎつけました。」と話してくださり、珈琲と揚げたてのカレーパンを
ご馳走してくださいました。
今月15日がグランドオープン予定で現在まだプレオープン中でしたが、
お客さんは途切れることなく、パンも既にほとんどが売り切れている状態でした。
木が沢山使われていて喫茶スペースもある落ち着いた店内には、
沢山の笑顔と素朴で美味しいパン達と、これからもっと頑張るぞ!
という意気込みで満ちていました。
帰り際、現地の方々がいつも言ってくれる「ありがとう。また来てね!」という言葉。
ボランティアに行くと、いつも人と人のつながりの温かさ、大切さを改めて感じます。
ご協力いただいている皆様、いつも本当にありがとうございます。
当方は、今後も様々な活動を継続予定です。
現地での活動にご興味のある方は、
jinsproject@gmail.comまでご連絡をお待ちしております。
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【東日本大震災3年を機に「ボランティアに何ができるか」を改めて問い直す朗読劇】について
私たちは震災から、3年経つ今、被災地の方々の改めて忘れないで
という気持ちをもとに風化させない活動に重きを置く活動をしています。
しかし、実際に被災地に行っていないひと、見ていないひとに伝えていくには
限りがあることも事実です。
被災地で起こっていた現実は、そこにいたひと、行ったひと、見たひとの現実であり、
被災地を知らないひとには現実として写らないのかもしれません。
それは表現の仕方の問題と同じです。
これから先、今回の震災の情報をどのように表現していくか、
そのうえで、今後のボランティア活動を考えるにあたり、
被災者の体験はもとより、私たちボランティア団体の活動も含めて繋ぎ直すことが
必要だと考え、1月31日のチャリティーイベントで来場された方々に朗読劇を
御覧になって頂きました。
今回案内させて頂いた朗読劇は、昨年、めぐろボランティアセンターで御覧になって
頂いた「芝居で被災地を語る」の改訂版です。
以前のボランティアに焦点にあてたものより、本来伝えたかったボランティアと被災者
との関係に焦点をあてたものにと変えました。
○「黒い壁」
タイトルの「黒い壁」とは、実際に津波に流された方が、
津波のことを黒い壁と呼んでいたこと。
あらすじ
(東日本大震災後に映画上映のボランティアに行ったひとの実際にあったお話です)
初めは避難所で映画を上映するのが迷惑だというおじさんに困惑する青年。
だが、青年の両親が他界していることやおじさんが震災の時に津波に流され、
一緒だった母親を助けられなかったことなど、互いの身の上話をするうちに
お互い打ち解けていく。
その後、青年が東京に戻っても連絡を取り合っていたが、
ある日を境に連絡が取れなくなってしまう...。
ボランティアと被災者間はもちろんのこと、ボランティア同士の考えの違い、
ボランティアに行っているひとと、行ってないひととの見えない壁のようなものを
表現できたらと考えました。
○役者の二人
短い稽古時間にも関わらず、それを上手く表現した、
河内大和さん、白倉裕二さん二人の役者が素晴らしい表現をして下さいました。
ところどころ役者泣かせなアクシデントが発生しましたが、
それもまた見事なアドリブによってまとめていました。
(終わった後、3人で本当に大笑いしながら話したことが楽しかった)
おかげさまで、今までの活動のひとつを来場された皆様にお伝えできたかと
思います。本当に感謝です。
*河内大和 http://ameblo.jp/kazu-kochi/
*白倉裕二 http://ja.wikipedia.org/wiki/白倉裕二
JIN'S PROJECT
折尾 仁



という気持ちをもとに風化させない活動に重きを置く活動をしています。
しかし、実際に被災地に行っていないひと、見ていないひとに伝えていくには
限りがあることも事実です。
被災地で起こっていた現実は、そこにいたひと、行ったひと、見たひとの現実であり、
被災地を知らないひとには現実として写らないのかもしれません。
それは表現の仕方の問題と同じです。
これから先、今回の震災の情報をどのように表現していくか、
そのうえで、今後のボランティア活動を考えるにあたり、
被災者の体験はもとより、私たちボランティア団体の活動も含めて繋ぎ直すことが
必要だと考え、1月31日のチャリティーイベントで来場された方々に朗読劇を
御覧になって頂きました。
今回案内させて頂いた朗読劇は、昨年、めぐろボランティアセンターで御覧になって
頂いた「芝居で被災地を語る」の改訂版です。
以前のボランティアに焦点にあてたものより、本来伝えたかったボランティアと被災者
との関係に焦点をあてたものにと変えました。
