東京、大田区の馬込駅に行った。
十一月下旬だが暖かい日だった。
十四時に用事を済ませた。
この後の予定はない。
夕暮れまで時間もある。
(西馬込駅に向かおう!)
隣の駅まで歩くことにした。
西馬込には、昔、母方の曾祖母の家があったのだ。
いとこ叔父家族はすでに引越ししている。
もう曾祖母の家に縁者はいない。
それでも懐かしさが沸いてくる。
家の有った場所を探したくなった。
最後に行ったのは5才頃だ。
45年も前のことである。
駅からの道順は覚えていない。
記憶にあるのは五点だけだ。
一、まずは駅の裏手に進む。
二、駅から家までは徒歩十五分くらい。
三、坂の途中に家が建っている。
四、家の横にクランク状の階段がある。
五、家の塀は大谷石。
しばらくすると駅に着いた。
(ここからスタートだ)
駅裏の道へと向かう。
見覚えのない街を歩き始める。
(坂の下に茶道教室があったはずだ)
三十分程さ迷った頃に思い出した。
その教室には母親が結婚前まで通っていたようだ。
曾祖母の家に行くと、必ず教室に立ち寄った。
母親が先生に挨拶をするためだ。
私も毎回お茶室に通された。
したくもない正座をさせられる。
「どうぞ」
お菓子が出てくる。
しかし、うれしくない。
パサパサとして美味しくないことは既知のことだ。
大きな茶碗に入った抹茶も出される。
茶碗の割に、中身は少ない。
少なくて結構だ。
(こんなの飲めないよ)
美味しくないどころではない。
苦くて、ぬるくて、不味かった。
(あった!)
一時間程うろうろして、ようやく見つかった。
クランク状の階段が記憶と同じだ。
家は建替えられていた。
坂下も見まわした。
茶道教室はなかった。
再び西馬込駅に戻りながら考えた。
(今なら飲めるのかな)
西馬込の教室以降、抹茶を飲んだことはない。
味覚が変っているかもしれない。
(でも、やめておこう)
美味しく飲めてしまったら寂しい気がする。
もう居ないことはわかっている。
でも、幼い頃の私がいなくなってしまう。
不意にそんな気がしてきたのだ。
お釈迦さまのお言葉です。
『人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである』
【岩波文庫 ブッダのことば 中村元先生訳P181】
ありがとうございました。