名号が記された米粒を初めてみたときは驚いた。
米粒名号だ。
名号とは、「南無阿弥陀仏」である。
十五年くらい前だったと思う。
大先輩のお坊さんが目の前で書いて下さったのだ。
左手の親指と人差し指で米粒を摘まむ。
右手には細い筆を持っている。
細いといっても米粒に書くのである。
一見するとサイズ感が合わない。
「ちょっと筆に水をつけたりしてね」
先輩は、筆ペンの先から細い筆に墨をつけた。
おもむろに米粒に筆を近付ける。
右手が細かく動く。
「今日は天気がいね」
世間話をしながらもどんどん筆が進む。
あっというまに出来あがった。
一粒に六文字の漢字が入っている。
信じられなかった。
「書いてみるかい」
興味津々で眺めていると筆を渡してくださった。
もちろん丁寧にお断りした。
絶対に書けるわけがない。
一文字だって無理である。
だいいち、筆を傷つけたら大変だ。
「じゃ、これをあげるから練習してみなよ」
筆入れから、以前使っていた筆をとりだし、私にくださった。
うれしさと、緊張と、重圧が入り交じっていた。
初めはカタカナから始める。
それができたら、漢字五文字までを目標にする。
ここまでは比較的短時間で出来る。
ただ、六文字を入れるには少し努力が必要だ。
そう教えて下さった。
以来、コツコツと練習を続けた。
時々サボって、いや……。
休んでしまうこともあったが、ほどなく六文字を記せるようになった。
我ながらよく頑張った。
ただ、なかなか綺麗に書けないのが悔しい。
今でも悩んでいる。
先輩のように美しくないのだ。
元来、習字が上手くない。
センスがないのだから仕方がない。
加えて、最近は急激に老眼が進んできた。
数年前までは裸眼で筆先がきちんとみえていた。
ところが、焦点が全くあわなくなってきてしまった。
老眼鏡をかけてみても、昔ほどクリアではない。
「こまったな」
ますます美しい名号から遠ざかってしまった。
米粒名号を初めて書かれたのは、山埼弁栄上人です。
大正時代の浄土宗の高層さまです。
『そののち、勧進により自ら創立した善光寺を中心に布教活動を盛んに行い、自らは極貧の生活を送りつつも大衆教化に専心する。米粒に南無阿弥陀仏の名号を書いて結縁のために与えたり、如来像を描いたりする山崎独自の宗教的創造が行われ始める。明治二十七年(三十六歳)ごろには、伝道は関東・新潟から北海道までも及んだ』
【山埼弁栄と「光明主義」運動―その生涯史と先行研究の検討― 鵜澤潔先生論文】
ありがとうございました。