発見 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

寺に勤め始めてから、龍笛を習い始めた。

 

15年程続けている。

 

儀式では人前で演奏することになる。

 

法要には人様の思いがこもっている。

 

迷惑がかからぬよう稽古を頑張っている。

 

雅楽器には、管楽器、絃楽器、打楽器がある。

 

このうち管楽器は、鳳笙、篳篥、龍笛である。

 

鳳笙は繊細な響きである。

 

篳篥は太くて大きな音が出る。

 

龍笛は、ハスキーな音色である。

 

もちろん、各管、一筋縄では吹きこなせない。

 

龍笛以外は稽古をしたことが……。

 

難しいのだ。

 

龍笛については、体感している。

 

まず、当初はとにかく音が出せない。

 

吹き口に息を入れても風切り音しかしない。

 

通常は音が出せるようになるまでに、3ヶ月から半年くらいはかかる。

 

しかし、音がでるだけではフレーズを吹くことはできない。

 

持続して音を出さなければならない。

 

これにも音が出るようになってから3ヶ月から半年は要する。

 

ただし、稀な人はいる。

 

あっという間に上手くなる方はいる。

 

うらやましい。

 

どういうわけか、私は音だけは早めに出せた。

 

だが、そこからは遅々として進まない。

 

(そうだよな)

 

残念だが仕方がない。

 

不器用なことは昔から自覚している。

 

(あれっ?)

 

それでも、長年続けていると、ときどき発見がある。

 

これまでは、指の第一関節に力を入れていた。

 

これを第一関節と第二関節の間に変更してみる。

 

すると、今までよりも運指が楽になった。

 

以前は口に力を入れて息を吹き込んでいた。

 

それを限界まで脱力するようにしてみた。

 

案外、一息で演奏出来る時間が延びるではないか。

 

こうしたアイディアは、突然降ってくる。

 

下手くそだが、普段から一生懸命技術向上には思いをめぐらせている。

 

しかし、根詰めているときには案が浮んでこない。

 

忘れたころにやってくる。

 

不思議である。

 

いずれにしても発見は楽しい。

 

自分が変るのだから嬉しい。

 

私は、個性的な演奏をしたいとは思わない。

 

自分も周りのひとも好いと思える演奏をしたい。

 

そのために自分が変ることをいとうつもりはない。

 

生意気かも知れないが、何故かそう考えてしまうのである。

 

 

お釈迦さまのお言葉です。

 

『名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。名称で表現されるのもを完全に理解しないならば、かれらは死の支配束縛に陥る。しかし、名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が有ると考えないならば、その人には死の支配束縛は存在しない。その人を汚して瑕瑾(かきん)となる(煩悩)は、もはやその人には存在しない』

 

【岩波文庫 ブッダ神々との対話 中村元先生訳P33】

 

ありがとうございました。