多摩の霊園で歩いていたときのことだ。
その日は、依頼をうけて七七日忌の法要を勤めていた。
はじめに、御堂にて読経を勤める。
その後、納骨の為に墓所へと向かう。
私も皆さまの後ろについて歩いていた。
すると、女の子が私の近くにやってきた。
「私、ときどき《大ばあば》に会うよ」
笑顔で私に話しかけてきてくれた。
大ばあばは、女の子の曾祖母だ。
納めるのは、大ばあばの御遺骨である。
堂内での法要で、「故人さまは極楽浄土におられます。今でもきっと皆さまを見守ってくださっていることと思います」と私はお話しした。
女の子は、おそらく話を聞いてくれたのだろう。
そして、それに応えて話してくれたに違いない。
「そうなんだね。おじょうちゃんの所に来てくれるんだね」
私も和やかに返事をした。
「《大ばあば》は、あなたのことが大好きだったから傍にいたいのよ」
お母さまも笑みを浮かべながら言葉を交えた。
「そっか。いいよ。わたし、一緒にいてあげるよ」
そう答えると、女の子はスキップをしながら先へと進んでいった。
とても無邪気で純粋で優しい子である。
大ばあばも必ずや喜んでおられるであろう。
西方極楽浄土に往生された方は、阿弥陀如来さまのもとで修行を行う。
たちまちに「慈悲の御力」「智慧の御力」を得ていかれる。
そして、その御力で私たちを護って下さる。
どなたかが亡くなれば、それまでのような関わり方はできなくなる。
物理的な触れ合いはなくなってしまう。
悲しいことである。
しかし、つながりが切れたわけではない。
新たな関係性へと変化したのである。
女の子はそれを実際に教えてくれたようであった。
納骨の儀式も温かい気持ちで無事に勤めることができた。
善導大師さまの『法事讃』に、以下のお言葉がございます。
『人天大衆は、皆、集来して仏の尊顔を瞻仰して、未だ耳にしたことがない法を聴聞する。来集した人々は仏を見たてまつり、仏が説きたもう経を聞いて、一同が同じように覚りを得て、自らの命終時に至るまで、浄土に心を寄せて、命終の後には浄土の宝蓮の中に入る。私達は誓って、必ず阿弥陀仏の浄土へと往生し、その後にこの穢土である世界に帰り来たって、人天の救済を行おう』
【山喜房佛書林 善導教学の研究・第二巻 柴田泰山先生著P474】
ありがとうございました。