養父母とのはじまり | 5歳娘 脳腫瘍でお空へ ずっとずっとあいしてる

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娘、4歳の夏、脳幹部のグリオーマDIPG になりました
頑張りぬいた娘の姿と家族の日常を綴ります
病気の周知と治療法の発展を願って!
ブログに助けられました
このブログがどなたかのお役に立てれば幸いです

少し前のこちら

 

 

もしも参考になればと、今後も少しず…と書きましたが

まずは

「養父母ってどういうこと?」

という方もおられるかもしれません。

 

養父母については以前も触れていますが

どこに書いたのかもハッキリしないので(^-^;

まずはここから書かせてください。

 

養父母はもともとは私の「伯父伯母」です。

 

私の実母は体が弱くて、私が生まれる前から入退院を繰り返していました。

回復した頃に3人目である私が生まれましたが

私が10ヵ月の頃、自宅の階段から私を抱いたまま落ちてしまい

私を守ろうとしたことで全身に打撃をおってしまいました。

 

でも、これが不幸中の幸いで

この件で病院にかかったことをきっかけにある病気が発覚。

そこから数年の入退院を繰り返すことになりました。

 

私はこの時のことを詳しく聞いたことはないので

知らないこともあります。

聞いてみようと思ったこともありません。

なぜならば、これは家族のひとつの出来事にすぎず

必要を感じたこともなかったからです。

 

なので読んでくださった方が

「他はどうなっていたの?」

ということは

私も知りません(笑)

 

話を戻します。

 

母が急な入院をすることになったことで

子どもたちの生活をみてくれる人が必要になりました。

 

父は仕事となると1週間ほど家を空けてしまい

その間は家にも帰れないし、原則連絡もとり合えません。

なので同居していた祖母と、恐らく周りに助けていただきながらだったと思います(これはよく知らないです)

歳の離れた兄と姉はある程度大きかったのでその環境で暮らせていたようですが

まだ乳飲み子だった私だけは難しかったようで、めんどうをみてくれる人を探すことになりました。

 

初めは民間の保育園の園長先生。

当時懸命に探して辿り着いた先だったそうです。

この保育園には卒園までお世話になり

園長先生(もう保育園は閉めてしまいましたが)とは今でも仲良しです。

先生は私のことを今でも子どものように思っていてくれて

私も先生のことは「第3のお母さん」だと思っています。

 

ここで数日間お世話になっていた間も預け先を探し続け

やっと見つかったのが伯父と伯母の家です。

なんで時間がかかったかは知りません。

でも、県外で車で2~3時間離れていた場所ですから

それぐらいはかかって当然かと、私は思います。

 

詳しくは実父の姉夫妻で子どもはいませんでした。

実父からみた義理兄、すなわち後の私の養父はとても優しい人で

父母共にとてもお世話になっていて

兄姉のこともとてもかわいがっていたそうです。

 

そんなご縁もあり

私は伯父伯母の家に預けられることになりました。

 

保育園に通っていた記憶もあるので

途中帰ってきたこともあるとは思うのですが

母は3年ほどは入退院を繰り返していたので

伯父伯母との生活が長かったのかな?

 

その証拠といってはなんですが

私は2人のことを

「おじさん、おばさん」

と呼んだことはありません。

物心ついた頃からずっと

「お父さん、お母さん」

と呼んでいました。

 

実父母は「パパ」と「ママ」

その呼び分けは今でも変わりません。

 

4人の親がいる。

 

ちょっと珍しいかもしれない私の生活は

1歳の誕生日前から始まりました。