願疫病平癒 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

世界的に疫病が流行している。


こころの安定しない日々が続く。

 

苦しい状況が広がっていく。

 

まさかこれ程までの大事になるとは思わなかった。

 

なんとか早く収束してほしいところだ。
 

疫病による苦しみは、現代だけでない。

 

ご存じの如く、昔の人も大変な苦労をしたようだ。
 

「この天皇の御世に疫病多に起り、人民死せて盡きなむとす」

 

古事記に記されている崇神天皇の時代のことである。

 

「国に疱瘡(天然痘)がはやり、人々が次々と亡くなった。そうこうしているうちに、多くの人が亡くなっていき、収まる気配がない」

 

こちらは日本書紀に書かれている欽明天皇の時代のはなしだ。
 

「朝廷は神泉苑の四門を開いて御霊会を実修した。直接のきっかけはこの年の春の「咳逆」(咳がきみあげてくる気管系の病)の大流行であった。すでに民間においては相つく疫病、災難を御霊のたたりとしてまつりを行っていた。朝廷はそれを取り入れざるをえなかったのであろう。「……近代以来、疫病繁りに発り、死亡するもの甚だ多し、天下以為、此のわざわいは御霊の生す所なり……」(『三代実録』)として崇道天皇以下、六霊をまつったのである」

 

これは清和天皇の時代の内容だ。

 

「(養和の年に飢饉がおこり)前の年はこのようだったが、どうにか暮れを迎えた。次の年は、飢饉から回復するだろうと誰もが期待していた。ところが、そのうち飢饉の上に疫病までが重なった。惨状は広がる一方であり、都は壊滅状態に陥った」

 

安徳天皇の時代も、大変だったようである。
 

もちろん、令和の疫病も厳しい。

 

学校が一か月近く休校になるなんて、どう考えても尋常ではない。

 

とてもつらい状況である。
 

しかし、現代は医学が昔とは比べものにならないほど向上している。

 

沢山の優秀な研究成果があり、最先端の科学技術も発達している。
 

医療従事者、研究者、自衛官、総理、大臣、お役人などが、懸命に対応してくださっている。
 

だから、きっと速やかに解決に向かうであろう。
 

全面的に感謝である。
 

私などは手を合わせることしか出来ない。

 

疫病が止み、皆が健康で安心して生活できるよう、毎日、祈りを捧げている。
 

仏さま菩薩さま、どうぞ我々をお救いお護り下さいませ。
 

 

「大本山百万遍知恩寺」の伝記に、以下のようにあります。
 

『後醍醐天皇の御宇元弘元年の秋七月疾疫流行す。上人(知恩寺第八世善阿空圓上人)敕召に依て參内し、紫宸殿に於て一七日を期し稱名すること一百萬遍なりしかば、願王の覆護立地に顯れ災癘頓に止む』
 

【百万遍知恩寺誌要 百万遍編】
 

*参考文献
・大同館書店 仮名日本書紀下巻 植松安先生著p117
・ノンブル社 仏教と民俗の歳時記 鷲見定信先生著P92
・角川文庫 ビギナーズクラシック方丈記 武田友宏先生編P67
 

ありがとうございました。