『歎異抄』3条⑤「親鸞、冗談を言うw」

テーマ:

おは歎異抄!

 

 

 

お弟子さん(あるいは唯円自身)の

 

質問や雑談に答えた親鸞…

 

 

にゃんとそれは

 

「ユーモア!」

 

で答えていました。

 

 

 

もうかなり批判されそうですが

 

「でも、そうなんだよ!」

 

と、我関せず我が道を行きます♪

 

 

 

まずは【前半】部分をご覧ください。

 

【前半】

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。

 

善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

 

 

 

さてさてサティ…

 

 

みなさんは、どういうときに「笑い」ますか?

 

 

「笑い」が起きるときの「構造」には

 

①無知

②勘違い

③誇張

④繰り返し

⑤ダジャレ

⑥スカシ

⑦時事

⑧差別

 

の8つがあるそうです。

お笑い、8つの基本構造

 

 

 

そして

 

 

キャラクター設定(フリ)

「緊張」と緩和」のギャップ(ボケ)

フォローを入れる(ツッコミ)

 

 

の流れがそろって「笑い」になるということです。

漫才から学ぶ、面白い話に共通の構造

 

 

 

あえて言えばですが

 

この「3条」の【前半】の場合

 

 

「構造」としては

 

①無知

⑧差別

 

 

で、「流れ」としては

 

(フリ)宗教家とその弟子

(ボケ)弟子の質問ないし雑談

(ツッコミ)「3条」の【前半】

 

 

という感じでしょうか。

 

 

 

 

これはご専門の方のご意見でしたが…

 

 

僕が提示したいのは

 

「その場で「笑い」が起きるとき!」

 

に見落としがちなことがあるということです。

 

 

それはね…

 

 

 

 

「2つの相反する価値観の一方に全員いるとき、

もう一方の価値観を取り上げると冗談になる!」

 

 

ときに「笑い」が起こるということです。

 

 

難しくありませんよー。

 

 

 

 

たとえば、僕があなたとお会いするとき

 

僕が「ちょんまげを結ってきて現れた!」

 

 

そうしたら、あなたはきっと驚くでしょう?w

 

そして、すぐに「笑う」でしょう?

 

 

 

それはなぜかと言えば

 

 

現代は「ザンギリ頭文化」で

 

「ちょんまげ文化」でない!

 

と、僕もあなたもお互いに知っていて

 

「それでもなお「ちょんまげ」を結ってきた!」

 

 

 

だから「笑い」が起こるのです。

 

 

 

これが

 

「2つの相反する価値観の一方に全員いるとき、

もう一方の価値観を取り上げると冗談になる!

 

ということです。

 

 

この場合は

 

200年前の「まげ文化」の価値観と

現代の「ザンギリ頭文化」の価値観

 

でした。

 

 

 

では、「3条」の【前半】ではどうなっているでしょう?

 

 

【前半】

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。

 

善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

 

 

ひと目「善人」と「悪人」の話をしていますね?

 

でもでもでもね…

 

 

これほど滑稽なことはない!

 

のです。

 

 

どういうことでしょうか?

 

 

それはね…

 

 

 

親鸞も唯円も、この場にいた全員が

 

「善悪というものはない!

ゆえに善人、悪人というものもない!」

 

という価値観を共有しているからです。

(理由はこの頁の最後に示します)

 

 

 

 

「そんなはずはない!実際に善人、悪人の話をしているじゃないか!」

 

と反論を受けるところですが、そこは親鸞

 

 

あえて「ちょんまげ文化」に乗っかって話をしている!

 

のです。

 

 

 

つまり

 

 

「善悪なし、ゆえに善人悪人もなし!」

という価値観を親鸞はじめその場の全員が共有している中で

 

「善悪はある、ゆえに善人悪人はある!」

という「世(間)」の価値観を取り上げて冗談にしている

 

わけです。

 

 

ですので、ここでは「笑い」が起きていることが分かるのです。

 

 

 

ここは「ユーモアの要素・視点」を抜いて解釈すると

 

絶対に分からなく、迷子になっちゃうのです。

 

それでなくても「カタイ」「湿っぽく」なっちゃうのです。

 

 

 

 

明日以降に譲りますが、そもそも親鸞は

 

「善人・悪人」の話がしたいのではないのです。

 

本当は「自力・他力」の話がしたいのです。

 

 

 

 

ですが、「3条」直前の弟子(たち)との会話で

 

「善人・悪人」

 

が出てきたので、親鸞はあえてそれに乗っかり

 

「冗談!」

 

にして、周囲を和ませたのです。

(セッションやセミナー、講演会などでは、その回限りの表現や言い回しをするもので、さらに言えば、そのきっかけは「参加者の質問や雑談を受けて」であることが少なくありません)

 

 

 

 

僕の考えすぎでしょうか?

 

うがちすぎでしょうか?

 

 

 

しかし、考えてみていただきたいのは

 

親鸞ほどの「知識人」かつ「ガイドさんと出会った」

 

「すんげぇおもしれー人!」が

 

 

「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

 

という言葉を

 

 

「マジメ」に

「笑い要素なし」に

 

語るでしょうか?ってことです。

 

(親鸞が「ガイドさんと出会った」話はここでは省略します。

参照:【六角堂参籠と「女犯の夢告」】)

 

 

 

 

「世(間)」は

 

「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」

 

と「その逆」ばかりを言っているし

 

そもそもこの世は「善悪なし」だと分かっちゃったので

(ガイドさんに会うとはそういうことでもある)

 

 

「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

 

っていうのは、親鸞一流の

 

 

「言葉遊び!」

 

なんです。

 

 

 

明日以降に譲りますが

 

実際に【後半】で親鸞は

 

自分自身のことを「悪人!」

 

と呼んでいます。

 

 

 

よろしいでしょうか。

 

この場にいたのは、全員親鸞の弟子なんです。

 

その師匠が自身のことを

 

 

「俺みたいな悪人だって往生できるんだよ?」

 

って言ったらその発言は

 

 

