早い決断だったので、出来レースだと想像した。
元々この雑誌は部数が落ち込んでいた。そのため、廃刊を検討していたはず。それで廃刊前に話題になることをやれという指示が出ていたんじゃないだろうか。社長のお詫び文は事前に何にでも対応できるような内容で用意されており、多少の修正をして出された。そして、役割を終えて花火を打ち上げた新潮45は廃刊発表して収束を図る計画通りの手はず。もし仮に新潮45が今回の特集で爆発的人気を博せば延命されたかもしれないが、そんなことはなく既定通りに廃刊に至ったようなのだ。雑誌を編集できる十分な体制がなかったとか言っているし、たたむ寸前の打ち上げ花火でとりあえず注目は集まったのでよいのだろう。

週刊誌も含めて、嘘や取材不足や一方的な断定が横行している記事ばかりなので、どんな記事でも驚かないが、噂ではひどい内容だったそうだ。とにかく、嘘を書くのはやめてもらいたい。ネットも含めたすべての記事に言いたい。取捨選択は行うが、嘘は少ないに越したことはない。想像なら想像、仮説なら仮説と明示すべきである。今、世の中は多様性の時代であり、何が常識で何が非常識化は簡単に定義できない。その状態で嘘とか正しいとは言えない内容を出されると、それがあたかも真実のように拡散されてしまう。ネットでも雑誌でも目先の盛り上がりだけを求める奴らの記事は信用できない。信用できない記事はないことよりもはるかに質が悪い。そういう意味では一つ悪書がなくなったと言うことか。
この件とヘイトが一緒くたに議論されるのがちょっと理解できない。マジョリティのための選択を行うのが民主主義だから多かれ少なかれヘイトは存在するのだが、マジョリティによる排他はヘイトではなく、少数が行うヘイトのみがヘイトとして排除されるのは、マジョリティの強要に他ならない。
みんな仲間、みんなお友達という気持ちの悪い表面だけの世界を作りたいのなら排除するだろうが、別に多少の好き嫌いがあってもいいんじゃねと思ってしまうのだ。好き嫌いなんて何かあれば変わってしまうし、抑制する方が始末が悪い気がするけどねぇ。
ヘイトを煽っていると思われると嫌だな。ヘイトを肯定しているわけではない。ヘイトを無理に押し込めることには危険がある気がするだけだ。人間にはいろんな感情があるので、ただ一つの考え方だけが正しいと強要されることがより良い世界を作るただ一つの手段なのだろうか?

こんなこと書いているとヘイトされるんだろうなぁ。
いやぁ、ワイドショーネタがあって、ワイドショーは嬉しいだろうなぁ。典型的な騒動だ、王道だな。
私とかから見ると、ただの遺産相続争いでしょといか思えないし。どんなに理念とかきれいごとを言ってもねぇ、結局は遺産相続の争いごとだし。
事務所の経営権とか著作権とか、主導権争いだよね。結局親や配偶者が生んだ成果を取り合っているだけで、どうでもいいよ。歌は残っているし。
大体、平尾昌晃氏が新人歌手に手を付ける人だったことは有名なことだし、畑中葉子氏もそうだと言われている。彼女はポルノ女優になっちまったが。
親も親なら子も子だなって思ってしまうのは私だけだろうか。まぁ、親の七光りで生きてきたからそれがなくなると死活問題なんだろうな。
いいなぁ、七光り。わが一族には全くその要素がないなぁ。
新潮社の雑誌が読む価値がないと思っている私は当然読まないのだが、別に新潮社がどういう意見を持っていてもよい。新潮社をバッシングする気もない。新潮社の社長の見解もあったが、特に内容は国会答弁で具体性はないので、きっと謝る気はないんだろうなと思う。話題になればよいのだろう。
ただ、間違っているから正しくしろというのは、閉塞感を生む。議論が必要だと言いつつ他人の意見を聞かないのと同じである。人は個人的に付き合えば頭から拒絶することはない。ネットなどで人と触れ合わないから極端な物言いになるのだ。ネットは人の物言いを極論にさせる。人に理解させる文章を書くには技術が必要だ。誰もがそれをできるわけではない。短い文章の中で結論だけを書き、目立つ表現に走れば極論になるのだ。これを機に論壇の再生をとか言う人もいるが、議論とは相互に理解しあう努力で成り立つ。相手の文章の齟齬をつつき、揚げ足を取り、否定していては議論になるはずがない。
新潮社に期待することは全くないが、その他の主張や論考にも期待はない。

ところで、生物の本能は子孫を残すことである。より多様な子孫を残すためにオスとメスがあり遺伝子を混ぜる。日本の制度は、若者が老人を扶養するモデルである。増加する一方の老人を減少する一方の若者が支えるのだ。誰でも税金を払っているというが、税金を払うのは当たり前のことである。税金を払っていれば同じ権利があるわけではない。私にはなぜ扶養の概念が必要なのかわからない。生産性の話をするつもりはない。子どもを持つ家庭よりもよほど稼いでいるかもしれない。だが、長い目で見て果たしてどうだろうか?何世代も続く家族とその世代で終わる家族ではどうだろうか?働き手ではあるが、後継者はいない。
それでよい人はそれでよいが、みんなで扶養する必要はないと思うだけだ。
そのうちに、医学が進みどんなカップルでも子孫が残せるようになるかもしれない。それが生物的に危険かどうかはすぐにはわからないが、化学の進歩で何とかなるんだろう。そしたら、もう、誰が父親で誰が母親かは、うちは父親2人とか、うちは母親2人とかになるのだろうか?それではバイセクシャルの場合はどうなるのだろうか、重婚か?そのときは3人の遺伝子を混ぜるのか?だんだん子どもの産み方が工場的になりそうだ。そうすると地球(テラ)へ・・・の世界になるなぁ。自然出産の方が極めて異常な出来事となる世界になってしまう気がするなぁ。

要するに、この件に対して、私としては、人類と言う種の在り方の議論である気がしていて、LGBTのような存在に対して否定的な主張があることも自然であって、その主張自体を悪と決めつける方がよほど言論の自由を失うと考えている次第である。ついでに言うと敵対したいわけではなく、種の保存に対して自由に生きる分代償もあるよねってことだけである。それを人の自由と思うか、義務を果たしてないと思うか、両方いてもそれで健全なんじゃないかな。
結局、きれいごとを言う奴らに限って、意に反する主張は粗を探して否定する。それで論争をとはおこがましい限りである。