「仏教の変化」を書いてますー

 

 

 

 

「仏教」の辞書による「定義」はこうでした

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

 

これが一般的なイメージですが

 

じつは「間違っているよ」って話ですw

 

 

 

「辞書の定義」には、すでにたくさんの問題点が含まれているのですが

 

ぜんぶ言えるかなあ…w

 

 

 

 

 

すごいめんどくさいw

 

(↑頼むよw)

 

 

 

ま、私が書くの飽きたらそこでおしまいってことでw

(↑もう飽きだしてるだろ?w)

 

 

 

 

 

とりあえず「結論」めいたことを書いておきますと

 

 

 

釈迦は「そんなこと」言っていない

 

ですですw

 

 

 

「そんなこと」の内容は

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

にある

 

 

 

「仏になるための教え」

「八正道によって解脱し涅槃に至ることを説く」

 

ですですw

 

 

 

 

 

これは仏教界からすれば「ものすごい異端」であることは重々承知していますw

 

仏教にお詳しい方ほど「怒る」ことも分かっていますw

 

 

 

でもそうなのー!

(↑わがままかw)

 

 

 

いえいえw

 

 

 

 

 

ちゃんといえば

 

「仏になるための教え」ではなく

 

「仏の世界はちゃんと存在するよ~ってことを説いたら、みんな軽くなった」

 

でして

 

 

 

「お前らみんな今生で仏になれ!」

 

とは「釈迦は言っていない」のです

 

 

 

 

 

「八正道によって解脱し涅槃に至ることを説く」ではなく

 

釈迦はいちおう八正道も解脱も涅槃も説いたけれども



「八正道こそが解脱や涅槃の道だ!」

「お前ら今生で解脱や涅槃を目指せ!」

 

とは「釈迦は言っていない」のです

 

 

 


 

なぜそんなことが分かるんだよ?

 

っていうことを説明する面倒くささを思うと

 

ほんと気持ちが萎えそうなのですがw

 

 

 

そうなのー!

(↑うるせえw)

 

 

 

 

 

【おまけ】

(ヾノ・∀・`)ムリムリ

 

 

「仏教の変化」だってよ~

 

 

 

「仏教」の辞書による「定義」はこうです

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

「仏教は自由」ですので、これに異を唱えても自由ですw

 

 

 

それはダメだぞ!

 

っていうカタブツさんにお聞きしたいことがあります~

 

 

 

辞書には

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

 

と仏教が定義されていますが

 

じゃあ現代までに「仏」って何人出たの?w

 

 

 

八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

ってあるけど

 

現代までに「解脱」して「涅槃に至」った奴って何人いたのよ?w

 

 

 

 

 

こうやって書くと

 

ジーナさん!私の尊敬する○○先生は解脱されてますよ!

 

ってコメントいただくんですが

 

 

 

うっせーわ!w

それちげーからw

てか、そもそもそれ

人間信仰じゃんw

 

って、あらかじめ書いとくので、そういうコメントは要らないですー

m(__)m

(ちゃんと理由があるので怒らないでくださいw)

 

 

 

 

話を戻しますとw

 

現代までに「仏」は何人出たのか?

現代までに「解脱」して「涅槃に至」った人は何人出たのか?

 

って話になりますと

 

 

 

ほとんど出ていない

 

っていうのが、なんとなーくの結論でしょう?

 

 

 

 

そこでお聞きしたいのは

 

「仏」も「解脱者」も「涅槃者」も

現代までに「ほとんど出ていない」

 

のであるならば

 

 

 

仏教は「欠陥宗教」である

 

ということなんですw

(↑はい、お前火あぶり決定~w)

 

 

 

 

 

いやいやw

 

でもそうじゃん?

 

 

 

「わり算のやり方」が書かれてある本の通りにやっても

「わり算ができない」人が続出したら

 

その本は欠陥書である

 

ということでしょう?

 

 

 

 

同じように

 

釈迦の教え(とされている)通りに「仏」を目指しても

歴史的に「仏になることができない人」ばかりなら

 

その教えは欠陥だらけ

 

ということなのですよ

 

 

 

 

まあ、面白おかしく書いてますが

 

ここにはいろえろな問題点が含まれていますw

 

 

 

 

 

火あぶりはイヤなので

 

仏教は欠陥宗教ではない

 

を出発点としますと

(↑そうしとけw)

 

 

 

仏教の定義が間違っている

 

ということなのです

 

 

 

 

【おまけ】

毒蛇ヤマカガシ

(ヾノ・∀・`)ムリムリ

 

「目次」w

 

○「仏教の常識」
「信仰」について
「仏教の変化」について←いまここw

○「釈迦の教えのゆがみ」
「根本分裂」について
「釈迦の実像」について

○「無智亦無得」

「お経」について
「玄奘三蔵の実像」について
「無智亦無得」について

 

 

 

キリスト教は「信仰」する宗教です

(イエス本人の思いとは別)

 

仏教も「同じ道」をたどりましたw

 

 

そこで「仏教の変化」をつらつらとw

(議論は一切しないことお許しくださいm(__)m)

 

 

 

 

 

「仏教」の辞書による「定義」は

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

こんな感じです~

 

太文字下線部について、ほとんどの仏教者に異論、反論、オブジェクションは「ない」でしょう

 

 

 

私ジーナを除いてw

 

 

 

 

 

本題に入る前に「確認」しておきたいことは

 

仏教は自由である

 

ということです

 

 

 

 

キリスト教を思い出してください

 

キリスト教とは何か?