「自虐」や「皮肉」

 

のような

 

 

ちょっとクスッとする「ユーモア!」

 

になるんですよ。

 

 

 

 

このあたりは

 

「おかしみ」「くすぐり」という「感覚!」

 

なもので

 

言葉での表現には限界があるうえに

 

「生真面目な分からない方」には

 

まったく伝わらないかもしれません。

 

 

 

 

この部分、我が道を行く僕の解釈はこうなりますw

 

世間では「善人ほど成仏段階のフォーカス27へ行ける」っていうけれど、似ているようであれは違う。それなら「悪人ほどフォーカス27へ行ける」って言いたいねw。(笑い)しょせん、言葉遊びなんだよ。

 

いいかい?「善人」とか「悪人」とかは重要ではないんだ。それなら「自力」か「他力」か、で語らなきゃ。

 

 

 

 

長くなりましたので、親鸞が

 

この世は「善悪なし」と分かっちゃった!

 

言葉を挙げて、明日へ続きますw

 

 

 

「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」

(私は何が善で何が悪か、まったく分からない)

~『歎異抄』「後序」

 

「吉凶の相を執じ、鬼神を祭りて、極重の大罪悪業にして、近く無間罪を生ず」
(日月だけでなく、墓相、家相、印相、人相、手相などの吉凶の占いは、みな迷信であり、無間地獄に堕ちる業である)

~『教行信証』「化身土巻」

 

「まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず」

(先ず私は、臨終の様子に関して善し悪しは問わない)

~『親鸞聖人御消息』 「第16通」

 

 

 

 

参照:『歎異抄』シリーズ

 

 

 

 

【なぞなぞ】

僕のママは山菜取りの名人だ。

今日も朝から

「栗」「きのこ」「ふき」「まつたけ」

と、たくさん採ってきたようだ。

問題はお昼だ。ママはいつだって「炊き込みご飯」にする。これがまた本当においしいんだ!

さて、今日は何ごはんが出てくるかなあ?

 

 

【昨日の答え】

「?」の下の点

 

『歎異抄』3条④「親鸞との対話」

テーマ:

おはほわーい、じゃぱにーずぴーぽー!

 

 

 

 

 

さあ、さっぱり進まない『歎異抄』ですが

 

そろそろ前進しましょうw

 

 

本文と意訳を挙げます。

 

 

第三条【注釈版本文】
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと。仰せ候ひき。


【意 訳】
善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。
そのわけは、自力をもって作(な)した善行をたのんで往生しようとしているような善人は、阿弥陀仏の本願力だけを、
ひとえにたのみ、おまかせをするという信心のない人ですから、本願のみこころにかないません。
けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ驕慢(きょうまん)な自力の心を改めて、
阿弥陀仏の本願他力をたのみ、おまかせするならば、本願力の御はからいにょって、
真実の悟りの境界(きょうがい)である真実報土に往生をとげさせていただくことができます。
あらゆる煩悩を、身にそなえている私どもは、どのような修行をしてみても、
生と死の迷いから離れることができないことを憐れみたもうて、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏でした。
その本願の御本意は、煩悩具足の悪人を救うて、完全な仏陀にならしめるためですから、本願をたのみ、
他力にまかせっきている悪人こそ、第一に往生すべきものです。それゆえ、善人でさえも往生をさせていただくのだもの、
まして悪人はなおさらのことであると、仰せられたことでした。

(【聖典セミナー「第三条」悪人正機の伝承】より)

 

 

 

昨日、「3条」には親鸞独自のロジックがあり

 

「ユーモアの視点!」

 

がないとそれは見抜けない、と指摘申し上げました。

 

 

唯円の執筆当時は

 

当然「読み手」はそれを理解していたはずです。

 

 

 

「ユーモア」の視点で、親鸞のロジックを読み解きますと

 

3条は「前半」と「後半」に分かれる!

 

ことに気づくのです。

 

 

こうなります。

 

ぼやーっと眺めるだけでけっこうですw

 

 

さあ、モーゼよ切り開かん!

 

 

【前半】

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。

 

善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

ざざーっ!

【後半】

そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと。仰せ候ひき。


そのわけは、自力をもって作(な)した善行をたのんで往生しようとしているような善人は、阿弥陀仏の本願力だけを、
ひとえにたのみ、おまかせをするという信心のない人ですから、本願のみこころにかないません。
けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ驕慢(きょうまん)な自力の心を改めて、
阿弥陀仏の本願他力をたのみ、おまかせするならば、本願力の御はからいにょって、
真実の悟りの境界(きょうがい)である真実報土に往生をとげさせていただくことができます。
あらゆる煩悩を、身にそなえている私どもは、どのような修行をしてみても、
生と死の迷いから離れることができないことを憐れみたもうて、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏でした。
その本願の御本意は、煩悩具足の悪人を救うて、完全な仏陀にならしめるためですから、本願をたのみ、
他力にまかせっきている悪人こそ、第一に往生すべきものです。それゆえ、善人でさえも往生をさせていただくのだもの、
まして悪人はなおさらのことであると、仰せられたことでした。

 

 

「ざざーっ!じゃないだろう、ララァ…

なぜそんなことが分かるんだい、坊や?」

 

っていうシャア大佐は、まずはもちつけ。

 

(なんだよこの企画w)

 

 

 

 

ところでんででん…

 

 

 

みなさんは

 

「いきなり話し出す人!」

 

って見たことありますか?w

 

 

フツーはありませんよね?

 

一緒にいる人がいきなり話し出したら怖いですw

 

 

 

フツーは

 

「誰かに話しかける」ために話し出す!

 

に決まっていますよね?

 

 

 

そう!それは

 

「会話!」

「対話!」

 

と呼ばれるものです。

 

 

 

 

 

『歎異抄』も同じです。

 

親鸞も「いきなり話し出した!」わけではないのです。

 

 

弟子からの質問や雑談などの

 

「会話」や「対話」の流れ!

 

で「3条」も生まれたに決まってるんですよ。

 

 

 

…ということは?

