このあいだ、靖国神社をお参りした。
九段下駅から坂をのぼり大きな鳥居をくぐる。
続いて二つ目、三つ目の鳥居へと向かう。
拝殿まえの階段を数段のぼり、頭を下げて手を合わせる。
心身が律せられ、緊張がはしる。
拝殿の近くには遊就館があった。
入るとすぐに零式艦上戦闘機が展示されていた。
復元されたゼロ戦である。
圧倒される。
館内を二階へ進む。
西南戦争、日清戦争、日露戦争、満州事変等の展示品を拝覧することができた。
順路に従い、一階へ降りる。
こちらには、大東亜戦争で戦って下さった兵士の方々の御遺品や御遺書などが、多数展示されていた。
一つ一つ拝見させていただくと、次第に胸がいっぱいになってきてしまった。
映像や写真で目にするのとはことなる感覚が湧いてくる。
「どのような気持ちで戦地に向かわれたのか」。
「何をお考えになられて、戦いに臨まれたのか」。
私のようなものには、兵士の方々が体験された大変な事態を、きちんと理解することなどとても出来る訳がない。
ただ、そんな愚かな私でも、いかに厳しい状況にいらしたかのかが御遺品から直接伝わってくる。
特攻兵の御遺品の中に、「南無阿弥陀仏」と記された鉢巻があった。
私も端くれながら、念仏を信仰する者である。
阿弥陀さまは死後に極楽浄土へと導いてくださる仏さまであることは知っている。
有り難い仏さまである。
しかし、……。
戻れないことを知りながら局地へ行くのである。
身体が激しく動揺してくる。
御遺書も拝読させていただく。
「何も思い残すことはありません。後はくれぐれもよろしくお願い致します」。
二十歳の青年が記している。
残されているお一人お一人の書にも、前向きな言葉が記されている。
戦地に行かなければ、国が攻めきられてしまうかもしれない。
だから、「自分がやらねば」と意志をかためて下さった方も多いであろう。
ただ、言葉の通りの必死なのだ。
私なら絶対に怖じ気づく。
抱えられないほどの葛藤がのしかかってくる。
胸がしめつけられる。
涙が抑えられなくなってくる。
兵士なのだから人を殺めることもあったのかもしれない。
しかし、名号とともに戦っていた方の御傍には、常に阿弥陀さまがいらしたはずである。
必ず救って下さったにちがいない。
私などには、兵士の皆さまに手を合わせ、謹みてご供養お祈り申し上げることしかできない。
法然上人と甘糟太郎忠綱さまとのお話について、以下のお記がございます。
少々長めではございますが、引用いたします。
『「この忠綱は、武士の家に生まれ、戦の道にたずさわってまいりました。従って、第一義には、先祖の残した名誉をつぶすことなく、第二義には、子孫の栄えを後に伝えるために敵を防ぎ、捨て身にならなければなどと悪心が盛んに起こって、往生したいと願う心が起きてこないのです。もし、この世ははかないものだというわけを思い、極楽往生の勤めに精を出さねばならないという道理を忘れないとしたならば、かえって敵に生け捕りにされてしまうでしょう。いつまでも卑怯者だったという汚名を残して、たちまちのうちに先祖代々伝わってきた家柄をつぶしてしまうことになります。どちらを捨て、どちらを取るべきか、私の心では判断しかねます。武士の家柄を捨てることなく、往生したいという平素の願いをつらぬき通す方法がございましたら、どうぞ一言、お教え願います」と申した。そこで上人は、「阿弥陀仏の本願は、素質がよかろうが悪かろうが、称える念仏の数が多くても少なくても、またその身が浄らかであってもなくても関係なく、いつどこでも、どのような場合であろうと、念仏を称えさえすれば往生できるのですから、どのような理由によって死ぬかということには関係がないのです。罪びとは罪びとのままで、念仏を称えて往生します。これが阿弥陀仏の本願の不思議というものです。武士の家に生まれた人が、たとえ戦場に出て戦い、討ち死にするとしても、念仏を称えたならば、仏の本願に乗って、お迎えいただくことを決して疑ってはなりません」と、懇切丁寧にお教えになったので、忠綱は疑いの心が晴れ、「これでわたくし忠綱の往生は、今日をもって間違いないとわかりました」と喜び申し上げた。』
【現代語訳 法然上人行状絵図 浄土宗総合研究所編p278】
ありがとうございました。