キリスト教徒であるとは何か?

 

「聖書で定義されている」ので「動かしよう」がありませんでしたw

 

 

 

ついでに「救われる方法」まで「定義」されていますので

 

キリスト教徒はマジで幸せ者なのですw

 

 

 


 

それに比べて嗚呼仏教よ…w

 

お前はなんと自由なのだ!w

 

 

 

「仏教の自由さ」が分かるのは、冒頭の辞書の

 

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。
日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。

 

のところでも分かります~

 

 

 

のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展

多くの学派・宗派がある

 

って「なぜなのか?」といえば

 

 

 

解釈が自由!

 

だからですw

 

 

 

 

キリスト教では「聖書に書かれていることは絶対」なので

 

異を唱えた瞬間「異端者」とされてしまいますw

(正確に言えば「聖書を解釈するその当時の権威者たちが『絶対』」w)

 

 

 

しかし、仏教には聖書のような「絶対の聖典」はありません

 

だから、「いろえろな解釈」が許されており

 

このブログの私のような「異端者」も

 

安心して自由に火あぶりされずに発信できるわけですw

 

 

 

 

 

するとですよ?

 

上の辞書による「仏教の定義」の

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

に「異を唱える」こともできるのですw

(↑おいおいおいw)

 

 

 

いえいえw

 

だからこそ「多くの学派・宗派がある」わけですからw

 

 

 

 

そもそも、上の辞書のような「仏教の定義」って誰がしたの?w

 

釈迦がしたの?

 

 

 

違うよね?w

 

 

 

釈迦の死後、残された弟子たちによる言動

(「生前の釈迦の思い」とは離れてしまったけれど)

 

が「言い伝え」られて

 

 

 

それを現代の辞書が拾って

とりあえず定義した

 

わけです

 

 

 

キリスト教とは、「かなり事情が異なる」のですね

 

 

 

 

 

【おまけ】

本能

 

 

般若心経、いったん休憩~w

 

 

 

小さなお子さんを持つお母さん

 

からのご質問には、いろえろあります

 

 

 

 

なかでも頻出なのが

 

 

○母乳が出ないが、ミルクだけで大丈夫か?

○母乳が出ない自分を責めてしまう

 

○離乳食を食べてくれない

○離乳食をつくるのが、とてもシンドイ

 

 

などなどラドンです

 

 

 

 

 

まず、母乳の話からですが…

 

 

 

どうやら

 

「母乳信仰」

 

てえのが、まだまだはびこっているらしく

 

 

 

んなもの気にする必要はない

 

んですよ~

 

 

 

日本の粉ミルクは世界一の品質ですので

 

どうぞ安心されて与えてあげてください

 

 

 

ジーナ家の子どもらーが赤ちゃんの時は

 

私も自分のコーヒーに入れて飲んでいたくらいですw

(↑けっこう美味いw)

 

 

 

 

 

「母乳信仰」はどこから来ているのか?

 

といえば

 

 

粉ミルクのない時代が長かったから

 

という単純な一面があります

 

 

 

昔は「母乳が出ない」というのは一大事でして

 

母乳が出るお母さんを探して「もらい乳」

 

ということをしていました

 

 

 

1度ならよいのですが

 

何度も何度も、となりますと

 

 

 

いただくほうも申し訳ないし

 

あげる方も、毎度気持ち良く「いいのよ~どうぞ~」

 

っていう方ばかりではなかったわけです

 

 

 

そんなこんなで

 

母乳が出るお母さんは偉い!

 

っていう「信仰」が生まれただけです

 

 

 

 

 

次に離乳食ですが…

 

 

 

これも「離乳食信仰」ってのがあるようです

(↑なんでも「信仰」だなおいw)

 

 

 

いえいえw

 

「これが正しい!」

「これ以外は間違っている!」

 

といった「信仰」のスタンスからは

 

 

 

マジでそっと離れる!

 

のが楽チンチンなのです

 

 

 

 

 

子どもが生まれて、しばらく経ちますと

 

「離乳食」というワード

 

を目にしだしますね?

 

 

 

いわく

 

離乳食はこうしよう

これが楽しい離乳食

離乳食のこんな工夫

 

とかね

 

 

 

ただ…

 

それを楽しめないお母さん

だってしっかりいらっしゃる

 

わけですよ

 

 

 

楽しめないくらいなら

 

パウチでいいんだよ!