 

 

 

 

【前半】部分の直前の「会話」を想像でおぎなえる!

 

ということなんですね。

(こういうの、「資料絶対主義の論文の世界では無視、軽視されます)

 

 

今一度【前半】をご覧ください。

 

【前半】

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。

 

善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。

 

 

これ、「いきなり話し出した」のではないので

 

この直前に

 

何らかの「質問」、あるいは「雑談」

 

があったはずなのです。

 

 

じゃあ、おぎなってみようぜ!

 

『歎異抄』補完計画♪(←お前元気だなw)

 

 

 

「質問」なら…

 

「親鸞先生、質問があるにゃ!(←弟子の1人・猫被房)世間では『善人と悪人では、やっぱり善人の方が先に往生するにゃ!』って言ってますが、先生はどのように思われますかにゃ?」

 

 

「雑談」なら…

 

「しかしまあ、親ワン先生…。(←弟子の一人・棒当房)近ごろ世間では『善人』や『悪人』っていうレッテル張りが流行ってますワンねえ…。『善人の方がまず往生するだろう』みたいな議論ですワン…」

 

 

的な的なところではないでしょうか?

 

 

 

そして、こうした「質問」ないし「雑談」に

 

親鸞は答えたわけですが…

 

 

 

にゃんと!親鸞先生…

 

 

「ユーモアで答えた!」

 

のです。

(↑斬新か!)(←いやマジで)

 

 

 

この【前半】部分は

 

全部ユーモア!

 

なんです。

(↑そろそろ怒られるぞ!)(←いやいや、どう読んでもそうなるのよ)

 

 

 

 

参照:『歎異抄』シリーズ

 

 

 

 

【なぞなぞ】

○〇◎゜oO。●
このいろんな丸の中で一番小さな丸はどーれだ?

 

 

【昨日の答え】

「(自分や生物が写っている)写真」

『歎異抄』3条③「親鸞とユーモア」

テーマ:

おはカラカラ!

 

(カラカラ浴場を作ったローマ皇帝カラカラたん。誰かに似てるんだよなあ…)

 

 

 

 

さあさあ、前置きが長くなりましたw

 

昨日までのことを踏まえて3条を見てみましょう。

(そうだ、3条やってるんだったなw)

 

 

 

第三条【注釈版本文】
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、
本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからずを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、
悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと。仰せ候ひき。


【意 訳】
善人ですら往生をとげるのです。まして悪人が往生をとげられないことがありましょうか。
しかるに世間の人は常に、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっています。
この考え方は、一応もっともなようですが、阿弥陀仏の本願他力の救いのみこころには背いています。
そのわけは、自力をもって作(な)した善行をたのんで往生しようとしているような善人は、阿弥陀仏の本願力だけを、
ひとえにたのみ、おまかせをするという信心のない人ですから、本願のみこころにかないません。
けれども、そういう人も、わが身の善をたのむ驕慢(きょうまん)な自力の心を改めて、
阿弥陀仏の本願他力をたのみ、おまかせするならば、本願力の御はからいにょって、
真実の悟りの境界(きょうがい)である真実報土に往生をとげさせていただくことができます。
あらゆる煩悩を、身にそなえている私どもは、どのような修行をしてみても、
生と死の迷いから離れることができないことを憐れみたもうて、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏でした。
その本願の御本意は、煩悩具足の悪人を救うて、完全な仏陀にならしめるためですから、本願をたのみ、
他力にまかせっきている悪人こそ、第一に往生すべきものです。それゆえ、善人でさえも往生をさせていただくのだもの、
まして悪人はなおさらのことであると、仰せられたことでした。

(【聖典セミナー「第三条」悪人正機の伝承】より)

 

 

うーん、申し訳ない。

 

「意訳」も素晴らしいのですが

 

けっこう難しくありませんか?

 

カタイ感じがしません?

 

 

 

作家・五木寛之さんの「意訳」もご紹介しますね。

 

 

あるとき、親鸞さまは、こう言われた。

 

善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。

しかし、世間の人びとは、そんなことは夢にも考えないし、言わないはずだ。

「あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽往生するのは決まりきっていることではないか」

こういうところが普通一般の考え方だろう。

そのことばはなにげなく聞いていると、理屈にあっているように思われないでもない。だが、あらためて阿弥陀仏の深い約束の意味を考えてみると、仏の願いにまったく反していることがわかってくる。

というのは、いわゆる善人、すなわち自分のちからを信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人びとは、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかにたよるものがなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力に身をまかせようという、絶望のどん底からわきでる必死の信心に欠けるからである。

だが、そのようないわゆる善人であっても、自力におぼれる心をあらためて、他力の本願にたちかえるならば、 必ず真の救いをうることができるにちがいない。

あらゆる煩悩にとりかこまれているこの身は、どんな修行によっても生死の迷いからはなれることはできない。そのことをあわれに思ってたてられた誓いこそ、すべての悩める衆生を救うという阿弥陀仏の約束なのである。

わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。

山に獣を追い、 海河に魚をとることを業が深いという者がいるが、草木国土のいのちをうばう農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者は言うまでもない。すなわちこの世の生きる者はことごとく深い業をせおっている。

わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、我が身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人々こそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。

おのれの悪に気付かぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。

(五木寛之著『私訳歎異抄』pp18‐21)

 

 

 

うん、さすが五木さんです。素晴らしい翻訳です。

 

ただ…大文豪の先生にたて突く気は毛頭ないのですが…

 

 

…湿っぽくありませんか?

 

 

 

こうした

 

「なはーんかカタイ」

「なはーんか湿っぽい」

 

っていうイメージは

 

現在までの『歎異抄』の翻訳に共通している事実なんですよ。(マジです)

 

 

 

もちろん、これは

 

「ユーモア!」

 

の要素が欠けているからにほかなりません。

 

 

 

「9条」でも指摘申しあげましたが

 

「3条」のここも、じつは

 

とてもユーモアに満ちた言葉なんです。

 

カラッとした、軽くやわらかな会話なんです。

 

 

 

信じられないかもしれませんが

 

親鸞はユーモアを交えて語り

 

唯円(らー聴衆)は笑いつつも真剣に聞いている

 

たのしいセッション!愉快なロンドン!

