テレビの宣伝をみていた。
洗剤の広告である。
「ボールド!」
音楽に合わせて商品名が流れる。
字幕も出ていた。
(ん?)
調べてみると20年以上販売されている洗剤だった。
(ホールドじゃないのか)
再び宣伝が流れてきた際、注意して聞き取ってみた。
濁音だった。
長年、同じ言葉を聞いていたはずである。
ずっと間違えていた。
20年経ってようやく気がついた。
今までも音声が耳に入る前までは「ボールド」だったにちがいない。
しかし、自分の耳を通過すると「ホールド」になっていた。
今は寺に勤めている。
勤め始めて直ぐに雅楽を習い始めた。
楽器は龍笛である。
15年近く教わっている。
勉強のためである。
儀式を人並に勤められるようにしたかったのだ。
何事も簡単に習得できないことはわかっている。
しかし、未だ半人前とは情けない。
上達しない要因において最も厄介なのは自分の耳である。
先生の演奏と自らの演奏に開きがあることはわかる。
だから真似る努力をする。
(リズムを意識して……)
(吹き込みに強を入れて……)
色々と試してみる。
ところが一向に近づいていなかい。
何かが違うことはわかる。
でも、何が違うのかが自覚できていない。
「今の吹き方だね」
百回に一回くらいだが嬉しい評価を受けることがある。
(よし)
そう思ってもう一度吹いてみる。
同じように演奏したつもりである。
「そうじゃないんだよな」
それなのに、すぐさま評価が変ってしまう。
(さっきと何が違うのかわからない……)
「ボールド」でさえ聞き取れていなかった。
先生の演奏も自分の耳を通過させている間に変化させているのであろう。
聴き続けていれば、正解に理解できるのだろうか。
大いに疑問である。
コーヒーの広告によく知られた宣伝文がある。
「違いのわかる男の」
「違いを楽しむ人の」
いつの日かそのように龍笛を楽しめるときが来るのだろうか。
諦めずに頑張るしかない。
法然上人の伝記に記されています。
『法然上人は、釈尊が生涯に説かれた教えについて、よくよく思案されたところ、あれも難しくこれも難しいと思われた。ところが恵心僧都源信の『往生要集』は、もっぱら善導和尚の注釈を指導の書としている。そこで直接それを読まれたところ、その注釈(『観経疏』)には、心が散り乱れる凡夫が称名の行によって、次に生まれ変わる時には浄土に往生できると断定してあり、凡夫が迷いの世界から離れることを、いとも簡単に勧められている。一切経をご覧のたびに、これを見ておられたが、特に注意して読まれること三度、ついに「一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称えて、何時いかなることをしていても、時間の長短に関わらず、常に称え続けてやめないこと、これを正定の業というのである。それは、阿弥陀仏の本願の意趣に適っているからである)」という一節に至って、末法の世に生きる凡夫は阿弥陀仏の名号を称えれば、この仏の本願に乗って、間違いなく往生できるはずだという道理を確信された』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所訳P77】
ありがとうございました。