後白河法皇と念仏 | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

令和元年十月二十二日は、天皇陛下の「即位の礼」だった。


天皇陛下は、「高御座」にて古式装束「黄櫨染御袍」を御召しになられていた。

 

皇后陛下は、「御帳台」にて十二単を御召しになられていた。

 

お二方ともとても高貴であった。
 

さて古来から「天皇」は、仏教と近しくしておられる。
 

憲法十七條には、「あつく三寶をいやまへ(敬え)。三寶とは佛法ほうし(僧)なり」とある。
 

聖徳太子は、推古天皇から摂政の任命を受けて国政を司った。
 

「春二月、ひのえとらの朔日、皇太子および大臣にみことのりして、三寶をおこさしめ給ふ。この時、諸臣連等おのおの君親のめぐみのために競て佛舎をつくれる、これを寺といへり」

 

日本書紀の推古天皇二年の記である。
 

推古天皇は、聖徳太子たちに三寶(仏法僧)の大切さを広めるようにとおしゃった。
 

「東大寺」ならびに「御本尊・毘盧遮那仏」は、聖武天皇が行基さまと共に建立された。
 

聖武天皇は、仏教を尊い教えとして信仰されていた。

 

「仏教が広まれば人々の心が自然とよくなる」
 

「わるい心がなくなれば、規則で縛らなくても世の中が自ずから安寧になる」
 

このようなお考えにより、国毎に国分寺、国分尼寺を建立された。
 

後白河法皇も、法然上人に教えを受けていらした。
 

信仰は篤く、百万遍念仏の苦行を二百余回まで積まれたそうだ。
 

建久三年(1192)の正月五日、病が重くなってきたので法然上人と往生の際の儀式の相談された。
 

その十三日午後四時頃には、仏さまがお迎えにいらっしゃった。

 

法皇は心乱すことなく御念仏を一心に御称えされた。

 

そして、眠るように往生を遂げられた。
 

「仏教と天皇は全くつながりがない。あるは、つながりはなかった」

 

現代はそのように思っている人もいるであろう。
 

しかし、歴代の天皇には、仏教を篤く信仰しておられた方々が大勢いらっしゃったのだ。

 

令和時代、またそれ以降も天皇の御力により日本が平和であってほしいものである。
 

また、仏さまにも多くの国民を護念していただきたいところである。


後白河法皇の御歌に、以下がございます。

『われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあわれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし』
(自分はいったい、何をしてきてこのように年老いたのだろう。考えてみれば本当に悲しいことだ。今はただ、西方極楽浄土の阿弥陀如来の誓願におすがりしよう。)

【角川文庫 ビギナーズクラシック日本の古典 梁塵秘抄後白河院著・植木朝子先生編P54】

ありがとうございました。

参考文献
・大同館書店  仮名日本書紀下巻 植松安先生編P201
・実業之日本社  国史美談 北垣恭次郎先生著P71
・現代語訳法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編P106