 

な場面なのです。

 

 

 

 

地味に重要なことがあります。

 

 

当時は

 

(笑い)

(笑)

草生えた

www

 

という表現は「ない」!

 

ということですw(←これこれ)

 

 

 

 

「ユーモアを交えた語り」であっても

 

それを文章化したときには

 

 

「その語りにユーモアがあったか、なかったか」の判断は

 

読者にゆだねられている!

 

わけなんですよ。

(なので「ユーモアなし」の解釈が可能)

 

 

 

 

さらに、明日以降ちゃんと書きますが

 

親鸞も唯円も

 

 

この世に「善悪」はない!

したがって「善人・悪人」もない!

 

ことが分かっちゃってる人だったんですよ?

 

 

 

ただ、「3条」の冒頭から

 

「善人・悪人」という言葉!

 

が頻発しているので

 

「読み手」はそれに引きずられやすいのです。

 

 

「善人・悪人」という言葉は現在でも使われ

 

人々を縛っている言葉です。

 

13世紀では「もっと縛っていた」かもしれません。

 

 

 

「3条」には親鸞独自のロジックがありまして…

 

「ユーモアの視点!」

 

がないと、それは見抜けないのです。

 

 

 

 

参照:『歎異抄』シリーズ

 

 

 

 

【なぞなぞ】

古ければ古いほど若いもの、なーんだ?

 

 

【昨日の答え】

お前が「秘密」を知っている!それは…

「記者」だ!

 

なぜって…ふふふ。

そりゃあお前が…

「書く仕事(隠しごと)」だからさ!

『歎異抄』3条②「親鸞と勝新太郎」

テーマ:

おは藤虎!

 

 

 

 

昨日の復習だよ!

 

 

『歎異抄』を難しく、分かりにくくしているもの…

 

それが

 

 

「ユーモア!」

「笑い!」

「笑顔!」

「冗談!」

「諧謔!」

「おかしみ!」

「くすぐり!」

 

を無視、軽視している!

 

ということでした。

 

 

歎異抄を「宗教学」のように学問でとらえますと

 

「ユーモアの要素を排除して論理を展開する!」

 

ことが求められます。

 

 

僕はかつて臨床心理士を目指して

 

大学院で議論しまくり、論文などをしこたま書いたことがあるので

 

そういう「カチコチ論理」も理解しますし、嫌いではないんですよw

 

 

 

でもでもでもね…

 

 

 

宗教ってそもそも

 

「人を笑顔にするためのもの!」

「人が笑顔になるためのもの!」

 

でしょう?

 

 

なら

 

「笑顔!」

「ユーモア!」

「笑い!」

「冗談!」

 

の視点、要素を忘れちゃ片手落ちなんです。

 

 

 

唯円だって

 

「こらこら、それじゃあ笑顔になれないよ!

親鸞師匠のあの笑顔を忘れちゃいけないよ!」

 

って感じて、筆を執ったはずなんです。

(この弟子の心境がご理解できなければ、唯円という人物をも見誤っているかもしれません)

 

 

 

そんな親鸞が語っている言葉に

 

「ユーモアがないはずがない!」

 

わけなんですw

 

 

 

えーここまで非論理的な論法で語っておりますw

 

でも、「そうに決まっている!」んですよ。

 

 

 

皆さま、スピ系のセッションやセミナー、講演会などに

 

参加されたことがあるのではないでしょうか?

 

 

そこでは「笑顔」が花開いていましたよね?

 

 

 

え?「悪霊が憑りついています」って言われて泣いて帰った?

 

え?「俺たちの仲間になろうよ」って促された?

 

え?「それがあなたの使命、天命ですよ」って言われて困っちゃった?

 

 

ま、まあそういう例外は置いといてさ…

(今度書きます)

 

 

 

とにかく「笑顔」があるのー!(←強引かw)

 

 

 

それはスピ系の本質が

 

「人を笑顔にするためのもの!」

「人が笑顔になるためのもの!」

 

なので、「笑顔」が当たり前なのです。

 

 

 

あのねのね…

 

 

そもそもお釈迦さまは

 

「学問をして悟られた!」

 

のではないのですよ?

 

 

「行動」されて悟られ「笑顔」が出たのです。

 

 

 

 

 

さてさてサティ…

 

 

『歎異抄』の歴史的な背景を振り返りますと

 

 

筆者唯円さんは13世紀の鎌倉時代の人です。

 

そして、現存する『歎異抄』を写本した蓮如さんは

 

15世紀の室町時代の人です。

 

 

単純にざっと「200年の差」があります。

 

 

 

わずか2,30年で親鸞の教えが歪んだってのに

 

200年も経てば

 

親鸞という人物が「神格化」される!

 

のに十分すぎる年月でしょう。

 

 

 

だからほら!

こんなに難しい顔しちゃってるー。

 

 

いやいやいやいや…

 

親鸞を見誤まっちゃいけませんぜ?

 

 

この方、そうとう面白い人なんだっての!

 

ヤバいくらい面白い話をする人なんですよ?

 

 

冗談も言えば、猥談だってしたはずなんです。

 

 

 

ある意味、勝新太郎さんに印象を重ねてもいいくらい。

(どんなアプローチだよ!)

 

 

 

映画撮影の合間、勝新さんの楽屋話があまりに面白く

 

人だかりができていたのは有名な話です。

 

 

勝新さんエピソード①

1982年に母・八重子が死去した際、「俺を産んでくれたところに顔を埋めてキスをしたよ」

 

勝新さんエピソード②

1996年、父・杵屋勝東治が死去。納骨式の際には火葬場でこっそり懐に入れた遺骨の一部を取り出し、泣きながら食べ、「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」

 

勝新さんエピソード③

ある酒宴の席で石原裕次郎と大喧嘩。頃合いを見て勝が一言「いい芝居だったな、兄弟?」と声をかけ、裕次郎が「あ、ああ、いい芝居だった。」と応えることで、喧嘩そのものを「周囲を驚かすための芝居」と見せかけ、互いに手打ちにした

(いずれもウィキ先生より)

 

 

こんな人なら面白すぎて

 

人だかりができるのもうなずけます。

 

 

 

話がズレたようですが、言いたいことは

 

 

現代の勝新さんのエピソードはネットや書物で残るけれど

 

当時の親鸞のエピソードは残らない!

