あるお坊さんの話である。
名前をそのまま記すことは、はばかれる。
ここでは覚宥さんとしたい。
覚宥さんは私の先輩である。
読経の声はとても澄んでいてすばらしい。
笙の手移りは全くよどみがなく、演奏は心地よい。
手移りとは運指のことである。
つまりたいへん儀式作法に長けている方である。
先頃、友人が覚宥さんの車に傷をつけてしまった。
車を降りる際、思わぬ強風にあおられて勢いよくドアが開いてしまった。
それが隣に停めてあった覚宥さんの車に激しくあたってしまったのだ。
友人は申し訳なさそうに事情を伝えていた。
「いいよ、いいよ。そういうこともあるよ」
覚宥さんはすぐに返答した。
眉をひそめる素振りなど微塵もなかった。
隣で会話をききながら驚いた。
自分なら、おそらく不快になる瞬間があると思ったからだ。
別の日。
不肖ながら私が舞楽の音頭、つまり独奏を勤めたときのことだ。
舞人は覚宥さんだった。
当曲の演奏の際、私はとても緊張していた。
手が震えて龍笛をきちんと持てない程だった。
演奏の主要部を当曲(とうきょく)と呼んでいる。
なんとか音は出た。
しかし、拍が明らかに乱れていた。
拍子が定まらなければ周りの奏者は戸惑ってしまう。
舞人も動きを合わせるのが困難になる。
「申し訳ございませんでした」
とても落ち込んだ。
情けなさと、悔しさと、恥ずかしさが混雑していた。
「しっかり稽古してこい」
数人の先輩からきびしく駄目だしを受けた。
至極もっともなことである。
ところが。
「そうゆうこともあるよ。でも次はきちんとね」
覚宥さんは、穏やかな口調だった。
さらに別の日。
私が裏方にまわっているときのことだ。
その日も覚宥さんが舞人だった。
舞楽演奏が始まると、私はお堂の端でそのようすをながめていた。
厳かに進行し、お客さまはすっかり見入っていた。
ところが、中盤にさしかかったときだった。
「あっ」
覚宥さんの舞の手が一瞬とまってしまったのだ。
信じられなかった。
覚宥さんが何かをし損じた姿など、これまで一度も見たことがなかった。
「すみませんでした」
皆が裏堂に戻ってくるなり覚宥さんは深々と頭を下げた。
さて、演奏の後片付けを終え帰路につこうとしたとのことだ。
忘れものに気がついた私は、慌てて裏堂に向かった。
すると、向かう途中の部屋に明かりがついていた。
「消し忘れかな」
戸を開けてみると、なんと覚宥さんが舞の稽古をしていた。
「ああいうこともあるよね」
覚宥さんは淡々とつぶやいた。
私だったら気持ちが沈みきり、立ち直るまで時間がかかるはずだ。
それなのに、早速稽古に取り組んでいた。
様々な困難があっても気持ちが上下しない。
人に優しく、自らは真面目で誠実である。
今の時代にも覚宥さんのような立派な僧侶がいる。
まことに尊いことである。
仏さまの御教えに、以下のお言葉があります。
『誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからをととのえ、汚れを除き、気を付けている人こそ「長老」と呼ばれる』
【岩波文庫 ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元先生訳P46】
ありがとうございました。