このあいだ、お昼にそうめんを食べた。
そうめんには、ちょっとした思い出がある。
十五年前の夏、妻と自家用車で旅をしたときのことだ。
東京を朝七時に出発し、ゆっくり十二時間かけて鳥取県・米子まで行く。
そこで一泊した後、三時間かけて島根県・温泉津(ゆのつ)に到着する。
そんな予定だった。
滋賀県・大津サービスエリアまでの七時間は、私が運転した。
そこで妻に交代する。
助手席に座った私は、ゆっくりと寝かせてもらう。
さて、一時間半位で目を覚ますと、周りの様子がおかしい。
信号があり、歩行者がおり、建ちならぶ店もある。
青色の道路標識があり、「加古川」の文字が見える。
名神高速からそのまま中国自動車道に入ればよいのに、なぜか一般道、しかも瀬戸内海側にいるではないか。
「どうしてこうなるんだよ」。
「しょうがないでしょ」。
不穏な空気が流れる中、急いで運転を代わった。
「そうだった、彼女は方向感覚が……」。
地図をみながら、一般道を北上し、ようやく中国自動車道に乗ることが出来た。
しかし、米子に着いたのは夜の十二時だった。
それにしても、私も懲りない奴である。
帰り道、さすがに一本道なら間違えないだろうと、温泉津から米子までを運転してもらうことにした。
ところが、またもうっかり寝てしまった。
気がつくと高速入口のある米子を三十キロも通り過ぎていた。
もちろん、未だ一般道である。
再び不穏な空気が漂い始めた。
一方で、こうなったら「どうにてもなれ」とやけにもなってくる。
取り敢えず、明後日の仕事に間に合えばよい。
開き直った私は、イライラしながらもさらに東へ五十キロ程進み、初めて鳥取砂丘を見た。
その後も、あえて一般道を通り、中国山地を南下する。
十四時頃、鳥取県と兵庫県の県境で「流しそうめん」のお店を横切った。
すると、妻は、山奥にたたずむひなびた雰囲気に誘われてしまったようだ。
「どうしても行きたい」と言い張る。
私は空腹ではないし、気持ちのモヤモヤも引きずっている。
気が乗らない。
が、どうしても譲らない妻に負け、嫌々ながらも入る。
平日、しかもお昼もとっくに過ぎている。
だからであろうか、とても空いていた。
席に案内されると、谷を挟んで三十メートル位離れた小屋から樋が掛けられていた。
そうめんが流れてくる樋だ。
初めての流しそうめん体験に年甲斐もなくワクワクしてしまう。
早速、そうめんが流れてくる。
テーブルや椅子、食器はごくごく普通のものだ。
全く飾り気がない。
しかし、それがいい。
素朴さに心あたたまり、一層そうめんが美味しく感じられてくる。
辺りを覆う木々や、渓流の音、ひんやりとした山の空気も、さらに味をひきたててくれる。
終わりの合図には、サクランボが一つ流れてきた。
明らかに缶詰なのが素朴でいい。
食事を終えて一息つくと、思わず「楽しかったね」とつぶやいてしまった。
いつのまにか不穏な空気も流されていたようだ。
「無量寿経」に、以下の御記がございます。
『〔そもそも〕世間の人々は、親子・兄弟・夫婦・諸々の親類縁者であれば、互いに敬って親愛しあい、〔また〕互いに憎んだり妬んだりすることなく、〔物が〕ある時もない時もともに分かち合い、意地汚く独り占めするようなこともなく、言葉遣いも表情もいつも穏やかで、お互いに誤解し仲違いするようなことがあってはならない』
【現代語訳 浄土三部経 浄土宗総合研究所編p131】
ありがとうございました。