 

ってことなんです。

 

 

 

そこに『歎異抄』ですよ?

 

 

『歎異抄』は親鸞のエピソード満載なうえに

 

宗教家のホンネがセキラララ〜♪に書かれているのです。

 

それを親鸞没後200年の蓮如が見ちゃったわけです。

 

 

 

さらに蓮如の時代の浄土真宗は

 

教団として組織化!

 

されており、ヒエラルキーのある団体になっています。

 

 

ヒエラルキーの宿命、その絶対的頂点の200年前の親鸞は「神格化」され

 

「冗談とか猥談とか、絶対に言わない人!」

 

になっちゃったわけです。

 

 

 

蓮如は『歎異抄』を発禁処分にしました。

 

なぜ?

 

 

それは「ユーモア」の視点を欠いて読んでしまったからかもしれません。

 

 

そして、発禁処分が解禁された明治以降も

 

「ユーモア」の要素を欠いて読み続けられているのですね。

 

 

 

参照:『歎異抄』シリーズ

 

 

 

 

【なぞなぞ】

重要参考人を集めた。この中に「秘密」を知る者がいるはずだ。

集めたのは5人。「歯科医」「女優」「パイロット」「新聞記者」「牧師」

絶対につきとめてやる!じっちゃんの名にかけて!

 

【昨日の答え】

「ため息」

『歎異抄』3条①「親鸞とホリエモン」

テーマ:

おはライブドア!

 

 

 

 

またまた発作が起こりまして…

 

歎異抄を書いてみますw

 

 

古今東西、おそらくどなたも言っておられない解釈をしますが

 

僕はこの解釈でおおむね間違いないと確信しています。

(議論はしませんので、ご批判等は他でされてくださいませ)

 

 

 

今回は「第3条(以下「3条」)」というところで

 

前回の「9条(躍り上がる喜びが湧きませーん!俺もー!)」以上に有名なところです。

 

 

 

では、3条について

 

まずは世間の受け取り方をご覧稗田のあれ~

 

 

あくにんしょうき‐せつ【悪人正機説】

阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願は悪人を救うためのものであり、悪人こそが、救済の対象だという考え方。親鸞(しんらん)の念仏思想の神髄とされる。(デジタル大辞泉

 

悪人正機説【あくにんしょうきせつ】

浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の根本思想。《歎異鈔(たんにしょう)》に〈善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや〉とある。善人(自力作善の人)は自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,阿弥陀仏に救われるとした。すべては阿弥陀仏の本願によるとの絶対他力の思想につながる。(百科事典マイペディア

 

 

…というわけで

 

「3条」は

 

「悪人正機(説)」

 

と呼ばれる、親鸞聖人(以下「親鸞」)の

 

 

「念仏思想の真髄!」

「親鸞の根本思想!」

 

なわけです。

 

 

ですので、ここが分かっちゃいますと

 

人生のほほほーんと暮らせる!ということです。

 

 

 

 

さてさてサティ…

 

 

前回省略してしまったので

 

『歎異抄』の歴史的背景!

 

をサクッと述べておきます。

 

 

 

とても重要なことですので

 

前回との重複をお許しください。

 

 

 

 

 

『歎異抄』は親鸞の没後2,30年後に

 

弟子の唯円が、親鸞の言葉をまとめたものとされています。

 

 

名前の通り

 

親鸞の教えが「異」なって広まっていることを

「歎(なげ)」いて著したもの

 

ということです。

 

 

 

当時は、人々のバイブレーションが低く

 

また、寿命も短かったこともあり

 

たった2,30年で教えが歪んじゃったのですね。(善悪、優劣なし)

 

 

 

 

「その歪みを俺は直したいんだ!」

 

と、頭から湯気ポッポーしながら

 

唯円がカキコして『歎異抄』は誕生しました。

 

 

 

 

…ということはですよ?

 

 

『歎異抄』は「誰にでもわかる!」

 

という目的で書かれたのです。

(ちゃんと言えば仏縁ある人)

 

 

 

文章を書くというのは

 

「読者に理解、共感、同意してもらいたい!」

 

がために書かれるのですから、当たり前です。

 

 

なので

 

「歎異抄は難しい!分からない!」

 

というのは、読者の怠慢なのです。

 

 

 

 

『歎異抄』を難しく、分かりにくくしているものがあります。

 

なーんだ?

 

 

 

それはね・・・

 

 

「ユーモア!」

「笑い!」

「笑顔!」

「冗談!」

「諧謔!」

「おかしみ!」

「くすぐり!」

 

なんです。

 

 

これ、学者さまやお坊さまがニガテなところでしてw

 

どうしても眉間にシワを寄せて難しく考えちゃうんですよ。

 

 

スタート地点から親鸞という方を見誤っているわけです。

 

 

 

 

いいですか?

 

ホリエモンを想像してくださいw

 

 

 

東大に入って、東大を飛び出し

 

会社を興して、他の会社を買収したり

 

牢屋に入ったり、ロケットを打ち上げようとしたり

 

きれいなおねーちゃんと遊んだり…

 

 

 

…そんな奴がつまらないはずがない!

 

んですよw

 

むちゃくちゃおもしれー奴!

