年末、猫好きの和尚さまのお寺へ行った。
書類を届けるためである。
約束の時間通りに到着し、向拝にて御本尊に手を合わせる。
続いて離れ家の呼び鈴を押した。
「離れに来てくれるかな」
事前にそう言われていたのだ。
「は~い」
インターフォン越しに声がした。
「ごめんなさいね。ちょっと待っていてもらえるかしら」
戸を開けて下さったのは奥さまだった。
玄関には猫グッズが沢山飾られていた。
下駄箱の上にはガラスの猫、陶器の猫、マスコットの猫などが置かれている。
その一番端に茶虎の猫が丸まって寝ていた。
和尚さまの飼い猫が茶虎なのは知っていた。
「おお、よしよし」
可愛いい姿だったので思わず撫でてしまった。
ところが、……手触りがおかしい。
「お待たせ」
その時、丁度、和尚さまが出ていらした。
胸には茶虎の猫がいる。
「その人形、リアルでしょ」
和尚さまは、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
下駄箱の上の猫は人形だったのだ。
私は、本物と見間違えてしまったのである。
「皆さんを驚かせたいのよ」
後ろにいた奥さまは苦笑いである。
(なるほど、だから庫裏ではなく離れ家だったのか)
お茶目な和尚さまに、してやられてしまった。
数日後、青山霊園へお参りに行った。
お施主さまとは墓前で待ち合わせをしていた。
駐車場に車を止め、お墓へ向かう。
場所を思い出しながら歩く。
広い歩道から細い歩道へと入っていく。
足下を確かめながら進む。
広い道は舗装させている。
しかし、細い道は石畳や芝の所もあるのだ。
「おおっ!」
すると、墓所に近づいたとき、思わず場違いな声を出してしまった。
(蛇だ)
……と見間違えたのである。
実際は枯れ枝だった。
クネクネと曲がっていたために勘違いしたのだ。
「どうかしましたか?」
参列者の方が心配して下さった。
「いや~。枝が蛇に見えてしまいまして」
確かに読経前なので緊張していた。
しかし、大失態である。
「えっ?」
皆さん呆れように笑っている。
「冬だよ。蛇がいるわけないじゃん」
参列していた小学生の男の子からも言われてしまった。
「そうだよね……」
あまりにも的確な指摘だったので応答もできない。
我ながら情けない限りである。
唯識の教えに以下のことがあります。
『夕暮れに枯れ尾花を見るとしよう。そのときに、臆病で幽霊が出るのではないかという不安感を懐いて道を歩いている人は、夕暮れにぼんやりみえる枯れ尾花を幽霊にみてしまい、それを怖がる。しかし、心に幽霊の観念をもたない人や、幽霊を怖がらない人は枯れ尾花をみても幽霊とは感じない。恐怖感でそこに存在しない幽霊を見ているのが能遍計であり、見られた幽霊は遍計所執である。その幽霊という自性(それだけで存在しているもの)は存在していない。この幽霊を見るような妄想や錯覚が、私たちの日常を支配していると考えられ、そこで個別にあると妄想されている事象を「遍計所執性」と言うのである』
【大正大学出版会 唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)を読む 廣澤隆之先生著P215】
ありがとうございました。