多少 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

寺に勤めている。

 

坊主である。

 

仕事は、一掃除二勤行だ。

 

年回法要や葬儀式を勤めることもある。

 

先日も、葬儀に伺った。

 

そこで、質問をうけた。

 

故人さまを荼毘に付している際だった。

 

「お念仏は沢山称えなければご利益がいただけないのでしょうか」

 

故人さまのご子息だった。

 

50才くらいとお見受けした。

 

(ん~)

 

少し考えた。

 

法然上人はおっしゃっている。

 

法然上人は浄土宗をお開きになった方である。

 

「お念仏の数が少ないからといって、仏さまのお救いを疑ってはいけません。一回でも十回でも十分なのです」

 

お経にも記されている。

 

「お念仏の教えに出会った人がいた。

 

この人は、お念仏にめぐりあえたことを心から喜んだ。

 

そして、一声お念仏をお称えした。

 

これにより、この人は極楽往生の利益をいただけた」

 

つまり、一回のお念仏でご利益にはあずかれるのだ。

 

ならば、先程の質問への解答は決まっている。

 

(一遍でも十遍でもご利益はいただけます)

 

お念仏のご利益は阿弥陀さまからいただけるお救いである。

 

死後、西方極楽浄土へと導いていただくことである。

 

ところが、ややことなる教えもある。

 

法然上人は述べておられる。

 

「念仏は、一念でも十念でも往生できると信じて、絶え間なく称え続けなさい」

 

もう少し詳しい説明をなさることもあった。

 

「救いの光は、お念仏を称えるから照らされるのだ。

 

念仏を称えなくなれば、頼りがなくなる。

 

頼りがなくなれば、仏さまはどうして照らすことができようか」

 

つまり継続が大切だとしている。

 

さて、先の質問へどのように答えるべきであろうか。

 

状況によってかわるはずだ。

 

そこでたずねてみた。

 

「何か心配なことがおありですか」

 

すると息子さんがお話下さった。

 

「父はあまりお念仏を称えていなかったと思います。

 

だから、仏さまが救ってくださらないのではないかと心配しています」

 

なるほど、それならば答えは一つである。

 

「すくないお念仏でもご利益はいただけます。

 

仏さまを信頼し、どうかお救い下さいと心が込められていたならば、一遍でも十分です」

 

息子さんに安堵の様子がみられた。

 

阿弥陀さまのお救いは強靱である。

 

 

法然上人のお言葉です。

 

『一念で往生するからといって、必ずしも一念に限ってはなりません。阿弥陀仏の本願の本意は名号を称えることですから、百年でも、十年、二十年でも、まは四年でも五年でも、一年でも二年でも、もしくは七日、一日、十声でもよいのです。信心をおこして、南無阿弥陀仏と申しさえすれば、阿弥陀仏は必ずお迎えに来て下さるのです』

 

【春秋社 法然上人全集第三巻 大橋俊雄先生編P87】

 

ありがとうございました。