 

に決まっているんです。

 

 

 

毎瞬「いのち」を精一杯燃やして遊んでいますので

 

言葉に聞かせるものがあり、かつ

 

クスッとした「ユーモア」のオブラートに包まれています。

 

 

 

『歎異抄』を読む際

 

ここが非常に「キモ!」なんです。

 

 

 

 

なぜなら、親鸞も同じだからです。

 

 

 

当時の東大に相当する比叡山で学び、比叡山を飛び出し

 

生涯の師、法然と出会い

 

他力をさらに「絶対他力」に深化させ

 

浄土真宗を起こし、多数の信者さんを引き寄せ

(親鸞自身は「俺は弟子を1人も持たない」と言ってますが)

 

牢屋に入ったり(流刑)、

 

当時は「外国扱い」の遠い関東地方で布教したり

 

当時タブーだった結婚をして、子をもうけたり…

 

 

 

 

ねえ…この人つまらない?

 

違うよね?

 

 

むちゃくちゃおもしれー奴!

 

に決まってるんですよw

 

 

 

現代でも

 

「1代で会社を興して成功した人!」

 

の会話って、ユニークで面白い人が多いんです。

 

 

 

ついでに言えばエロいw

 

 

軽いエロスは軽い波動となり

 

言葉はユーモアに包まれます。

 

 

 

 

おもしれー奴の言葉の波動は

 

難しい顔なんかせずに

 

 

「おもしれー波動」に合わせて読む!

 

のが一番理解しやすいのです。

 

 

 

 

参照:『歎異抄』シリーズ

 

 

 

【本編とまったく無関係ななぞなぞ】

 

今日は朝寝坊してしまったし、電車には乗り遅れた。おまけに靴の紐は切れるし、スマホを落として画面にヒビが入ってしまった。雨が降っても傘はなくびしょ濡れだし、あげくのはてには彼女にまでフラれてしまった。

でも、こんな日でも、1つだけついていたことがある。それは何だろう?

(答えは明日)

おはですよで・す・YO!

 

 

 

 

野球やサッカーをはじめスポーツは人気がありますね。

 

人によっては熱狂したり涙したり…

 

 

なぜ楽しいのでしょうか?

 

 

 

それはね…

 

 

ルールがあるから!

 

なんです。

 

 

つまり、人間は

 

「ルールに興奮する動物!」

 

ともいえるのです。

 

 

これは動物にはない、人間独自のものです。

 

 

 

どんな競技にもルールがあります。

 

 

 

では、「ルール」とはなんでしょうか?

 

 

それはねえ…

 

 

「時間的」

「空間的」

「物質的」な縛り!

 

のことです。

 

 

サッカーなら

 

90分(時間)

サッカーフィールド内(空間)

1チーム11人(物質)

 

という制限の中で行われます。

 

 

それがプレーしていて興奮するわけです。

 

プレーを見ていて興奮するんです。

 

 

 

 

 

人生もまったく同じです。

 

 

お釈迦さまは

 

「人生は苦でおじゃる」

 

と、公家言葉で言われました。

 

 

 

「人生は苦」…

 

これを言いかえると

 

 

「思い通りにならないのが人生でござる」

 

という武家言葉になります。

 

 

 

では「思い通りにならない」とは、一体なんでしょうか?

 

 

それがほら!

 

 

「時間的」

「空間的」

「物質的」な縛り!

 

のことじゃないですか。

 

 

「納期に間に合わないじゃないか!」(時間)

「こんなところでタバコを吸うんじゃない!」(空間)

「数字が間違ってる!計算もできんのか!」(物質)

 

 

 

あーいとぅいまてーん!

 

 

 

人生のルールはあなたを興奮させます。

 

 

あなたの常識・価値観・正義感・倫理観は

 

あなたを興奮させます。

 

 

 

それが「人間やってる!」ってことですが

 

あまり興奮しちゃいますと視野が狭いままです。

 

 

 

 

たまには、こうした時間的、空間的、物質的な制限を

 

「すべて認めてみる!」

「この世のすべてを全肯定する!」

 

っていうことをやってみませんか?

 

 

 

視野が広がるので

 

笑顔が出ます。

余裕が出ます。

ユーモアが出ます。

 

 

 

そして、この

 

「ユーモア!」

 

というのが

 

明日からの一連の記事のキーワードになりますw

 

 

 

 

【おまけ】

楽しそうだな!

 

 

普遍愛は「共存共栄」

テーマ:

おは今日は詩的だな!

 

 

 

「普遍愛」の本質は「共存共栄」です。

 

共存共栄を「感じる」ことです。

 

 

 

共存共栄は

 

執着することではありません。

変えることではありません。

変わらなければならないことではありません。

説得することではありません。

 

 

善とか悪とかではありません。

良いとか悪いとかではありません。

優れているとか劣っているとかではありません。

 

 

共存共栄はニュートラルな調和です。

 

愛によってはじめて手放すことができます。

 

 

 

共存共栄は

 

自分自身の常識・価値観、正義感、倫理観から離れて

 

すべてをありのまま認めて、受け入れて、そして許すことです。

 

これが普遍愛です。

 

 

 

 

共存共栄の1つの最終形が

 

「地球を愛する」

 

です。

 

 

全人類、全動物、全植物、全自然

 

生きとし生けるものすべてを愛し

 

愛されていることを感じることです。

 

 

 

地球を愛する自分に成った時

 

地球での勉強が終わります。

 

 

 

 

【おまけ】

ホンダ、70周年だそうです。

 

 

おは入れたら動かない動かない!

 

 

 

10年前のちょっと古い調査ですが

 

「夫婦を対象とした性生活に対する一般調査」

 

なるものを東邦大学が行いました。

 

 

これ、いろえろ示唆に富んでいまして

 

なかでも

 

 

「性交時の挿入時間」

 

について

 

 

女性の43%が「膣内挿入時間をもっと長くしてほしい!」

 

とお答えになったそうです。

 

 

 

また、実際の

 

「膣内挿入開始から射精直前(または性交終了)までの時間」

 

 

男性が平均14.5分

女性が平均13.6分

 

と感じ、

 

 

女性の希望時間は15.7分

 

だということです。

【(日本人の性生活 ~私たちに合ったED治療へ~)より抜粋】
 

 

 

 

 

ええと、何度も言っておりますが

 

何度も言いますねw

 

 

男性はピストンから離れる!

