浅はかさを恥じる   | 「ゆるりと仏教」いも掘り坊主の与太話

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「念死念仏 常途用心」
仏さまの御教えを、拙僧のエッセイとともに紹介しています。
ほとんど与太話(^_^;)ですが、法話らしきものも書いています。
つたない文章ですが、笑ってもらえたり、うなずいてもらえたりしたら嬉しいです。
毎週水曜日に更新しています。

定期的に御本尊さまに手を合わせている男性がいる。

 

お参りは、いつも午前中。

 

その時間に境内の掃除していると、言葉は交わさないがお互い会釈をする。
 

おそらく40歳位。

 

「何をされているかたなのだろう。近くにお勤めなのかな。でも服装がまちまちだよな。社長さんなのかな。でも若い方だしな。ご近所に住んでいるのかな。もしそうなら、こんな都会に住めるなんてすごいな」などと、見かけると考えてしまう。

 

それと言うのも、カジュアルなときもあれば背広のときもあるが、いつも凄く素敵な服装なのだ。

 

私は洋服のことには全く詳しくないが、そう感じる。

 

と同時に、お参りの姿もとても綺麗なのだ。

 

私だって一応僧侶である。

 

修行で学び、実際に儀式で立ち振る舞いをしている。

 

だから、自分が出来るかどうかは別としても、所作の美しさは少しはわかっているつもりだ。

 

その方は境内に入る前、つまり山門の前で起立し、お辞儀をしていから参道を歩きはじめる。

 

向拝、つまりお賽銭箱が置いてある辺りにくると、合掌しゆっくりと頭を下げて礼拝をする。

 

しばらく頭を下げた後、頭をあげる。

 

頭を上げるときは、普通ならパッとあげるのところだが、徐にあげてくる。

 

戻るときも、参道を厳かに歩き、山門をくぐると再び仏さまの方に向き直り、静かにお辞儀をする。

 

尊い姿だ。
 

あるとき、いつもよりもお洒落な服装でお参りをされていたので、「どんなことを祈っているのだろう。会社繁栄かな。健康かな。きっと豊かな生活をされているのだろうから仏さまへの感謝かな」などと余計な推測までしてしまっていた。

 

戻り際、山門で振り返ったときの姿をみかけると目に涙を浮かべていた。

 

誰もが色々な思いを抱えて生活している。

 

自分の浅はかな考えを恥じた。

 

そして、すぐさま仏さまに懺悔し、その方へのご加護を念じ、ただただ掃除に専念した。

 

 

善導大師さまの「六時礼讃」に、以下のようなお経文がございます。
 

『慈悲をもってわれらを守護し、われらが往生できる善因を増大せしめたまえ。願わくはこの世においても、後の世においても、常にわれらを教え導きたまえ』
 

【浄土宗勤行の解説 村瀬秀雄先生著p125】
 

 

ありがとうございました。