寺に勤めている。
坊主である。
仕事は、一掃除二勤行だ。
年回法要や葬儀式を勤めることもある。
先日も、葬儀に伺った。
そこで、質問をうけた。
故人さまを荼毘に付している際だった。
「お念仏は沢山称えなければご利益がいただけないのでしょうか」
故人さまのご子息だった。
50才くらいとお見受けした。
(ん~)
少し考えた。
法然上人はおっしゃっている。
法然上人は浄土宗をお開きになった方である。
「お念仏の数が少ないからといって、仏さまのお救いを疑ってはいけません。一回でも十回でも十分なのです」
お経にも記されている。
「お念仏の教えに出会った人がいた。
この人は、お念仏にめぐりあえたことを心から喜んだ。
そして、一声お念仏をお称えした。
これにより、この人は極楽往生の利益をいただけた」
つまり、一回のお念仏でご利益にはあずかれるのだ。
ならば、先程の質問への解答は決まっている。
(一遍でも十遍でもご利益はいただけます)
お念仏のご利益は阿弥陀さまからいただけるお救いである。
死後、西方極楽浄土へと導いていただくことである。
ところが、ややことなる教えもある。
法然上人は述べておられる。
「念仏は、一念でも十念でも往生できると信じて、絶え間なく称え続けなさい」
もう少し詳しい説明をなさることもあった。
「救いの光は、お念仏を称えるから照らされるのだ。
念仏を称えなくなれば、頼りがなくなる。
頼りがなくなれば、仏さまはどうして照らすことができようか」
つまり継続が大切だとしている。
さて、先の質問へどのように答えるべきであろうか。
状況によってかわるはずだ。
そこでたずねてみた。
「何か心配なことがおありですか」
すると息子さんがお話下さった。
「父はあまりお念仏を称えていなかったと思います。
だから、仏さまが救ってくださらないのではないかと心配しています」
なるほど、それならば答えは一つである。
「すくないお念仏でもご利益はいただけます。
仏さまを信頼し、どうかお救い下さいと心が込められていたならば、一遍でも十分です」
息子さんに安堵の様子がみられた。
阿弥陀さまのお救いは強靱である。
法然上人のお言葉です。
『一念で往生するからといって、必ずしも一念に限ってはなりません。阿弥陀仏の本願の本意は名号を称えることですから、百年でも、十年、二十年でも、まは四年でも五年でも、一年でも二年でも、もしくは七日、一日、十声でもよいのです。信心をおこして、南無阿弥陀仏と申しさえすれば、阿弥陀仏は必ずお迎えに来て下さるのです』
【春秋社 法然上人全集第三巻 大橋俊雄先生編P87】
ありがとうございました。