新潮社の雑誌が読む価値がないと思っている私は当然読まないのだが、別に新潮社がどういう意見を持っていてもよい。新潮社をバッシングする気もない。新潮社の社長の見解もあったが、特に内容は国会答弁で具体性はないので、きっと謝る気はないんだろうなと思う。話題になればよいのだろう。
ただ、間違っているから正しくしろというのは、閉塞感を生む。議論が必要だと言いつつ他人の意見を聞かないのと同じである。人は個人的に付き合えば頭から拒絶することはない。ネットなどで人と触れ合わないから極端な物言いになるのだ。ネットは人の物言いを極論にさせる。人に理解させる文章を書くには技術が必要だ。誰もがそれをできるわけではない。短い文章の中で結論だけを書き、目立つ表現に走れば極論になるのだ。これを機に論壇の再生をとか言う人もいるが、議論とは相互に理解しあう努力で成り立つ。相手の文章の齟齬をつつき、揚げ足を取り、否定していては議論になるはずがない。
新潮社に期待することは全くないが、その他の主張や論考にも期待はない。

ところで、生物の本能は子孫を残すことである。より多様な子孫を残すためにオスとメスがあり遺伝子を混ぜる。日本の制度は、若者が老人を扶養するモデルである。増加する一方の老人を減少する一方の若者が支えるのだ。誰でも税金を払っているというが、税金を払うのは当たり前のことである。税金を払っていれば同じ権利があるわけではない。私にはなぜ扶養の概念が必要なのかわからない。生産性の話をするつもりはない。子どもを持つ家庭よりもよほど稼いでいるかもしれない。だが、長い目で見て果たしてどうだろうか?何世代も続く家族とその世代で終わる家族ではどうだろうか?働き手ではあるが、後継者はいない。
それでよい人はそれでよいが、みんなで扶養する必要はないと思うだけだ。
そのうちに、医学が進みどんなカップルでも子孫が残せるようになるかもしれない。それが生物的に危険かどうかはすぐにはわからないが、化学の進歩で何とかなるんだろう。そしたら、もう、誰が父親で誰が母親かは、うちは父親2人とか、うちは母親2人とかになるのだろうか?それではバイセクシャルの場合はどうなるのだろうか、重婚か?そのときは3人の遺伝子を混ぜるのか?だんだん子どもの産み方が工場的になりそうだ。そうすると地球(テラ)へ・・・の世界になるなぁ。自然出産の方が極めて異常な出来事となる世界になってしまう気がするなぁ。

要するに、この件に対して、私としては、人類と言う種の在り方の議論である気がしていて、LGBTのような存在に対して否定的な主張があることも自然であって、その主張自体を悪と決めつける方がよほど言論の自由を失うと考えている次第である。ついでに言うと敵対したいわけではなく、種の保存に対して自由に生きる分代償もあるよねってことだけである。それを人の自由と思うか、義務を果たしてないと思うか、両方いてもそれで健全なんじゃないかな。
結局、きれいごとを言う奴らに限って、意に反する主張は粗を探して否定する。それで論争をとはおこがましい限りである。