お堂の中に、米粒名号のお守りをおいている。
法要に参列した方々が、随意お持ちになれるようにしてある。
米粒名号とは、「南無阿弥陀佛」と書かれた米粒のことだ。
それをストラップ状に加工してもらい、お守としている。
法要を終えると多くの方が、「これはなんですか」と質問なさる。
そんなときは、「お守りです。どうぞよろしければお持ち下さい」とすすめている。
大抵は「ありがとうございます。いただきます」と、いくつかお持ちになられてやり取りは終わる。
ただ、ときに視力の良い方は、「お米粒が入っていますけれども、何か意味があるのですか」と気がついてくれることがある。
「南無阿弥陀佛と書いてあるんですよ」と、ちょっと得意になって答える。
「お米粒は種ですからね。お念仏の種が心に蒔かれますように、と願いが込めているんですよ」と、説明もする。
すると、「あっ、ほんとうだ。よくみると字が書いてある。どうやって書くんだろう」と、不思議そうに凝視する。
すかざず、「細い筆で書くんですよ」と、少しだけ自慢げに伝える。
書けるようになるまで大変だったので、慢心を許してください……。
先日は、1年前にお持ちになられたご家族がお参りにいらした。
お母さんは、「お陰さまで長男が志望高校に合格しました。お守りのお陰です。ほら、あんたもお礼を言いなさいよ」と、笑顔で報告してくださった。
「よかったですね。おめでとうございます」と声をかけると、息子さんも嬉しそうにうなずいた。
なによりである。
結婚の報告をして下さったかたもいる。
そのかたは、以前、墓参りの後に「息子がなかなか結婚しないんだよ。まあ、こればかりはね。でも心配だよね」と、こころの内を話して下さった。
「よい縁がありますように」と願いを込めて、息子さんと奥さまとご自身のために3つ程お守りも持ち帰っていかれた。
さて、それから数年後、「今度息子が結婚するんですよ」と、再びお墓参りの際に教えてくださった。
「ほら。これ。ずっと持っていたから」と、携帯電話に結ばれてるお守りを見せてくれた。
「おめでとうごさいます」と返事をすると、お父さまは安堵の笑みを浮かべておられた。
ほんとうに、なによりである。
阿弥陀さまにお願いをするときには、こころからお念仏を称えることが大切だ。
御加護をいただいたお二人は、普段の努力とともに、きっとお念仏も欠かさなかったのであろう。
尊いことである。
お守りが、その一助になれていたとしたら、ちょっとうれしい。
法然上人の御教えに、以下のお言葉があります。
『(前文略)
過去、はるか昔の前世から罪業を積み重ねて今あるこの身も、そのように罪を重ねる縁をそなえたままなのです。(修行をやめた時点で)身も心ももとのままならば、何をもって修行の成果とし、罪が滅した証とすべきでしょう。罪の報いを滅した人は輪廻を超えた身となり、そうして覚りを得た者は金色の肌となるのです。阿弥陀さまは本願に「浄土に往生した者の肌はみな金色としよう」と誓われておりますが、お念仏を称える人で、いったい誰が臨終を迎える前に金色となる人がいるでしょう。いかにも才智や分別があるようには振る舞わず、「ひとたび往生の志を発したならば、以後、決してお念仏の相続をやめてしまってはならない」との善導大師のご解釈をただただ仰ぎ、来迎をまつべきです』
【法然上人の御法語3 浄土宗総合研究所編訳P264】
ありがとうございました。