読経の作法や発声は、初期の修行にて一通り教わる。
お陰で修行を終える頃には、一応の基準に達することができる。
ところが、修行を終えてしばらくすると、だんだんと記憶が曖昧になってくる。
教わった通りに勤めているつもりでも、どこか不安になってくる。
そこで私は定期的に本山の稽古に参加している。
多くの僧が唱え方、動き方の研鑽をしている。
「では、右から順に唱えてみなさい」
読経の稽古は、声明の先生の前で生徒が一人ずつ唱えていく。
三分間位かけて節のついた経文を唱える。
稽古に向かうときから毎回緊張している。
「今日もダメ出しをくらうのかな」「また息が続かなくなるかもな」などと考えてしまう。
「次の次だな」
いよいよ自分の番が回ってくるとなれば、脈拍は異常に上昇する。
口の中はカラカラになり、呼吸は浅くなる。
「失敗間違いなし」の状況に追い込まれる。
「なんとかしなければ」
あまり効果がないことはわかりつつも必死で改善をはかる。
静かにゆっくり大きく呼吸をする。
口を大きく開けたり閉じたりする。
唇を前後左右上下に動かす。
そうこうしているうちに、自分の番が来る。
「思い切っていくしかない」
なにも改善されないままなのだが、一応腹だけはくくる。
唱え終えると先生が講評して下さる。
優しい言葉を頂けることは無い。
「声が前に出ていない」「腹式呼吸が出来ていない」「口先だけで唱えるな」
わかってはいるのだが、やはり気持ちが沈む。
さて、先日、信徒さまから依頼をうけて法要を勤めた。
すると、その後席で施主さまが声をかけてくれた。
「とてもよいお経でした」
思わぬことに、戸惑いながらも嬉しくなった。
もちろん気を使ってくださったに違いない。
ただ、それでも「役に立てたのかもしれない」と思えた。
ひと安心できた瞬間であった。
先生の言葉は非常に厳しい。
四十歳にもなって叱られるのは恥ずかしい。
しかし、本当のことを「ズバッ」と伝えて下さる稽古は有り難い。
なによりも、こうして信徒さまのお役に立っている。
そんな訳で、次回も懲りずに稽古に参加します。
仏さまのお言葉に、以下のお言葉がございます。
『尊敬されるべき真人たちに対する信仰を財となし、安らぎに至るための教えを聞こうと願うならば、聡明な人は(ついには)いろいろのことについて明らかな智慧を得る』
【ブッタ 真理のことば・感興のことば 岩波文庫 中村元先生訳p191】
ありがとうございました。