さて、先に進みまして
歎異抄第5章のこの部分です~
(サクサク行くぞ!w)
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
(そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏に生まれて助けなければなりません。)
(【ジーナ訳】誰もがこの人生で、まず「自分自身がすでに救われている」ことを知ることがもっとも重要で、他人をレトリーバル(救おうと)するのは、自分が肉体を卒業して、いわゆる仏さんになってから考えればいいのよ。)
ここは親鸞、「レトリーバル」の話をしています
レトリーバルとは何か?
については、これまでけっこう書いています
下の3つの参照記事のどれかを読んでいただければ
m(__)m
参照:
親鸞は明らかに、ヘミシンクでいう「フォーカス27」を体験しています
なぜそれが分かるのか?
といえば
いわゆる成仏、悟りの波動域ですが、そこを体験しますと
大前提として
すべての存在は「すでに救われている」
ということが分かっちゃうからです
レトリーバル「する」側は
救いに行っている感はあるけれども
実際にやっていることは
もっと楽チンチンなところ
もっと波動の軽いところがあるよ~
って「気づきを促す」ことだけです
つまり、レトリーバル「される」側は
「気づきを得る」
だけなのです
これが「大前提」で
この世の人間が「自力で救われようとする」のでもなく
ましてや念仏を唱えたりすることで「誰かを救おう」というものでもない
なぜなら「みな元々1つ」であり
すべての存在が「すでに救われている」のだから
「供養(救う)」のことなど考える意味がない
と言っているのですね
当時は(現在もですが)
この世があまりにも苦しいために
とても「ゲーム」とは思えず
(「ゲーム」という概念のなかった親鸞の言葉では「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと」)
この世で救われたい!
(現世利益を得たい)
あの世でも救われたい!
(極楽、浄土、天国へ行きたい)
と願う人々が多く
ついでに、亡くなった人が
あの世で救われたのかどうか?
(追善供養しなきゃ)
あの世で救われていないから
この世の私に祟っているのではないか?
(除霊、鎮魂しなきゃ)
という発想する人も多く
その願いをかなえるための方法として
仏教がありました
(仏教を導入した聖徳太子の目的とは違うかもですが、当時の日本政府が仏教を取り入れた目的の1つがそもそも怨霊鎮魂でしたので、ある意味必然の流れではありますw)
参照:
親鸞は
すべての存在は「すでに救われている」
という「大前提」が分かっちゃった
のです
現在、歎異抄を読むときは
誰かの解説付き
で読むことになります
(このブログがそうであるようにw)
ただ、歎異抄の解説者の中には
仏教導入の「流れ」に取り込まれ
この「大前提」をすっぽ抜かして解説されておられる方
(つまり「人間は救われていない」スタンスで語る方)
も多数いらっしゃるので、留意されてくださいw
(↑はい、今日の余計なひとこと~w)
…ふぅ
さて、シリーズも⑩ということで
キリがいいので【前半】はここまでとしまして
次回からシリーズ【後半】に入ろうかなっとw
思わず長いシリーズになってしまいまして
さらに長文の記事も増えて「いいね!」も順調に減っておりますw
(シーッ!w でも、みなさまのコメント、マジで励みになっておりますm(__)m)
11月ぜんぶ歎異抄になりそうな勢いでw
本来ならここらあたりで
エロい記事でも書いてテコ入れを図るところですが
(↑テコ入れの方向性が間違ってるぞw)
気にせず行きまあす!
(↑あっそうw)