もとめているものはなに  | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

あるお寺の法要の手伝いをしていたとき、法話の時間に御長老が話しておられた。


「自分の人生に納得している人は、自分が何をもとめているかよく知っている」と。
 

そして「よく知るためには、自分の身体と向き合いなさい。落ち着いて、静かに、素直に向き合える時間と環境をつくりなさい」とも。
 

私はいつのまにか「自分がもとめているものねぇ……」と、一人の聴衆となっていた。

 

そういえば、私はテニスが強くなれば幸せになれると思い、ひたすら練習をしていた。
 

目標は、全日本選手権に出場することにした。

 

結果的には、約10年間頑張ったが適えられなかった。

 

ただ、日本ランキングの104位にはなれた。

 

大学の同好会でテニスをはじめた者としては、それなりに強くなれたと思っていた。

 

努力をした自負心もあった。

 

しかし、心にひっかかるものがいつまでも残っていた。

 

それは、目標に届かなかったことかもしれない。

 

でも、それとは別のもののようにも感じられていた……。
 

あるとき、とても信頼している先輩にこのことを話していると、「お父さんとの関係がひっかかっているんじゃない」と、突拍子もないことを言われた。

 

私は「テニスが強くなることと、父親とは何の関係もないですよ」と笑った。

 

しかし、その理由をきいていると「そうかも」と。

 

父親は厳しかった。

 

ときに理不尽と思える厳しさもあった。

 

子供だった私は、それに対抗する知恵も力も勇気もなかった。

 

だから、「強く」なって向き合えるようになりたかったのではないかと。

 

そして、「もしそうならば、段取りをたてて自分の意見を淡々と伝えられる技術を身につけたほうがいいよ」とも。

 

以来、少しずつ勉強し実践していった。

 

まだ完全にスッキリはしていないが、だんだんと心が軽くなっていることは実感している。

 

長老の話は続いていた。

 

「人は自分が求めるべきものを誤解したまま進んでいることがある。巷でいわれている「THE幸せ」を手に入れたところで、自分にはあてはまらないこともある」と。

 

もうこのころには、「いかん」と思いつつも完全に自分の仕事を脇に置いて聴きいっていた。

 

 

お釈迦様のお言葉に、以下のようなお言葉がございます。

『神の質問
「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いてください。」
お釈迦様のお答え
「諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること―これがこよなき幸せである。
適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること―これがこよなき幸せである。
深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること―これがこよなき幸せである。
父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと―これがこよなき幸せである。
施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為―これがこよなき幸せである。
悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと―これがこよなき幸せである。
尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと―これがこよなき幸せである。
耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、もろもろの〈道の人〉に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと―これがこよなき幸せである。
修養と、清らかな行いと、聖なる真理をみること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること―これがこよなき幸せである。
世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること―これがこよなき幸せである。
これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。―これがかれらにとってこよなき幸せである』


【岩波文庫 ブッダの言葉 中村元先生訳p57】

 

ありがとうございました。