○「黒い壁」
タイトルの「黒い壁」とは、実際に津波に流された方が、
津波のことを黒い壁と呼んでいたこと。
あらすじ
(東日本大震災後に映画上映のボランティアに行ったひとの実際にあったお話です)
初めは避難所で映画を上映するのが迷惑だというおじさんに困惑する青年。
だが、青年の両親が他界していることやおじさんが震災の時に津波に流され、
一緒だった母親を助けられなかったことなど、互いの身の上話をするうちに
お互い打ち解けていく。
その後、青年が東京に戻っても連絡を取り合っていたが、
ある日を境に連絡が取れなくなってしまう...。
ボランティアと被災者間はもちろんのこと、ボランティア同士の考えの違い、
ボランティアに行っているひとと、行ってないひととの見えない壁のようなものを
表現できたらと考えました。
○役者の二人
短い稽古時間にも関わらず、それを上手く表現した、
河内大和さん、白倉裕二さん二人の役者が素晴らしい表現をして下さいました。
ところどころ役者泣かせなアクシデントが発生しましたが、
それもまた見事なアドリブによってまとめていました。
(終わった後、3人で本当に大笑いしながら話したことが楽しかった)
おかげさまで、今までの活動のひとつを来場された皆様にお伝えできたかと
思います。本当に感謝です。
*河内大和 http://ameblo.jp/kazu-kochi/
*白倉裕二 http://ja.wikipedia.org/wiki/白倉裕二
JIN'S PROJECT
折尾 仁



【第14回チャリティーパーティー】のご報告
先日開催致しました、第14回チャリティーパーティーのご報告をさせて頂きます。
はじめに、年末のパーティーの急な中止、申し訳ありませんでした。
また、昨年中に皆様へ御礼を申し上げることが出来ず、
重ねましてお詫びを申し上げます。
今回のパーティーでは、年末に出来なかったご報告と、
朗読劇【黒い壁】の上演をさせて頂きました。
内容につきましては次のBlogでご紹介させて頂きます。
また、この映画化の話も進んでいます。
時間をかけていた分、よいものを作っていけるのではと考えています。
進捗状況などはまた追ってお知らせいたします。
昨年のJIN'S PROJECTの活動実績をお伝え致します。
2013年の活動は、
●現地に赴いた活動合計12回
●都内での活動合計4回
●ご参加頂いたボランティアは合計123人
●活動の受益対象者は合計22,204人
となりました。
これらの活動はみなさまのたくさんのご協力あってのものです。
誠にありがとうございます。
また、会場には一般社団法人 震災リゲイン様の事務所をお借りしました。
一般社団法人震災リゲインは、
2011年4月から活動を続けてきた震災専門マイクロメディアです。
全国の震災情報を収集し、ネット上でのアーカイブと発信を行っています。
また、震災専門誌『震災リゲインプレス』を全国のお茶の間に毎号4万部発行
されています。
今回も、皆様よりいただきました参加費につきましては、
一部の経費を除き、
復興支援の活動資金にあてさせていただきます。
今回集まりました義援金は54,875円となりました。
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
震災から3年を迎える今、
『記録する、伝える、備える。』をテーマに
『避難者』のお手伝いを精一杯させて頂きたいと思っております。
これからもJIN'S PROJECTをよろしくお願い致します。
JIN'S PROJECT



はじめに、年末のパーティーの急な中止、申し訳ありませんでした。
また、昨年中に皆様へ御礼を申し上げることが出来ず、
重ねましてお詫びを申し上げます。
今回のパーティーでは、年末に出来なかったご報告と、
朗読劇【黒い壁】の上演をさせて頂きました。
内容につきましては次のBlogでご紹介させて頂きます。
また、この映画化の話も進んでいます。
時間をかけていた分、よいものを作っていけるのではと考えています。
進捗状況などはまた追ってお知らせいたします。
昨年のJIN'S PROJECTの活動実績をお伝え致します。
2013年の活動は、
●現地に赴いた活動合計12回
●都内での活動合計4回
●ご参加頂いたボランティアは合計123人
●活動の受益対象者は合計22,204人
となりました。
これらの活動はみなさまのたくさんのご協力あってのものです。
誠にありがとうございます。
また、会場には一般社団法人 震災リゲイン様の事務所をお借りしました。
一般社団法人震災リゲインは、
2011年4月から活動を続けてきた震災専門マイクロメディアです。
全国の震災情報を収集し、ネット上でのアーカイブと発信を行っています。
