多磨霊園に向かった。
墓前での回向を依頼されたのだ。
(早すぎたな)
約束の90分前に着いてしまった。
遅刻するわけにはいかない。
道路が混んでいることも想定しておかなければならない。
そこで余裕を持って寺を出発したのだ。
(辺りを散策してみよう)
霊園の近くを車で走ってみることにした。
しばらくすると右手に飛行場が見えた。
調布飛行場である。
左手は武蔵野の森公園である。
(トイレを拝借)
一瞬、公園の脇に車を停めた。
(あっ、これは)
すると、公園内にコンクリート製の構造物をみつけた。
掩体壕(えんたいごう)である。
実物は初めてみた。
軍用機を敵の攻撃から守るための格納庫だ。
大東亜戦争時のものである。
昭和19年頃より戦況が悪化した。
本土決戦に備えなければならない。
そこで、残り少なくなった飛行機を空襲から保護するためにつくられたそうだ。
調布飛行場付近には、土塁製も含め130基もの掩体壕があった。
保存されている掩体壕には、陸軍の三式戦闘機「飛燕」が 格納されていた。
機体の全幅は12メート ル、全長は8.74メートルである。
飛燕は高高度に上昇できる数少ない戦闘機だった。
そのため、東京を空襲する米軍B29爆撃機を上空で迎え撃つ役割となった。
戦闘では決死の体当たり攻撃まで行われた。
国分寺市の資料にその一端が記されている。
昭和20年1月9日、調布飛行場から第244戦隊所属の飛燕が発進した。
体当たりをした飛燕の操縦士(高山少尉)は生還できた。
一方、B-29の乗員は全員死亡した。
B29の残骸と搭乗員の遺体が、国分寺町北部から小平町南部にかけて落ちてきた。
(……)
言葉が出ない。
鬼畜米英、一億玉砕がうたわれていたのだ。
もちろん、敵国も同様だったであろう。
50才の私では、当時の方々の想いを真に理解すことなどできない。
だから、軽率に何かを述べることはしたくない。
ただ、やはりお互いにどこかで見誤ったのだ、と言えるであろう。
今の日本は戦争を行っていない。
有難いことである。
しかし、今の我々だって見誤っていることはあるはずだ。
その点については過去のことではない。
したがって、いつでも冷静にものごとを見極めたいと思うのである。
お釈迦さまのお言葉です。
『諸々の欲望に対する貪りを制せよ。―出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたにとって存在してはならない。過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来にはそなたに何もないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執着しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう』
【岩波文庫 ブッダのことば 中村元先生訳P232】
ありがとうございました。