 

 

これは鉄則にして下さい。

 

これが「ちゃんまぐ(ちゃんとしたまぐ愛)」の第1歩です。

 

 

ピストンをするので発射しちゃうのですね。

 

 

 

「発射から離れること」

 

を通常、当たり前のことにしてみてください。

 

 

 

 

そして女性は

 

「ピストンは痛い!」

「こうしてくれると気持ちがいい!」

 

ということを、パートナーさんにしつこく伝えてあげて下さい。

 

 

男性は、ほんまおバカさんですので

 

しつこく言われないと分からないんですよ。

 

 

 

 

そして、これを読まれている男性は

 

 

挿入するまで2、3時間かける!

 

ということを目指してみてください。

 

 

つまり前戯にそれくらいは時間をかけてください。

 

 

時間のことを言うのはマジで野暮なんですが

 

具体的な数字を出した方が分かりやすいでしょう。

 

 

 

 

「長いよそれ・・・」

 

と思われたそこの男性のあなた!

 

 

発射から離れているので、余裕でできる!

 

んですよ。

(なんならもう挿入からも離れちゃう)

 

 

 

 

 

そしててっててー!

 

 

ピストンから離れた男性には

 

大きなご褒美が待っていますw

 

 

それが

 

「光になる!」

 

ということなんです。

 

 

「自分は光の存在である!」

 

という体験が待っています。

 

 

 

これは発射なんぞ吹っ飛ぶほど気持ちよいものです。

 

ついでにサイキックな能力も伸びます。

 

 

 

 

ピストンや発射から離れていますので

 

あなたは何時間でもまぐ愛ができます。

 

 

 

 

変な話のようですが…

 

 

両手を合わせてこすると

 

右手と左手、お互いの存在を確認できますね?

 

これは「こすって動いた!」からです。

 

 

 

では、両手を合わせたまま

 

「動かない!」

 

と、どうなるでしょうか?

 

 

それはね…

 

右手と左手の存在が消える!

 

んです。

 

 

 

ピストン運動も同じで

 

動く!と存在を確認でき…

動かない!と存在を確認できなくなる

 

のです。

 

 

 

 

ですので…

 

まぐ愛の場合「動かない!」ままでいますと

 

おにんにんの存在が消え…

 

 

光になる!

 

のです。

(うまく表現できませんが、マジなんです)

 

 

 

 

それが分かりますと

 

冒頭の調査は「ピストンありきの調査」ですので

 

アホらしくなるわけです。

 

 

 

 

もういいかげん

 

「性」と

 

+「消耗」

+「所有」

+「独占」

+「お金」

+「支配」

 

など、我欲を絡めたセッ○スから脱しませんか?

 

 

「性」は「生」であり「聖」なので

 

そんなものは社会から押し付けられた後付けの概念です。

 

 

 

これはあえて小さな声で言いますが

 

「ちゃんまぐ」をいたすようになれば

 

「病気」「お金」「人間関係」といった

 

人生のすべての問題が解決します。

 

まず「あなたの波動」なんです。

 

 

 

 

リブログはひろみこさん。

 

ひろみこさんもおっしゃっていますが

「性こそすべて」なんですよ。

これ以上大事なものはないのです。

 

なので「性」を語ることを小ばかにするのは論外で

「性は大事。でもね…」と条件を付けるのも違うの。

 

だって「性はすべて」だから。


 

 

 

 

 

 

【おまけ】

しかしこれはまだ理解できない

(音量注意)

 

 

おはゴーイング・ホーム!

 

 

 

ヘミシンクの名盤「ゴーイング・ホーム」

 

・・・の「説明書の抜粋」もこれで最後です。

 

 

関係者の方に気づかれないうちに終えましょうw

(↑自覚はあるんだな!)

 

 

最終回は「ゴーイング・ホーム」の11曲目

 

「別世界への旅立ち」

 

の全文です。

 

 

 

これは「臨終直後」の方に聞かせるメッセージです。

 

 

説明書には

 

「医師により死を確認された直後の死者に繰り返し聞かせます。少なくとも1時間以上聞かせてください」

 

とあります。

 

 

病院ではアレでしょうから

 

現実的にはお通夜の家族だけの時間でもよろしいかと。

 

 

 

CDでは「例の彼」が繰り返し語ってくれますw

 

 

ちなみに、この後ご紹介するメッセージは翻訳版らしく

 

CDとは内容が少し異なっています。

 

「例の彼」の語りの方が、より自然な日本語になっています。

 

 

 

皆さんもおヒマなときに

 

亡くなった方へ向けて、一度朗読されてみてはいかがでしょうか?

 

けっこう泣けます。

 

 

 

それではどうぞ。

 

 

 

「別世界への旅立ち」

 

私の声がはっきりと聞こえますね。

私の声がはっきりと聞こえて、よく理解できますね。

 

あなたがどこに行ってもあふれるほどの愛と美と共に行きます。

あなたの知識と経験はあなたを離れることはありません。

 

あなたがどこに行こうと、あなたは自分で把握していたよりも遥かに多くの思い出と、これまでの人生で感じた多くの様々な感情と共に行きます。

その多くは、あなたが何になろうと、どこに行こうと、どのように変わろうと、あなたが終えたばかりの人生の一コマ一コマが貴重な瞬間であったことに変わりはありません。

 

あなたはとても多くのことを経験しました。

あなたは、まだその価値に気づいていません。

しかし、やがてそれを理解するのです。

あなたはすぐに、自分があふれるほどの宝物を持っていることに気づくのです。

 

 

あなたはそれを、これまで考えもしなかった方法で利用します。

あなたが今別れてきた人生の一部としてではありません。

 

あなたはすぐに、これまでの人生は学習の時期だったことを理解します。

それは、肉体を持った人間の言葉、行動、あるいは思考では表現できない栄誉、喜び、そして創造的な活動を経験するための準備期間だったのです。

 

 

あなたはその時期を卒業し、新しい世界に入ろうとしています。

あなたは、今まで気づかなかったでしょうが、その世界のための準備と訓練を十分にしてきています。

あなたはそれにすぐにすぐ気づくでしょう。

そして、これまでの人生で、この新しい世界についてとても曖昧な説明しか受けなかった理由をすぐに理解するでしょう。

 

 

さあ、行きなさい。

そして思い出してください!