また、震災専門誌『震災リゲインプレス』を全国のお茶の間に毎号4万部発行
されています。
今回も、皆様よりいただきました参加費につきましては、
一部の経費を除き、
復興支援の活動資金にあてさせていただきます。
今回集まりました義援金は54,875円となりました。
心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。
震災から3年を迎える今、
『記録する、伝える、備える。』をテーマに
『避難者』のお手伝いを精一杯させて頂きたいと思っております。
これからもJIN'S PROJECTをよろしくお願い致します。
JIN'S PROJECT



新年のご挨拶
明けましておめでとうございます。
昨年は皆様のご協力を賜ることで、
東日本大震災に対する、復興支援のお手伝いを
継続させて頂くことが出来たことを心より御礼申し上げます。
被災地では、
『記録する、伝える、備える。』
未来へ向けたスローガンを掲げています。
また、『避難者』が274,088人いるという現実も含まれています。
JIN'S PROJECTも、
『記録する、伝える、備える。』、『避難者』のお手伝いを
精一杯させて頂きたいと思っておりますので、
本年も御支援の程、何卒宜しくお願い致します。
それでは、
今年も震災で犠牲になられた21,793人の優しさと温かさが
皆様に受け継がれることを祈って・・・
JIN'S PROJECT 代表 折尾仁
昨年は皆様のご協力を賜ることで、
東日本大震災に対する、復興支援のお手伝いを
継続させて頂くことが出来たことを心より御礼申し上げます。
被災地では、
『記録する、伝える、備える。』
未来へ向けたスローガンを掲げています。
また、『避難者』が274,088人いるという現実も含まれています。
JIN'S PROJECTも、
『記録する、伝える、備える。』、『避難者』のお手伝いを
精一杯させて頂きたいと思っておりますので、
本年も御支援の程、何卒宜しくお願い致します。
それでは、
今年も震災で犠牲になられた21,793人の優しさと温かさが
皆様に受け継がれることを祈って・・・
JIN'S PROJECT 代表 折尾仁
チャリティーイベントにて、被災地の問題点を体験する
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
JIN'S PROJECTの松本隆太です。
ご報告もさせていただきましたが、
先日、第13回チャリティパーティーを開催いたしました。
その時に、行われた参加型の余興についてお話します。
その場にいた、ゲスト・ホストが被災地の現状を体験するというものです。
ストーリーテラーは代表の折尾が勤めました。
私の役柄は、被災を経験し生き残るも、復興の過程において
その歩みを遅らせる原因の一つとなっている問題を演じました。
内容は、被災地復興事業の中で、その土地の現状復帰や災害に強い地域作りを
進めて行く過程があります。
それは地検者や関係者と話し合い、合意を得た上で事を進めて行きますが、
スムーズに進みません。
理由は、地検者や関係者に不利益が生じる、または利益が得らない等の理由により
話には応じない人がいるというものでした。
これは一般には報道等されることの無いものですが、一つの真実であり、
他にも様々な問題がある事を十分に考えていける内容でした。
短い時間の中に、3月11日~現状の問題まで、
ある人は、被災者それぞれの立場を演じ、
ある人は、様々なボランティアの立場を演じ、
ある人は、それを第三者として垣間見る現実の自分を体験しました。
演じてみて思った事は、それぞれの主張は、それぞれにとって譲れない現実問題
であり、公共の利益か、個人の利益かは震災から時がたち、被災地の人たちの
思いは変わってきており、外から被災地に関わる為にはその事も十分に考慮して
いく事が大切だと感じました。
復興はまだ道半ば、それでも時間が過ぎていく中、問題は山積しつつ
解消されないまま有耶無耶の内に、風化して行く気がします。
人が人の立場になって考えるには、常に意識することが大切であり、
自分自身の知識や考えを常に広げていく努力が大切であることを改めて知りました。
JIN'S PROJECT
松本隆太
JIN'S PROJECTの松本隆太です。
ご報告もさせていただきましたが、
先日、第13回チャリティパーティーを開催いたしました。
その時に、行われた参加型の余興についてお話します。
その場にいた、ゲスト・ホストが被災地の現状を体験するというものです。
ストーリーテラーは代表の折尾が勤めました。
私の役柄は、被災を経験し生き残るも、復興の過程において
その歩みを遅らせる原因の一つとなっている問題を演じました。
内容は、被災地復興事業の中で、その土地の現状復帰や災害に強い地域作りを
進めて行く過程があります。
それは地検者や関係者と話し合い、合意を得た上で事を進めて行きますが、
スムーズに進みません。
理由は、地検者や関係者に不利益が生じる、または利益が得らない等の理由により
話には応じない人がいるというものでした。
これは一般には報道等されることの無いものですが、一つの真実であり、
他にも様々な問題がある事を十分に考えていける内容でした。
短い時間の中に、3月11日~現状の問題まで、
ある人は、被災者それぞれの立場を演じ、
ある人は、様々なボランティアの立場を演じ、
ある人は、それを第三者として垣間見る現実の自分を体験しました。
演じてみて思った事は、それぞれの主張は、それぞれにとって譲れない現実問題
であり、公共の利益か、個人の利益かは震災から時がたち、被災地の人たちの
思いは変わってきており、外から被災地に関わる為にはその事も十分に考慮して
いく事が大切だと感じました。
復興はまだ道半ば、それでも時間が過ぎていく中、問題は山積しつつ
解消されないまま有耶無耶の内に、風化して行く気がします。
人が人の立場になって考えるには、常に意識することが大切であり、
自分自身の知識や考えを常に広げていく努力が大切であることを改めて知りました。
JIN'S PROJECT
松本隆太
一本松奉納のご報告
今回は、10月21日に行いました、「一本松奉納」のご報告をさせて頂きます。
【動画】 能楽『陸前高田 一本松奉納』~羽衣
https://www.youtube.com/watch?v=cES7MJ3Lb0A
*一本松奉納*
2kmに渡る高田松原の中で唯一残った松をはじめて見たとき、
それは7万本と言われた松原の松を再生させる、
とみずから宣言する松そのものの意志と私には思えたのです。
ところがその後 潮の影響があって松は枯死してしまい、保存されることになりました。
この事を聞いたとき、大変残念にも思いましたし、おそらくこれを聞いた多くの人が
思ったように、外観だけを抜け殻のように保存することにどれだけの意味があるのか
訝しんだものです。
しかし今年はじめて再生された松を見て、あまりにも生き生きと、瑞々しい松の様子に
驚嘆しました。
幹の表皮を活用して再生させた技術にも依るものでありましょうが、
この松を残すのだ、ここから松原を再生させるのだ、
と信じる高田の人々の、その思いが松に宿ったものでありましょう。
まさしく高田の一本松は魂が宿る木となったのです。
この日奉納しました能「羽衣」は、場所こそ静岡県の三保の松原ですけれども、
高田松原と同じように海辺に生える松原の松の枝に天女が掛けた羽衣をめぐる
物語です。
能の物語では天女は漁師から羽衣を返してもらう代わりに
天上世界に伝わる舞を見せることになります。
しかしそれは単純に羽衣を返してもらうお返しとして舞を見せるのではなく、
人間世界に「七宝充満の宝を降らし、国土にこれを施し給う」祝福の舞でした。
幸福を人間界にもたらして、松原から天空指して舞い上がって行く天女の姿。
もとより神が宿る松であってみれば、天女は松の木を拠り所として
天降って来たのです。
漁師に一度は隠された羽衣を返してもらうために舞を見せる天女ですが、
彼女は漁師の要求にはなかった幸福を人間に与えています。
もしかしたら、最初から天女は人間と語らい、
この世界に幸福を満ちあふれさせる事が最初からの目的だったのではないかとさえ
思います。一本松が枯死してしまったのも、
それを通じて人間を団結させるために天が用意した試練かもしれません。
そうして再生した松には幸福を降らせる天女が天降るでしょう。
この度の高田の一本松の奉納でも、幸せがこの地に満ちあふれる事を願って、
そのつもりで「羽衣」の天女の役を勤めさせて頂きました。
JIN'S PROJECTでは来年、この松の前で本格的な薪能を上演するべく計画を
進めております。能は演劇でありながら神と人とを繋ぐ橋渡しをする事を重要な
使命として演じられます。
願わくはこの魂の宿った松の下で幸せを届ける役目を勤めてみたいと
願っております。
「能楽の心と癒やしプロジェクト」
代表 八田達弥
http://blog.goo.ne.jp/nuenokai
https://www.facebook.com/nohgakuproject
■舞台装飾協力
ともしびプロジェクト
http://tomoshibi311.com/
■撮影協力
babel label
http://babel-pro.com
■取材協力
朝日新聞
http://www.asahi.com/
ご協力頂いている皆様心より御礼申し上げます。
また、今回新たにご協力頂いた方々にも改めて御礼申し上げます。
JIN'S PROJECT