 

別れてきた人たちと本当に別れてしまったわけではありません。

その人たちは今でもあなたとともにいます。

その人達の魂は、完全にあなたに溶け込み、離れることはありません。

その人たちはいつもあなたとともにいます。

それは、あなたがその人たちとともにいるのと同じです。

 

このことを知れば、彼らの悲しみは消えるはずです。

あるのは物質的な別れだけで、それ以上ではないのです。

 

 

さあ、あなたが知っている人たちのところへ行って下さい。

みなが、あなたがそうなるように訓練を受けた者になるのを助けてくれます。

すぐに、あなたもあなたに続く人たちを助けるようになるでしょう。

その人たちにメッセージを送れるようになったら、送ってあげてください。

 

 

 

参照:「ゴーイング・ホーム」体験談シリーズ

 

おは戻りたい場所お前の胸でもう一度甘えてみたいよ!

 

 

 

ヘミシンクの名盤「ゴーイング・ホーム」…

 

まさかの「説明書抜粋」…

 

怒らりそう…

 

 

今日はヘミシンカーさんならご存知

 

モンローたんです~。パチパチパチ!

 

 

いまの僕があるのも、この方のおかげです。

 

感謝してもしきれません。

 

 

せっかくですのでモンローたんの略歴もあわせてどうぞ!

 

 

 

ロバート・A・モンロー(1915~1995年)

 

故ロバート・A・モンローは、The Monroe InstituteとMonroe Productsの創設者で、人間意識探索の先覚者として、世界的によく知られています。モンローのこの分野の研究は、ニューヨークにあった彼の会社内に、1956年になって小さな研究開発プログラムを開始したのが始まりです。このプログラムは睡眠中の学習の可能性を探ることを目的としていました。

 

1958年に一つの成果が得られました。肉体から離れた意識というほとんど知られていなかった状態が現れたのです。研究チームは、この成果をOBE(体外離脱)と名付けました。この言葉は、その後この分野では一般的に使われるようになりました。

 

モンローとその研究グループは、その後の数年間をかけて、研究所で、この意識状態を含めて様々な意識の状態を導き、それを制御する方法や手段を開発する作業を行いました。その成果は、ヘミシンクと名付けられたオーディオ・ガイダンスにまとめられ、次第に大きな効果を上げるようになり、世界中のあらゆる職業の人達から注目を浴びるようになりました。 その中には、医師、精神科医、物理学者、精神病学者、牧師、研究技術者をはじめとする多くの職業の人たちが含まれています。

 

 

 

ロバート・A・モンローの言葉

 

「ゴーイング・ホームは主としてライフラインという最近のプロジェクトの成果から生まれたものです。このプログラムは、妻ナンシーががんにかかったという私の個人的な問題を解決しようとして生まれました。私は、「死亡保険」、つまり何が起こっても私たちは一緒にいられるという保証が欲しかったのです。

 

私たちの研究チームが「公園」を発見したとき、その存在を確認するため何度もそこを訪れました。その後ライフラインが完成し、やがて一週間のセミナー形式で実施されるようになり、学習者が訪問者またはヘルパーとしてフォーカス27(公園の新しい名前)に行くことを学習できるようになりました。

 

「公園」が、いつ、誰によって作られたのかはわかりません。数え切れないほど多くの人が、死後の混迷と恐怖に悩み、休息と快癒を求めて途切れることなく公園とその周囲にたどり着きます。その人たちは、安らぎと理性を取り戻した後、多くのオプションから次の人生を選択します

 

ライフライン・プログラムは数年間うまく運営されましたが、私たちはその間に何かが足りないことに気づきました。その欠けていた要素が、ナンシーの死により、「ナンシーに愛された自分」にもたらされました。「現在・この場所」のレベルでは、死後の世界への旅立ちの感情的な影響などの側面は取り扱っていませんでした。患者に対してだけでなく、その家族や愛されている人に対しても同じでした。

 

ゴーイング・ホームは、この面での救いを求める多くの人たちの願いに応えるために制作されました。おそらく、このプログラムは、死を迎える前に、いつでも、どこででも実行できるサービスです。」

 

 

 

 

 

 

【おまけ】

なつかC

 

 

車のシートをバッタリ倒して少しは眠ろうか? 4駆の部屋中にタバコの煙をプカッと漂わせて この頃明日がどうゆう日だってなんとも思わない 歌ってる夏を歌ってる 朝焼けをバックグラウンドミュージックにして サーファー達が波間で夏を歌ってる あいつは今頃幸せそな顔気持ちよさそにきっと 寝息をたてて俺の夢でも見ててくれてるのか ずいぶん勝手なこっちの都合で今までやってきた わかってるだいぶわかってる悪いのは誰?なんて そりゃ海を眺めてボケッとしていりゃわかるさ 走ってたおいらだけ1人で GOING GOING GOING HOME 消える夢かすむ夏このままじゃ… 戻りたい場所お前の胸でもう一度甘えてみたいよ

 

1人で来るんじゃなかったなんて浜辺で思ってみたって 思いが募って自分の甘さが余計に身にしみる いったいどれだけ女が男を許してきたんだろう 海沿いはいつも同じ匂いで来る度にほっとしてさ 結局安心出来るってことだろ! 忘れられなかった失くしたくなかった GOING GOING GOING HOME いつからかどこからか見つけちまった 戻りたい場所お前の胸でもう一度甘えてみたいよ

 

GOING GOING GOING HOME 抱きしめたあの夏を忘れちゃいない 戻れない夏全ては 心に誓って守ってそれから始まれ GOING GOING GOING HOME いつからかどこからか見つけちまった 戻りたい場所あいつの笑顔にもう一度 GOING GOING GOING HOME