 

 

 

 

 

いやでも○○ちゃんの健康があぁぁ!

 

とかっていう高血圧のお義母さんには

 

ニッコリ笑って、こう言ってさしあげてください

 

 

 

私、どうやら離乳食づくりが苦手なんですぅ~

 

イライラしちゃうんですぅ~

 

イライラするくらいなら

 

母親の私がニコニコしてるほうが

 

○○ちゃんの健康にはいいんですぅ~

 

ってなー!

 

 

 

 

 

母乳と離乳食を挙げましたが

 

 

完璧な母親はいない!

 

っていうことを知り

 

 

 

完璧な母親になる必要はない!

 

ってことを知って下されば十分です

 

 

 

 

子どもが望んでいるのは

 

手を抜かないお母さん

 

ではなく

 

 

 

笑っているお母さん

面白がっているお母さん

人生を楽しんでいるお母さん

 

ですです~

 

 

 

 

 

【おまけ】

立つのもめんどくさいニャ

 

 

(シリーズを通じて議論はいたしておりませんm(__)m)

 

 

 

現在なされている

 

「辞書による仏教の定義」は間違っている

 

ということですが、これは

 

 

 

仏教が変化した

 

からです

 

 

 

本当はみんな気づいているのですがw

 

仏教は変化して「いない」

 

って「ことにして」続けているわけですw

(一番大きな理由は「釈迦の教えが歪んでいても、これまでやってきた歴史がある」からです。これまで信じて仏教の勉強や修行、戒律的なことをやってきたことを「全否定される」のは、やっぱすお坊さまの誰もがしんどいのです。私は「そういう点」においては「理解がある方」なのでw、他者さまに押しつけなければ仏教の勉強や修行、戒律的なことをやりまくるのだって全然いいよ~っていう立場です)

 

 

 

 

 

重要なことは

 

教えは歪みやすい

 

ってことですw

 

 

 

 

この世界は「あなたがつくって」います

 

これがすべての宗教やスピの「原点」です

 

 

 

ヘミシンクの概念ですと

 

フォーカス12や15,27を体験する

 

と「世界は自分がつくっていた」と分かります

 

 

 

これを玄奘三蔵さんは『般若心経』で

 

「観自在」

=観じるがままの自由自在

=観じる自分が在る

 

って言ってます~

 

 

 

イエスも釈迦も「このこと」を説いたのです

 

 

 

 

 

「聖書」の場合、よく知られているように

 

いろえろ「削ぎ落され」ましたw

 

大衆をコントロールするためですw

 

 

 

「あなたが神であり、あなたが世界をつくっている」

 

などと言う表現は

 

支配者にとって「都合が悪い」わけですw

 

 

 

「聖書」には、その「なごり」がありますw

 

直接のイエスのことばではないので「生き残った」のかもしれませんw

 

 

 

わたしと父とは一つである」。
そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。
するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。
ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。(ヨハネによる福音書30-34)

 

 

 

青文字のところですが

 

ちゃんと読むと、イエスは

 

「私を拝みなさい」という

「信仰」は説いていない

 

ということが分かります

 

 

 

 

 

これと同じことが仏教でも起こりましたw

 

 

 

 

釈迦も

 

「お前ら自身が仏であり、お前らが世界をつくっている」

 

と説いたのですが

 

あ!っという間に「仏教は変化」していきましたw

 

 

 

 

 

イエスの存命中に「十字架にかけられた俺」は存在しませんので

 

イエスは「十字架を拝めよ」とは説いていませんね?

 

 

 

同じように、釈迦の存命中には

 

仏像も経典も如来も菩薩もマントラも

お寺も住職も阿闍梨も師弟関係も曼荼羅も

写経も仏具も苦しい修行も仏教式葬式も密教顕教も

 

ない!

 

ってことですw

 

 

 

むしろ

 

そういったモノ・コトに頼るなよ~

 

って説いたのです

(いちおうマントラが気になるかもですが、マントラは私も好きですよ。でも、そもそもあれは他の宗教ですw 「諸法無我」のスタンスの釈迦はマントラには否定的でしたが、当時周囲のあらゆる宗教で「普通にやっていた」ので、釈迦の死後、弟子たちによって本格的に取り入れられただけです)

 

 

 

 

 

教えは歪みやすいw

 

ということは

 

 

 

イエスや釈迦本人の体験や思いと

離れてしまっている

 

ということです

 

 

 

現在伝えられている「教え」は

 

まあ、釈迦本人は言ってねえけどなw

楽しいからやるわw

 

って、どこかで思っておくと

 

 

 

「それ」に固執することが薄れますので

 

楽チンチンになります~

 

 

 

ってことで、しばらく「仏教の変化」について見ていきますが

 

ちょっとQK入れて、次回は通常記事をw

 

 

 

 

 

【おまけ】

お風呂はニガテ

 

 

前回

 

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」

っていうスタンスを



「信仰」

と定義しました


 

 

ちなみに「定義」って大事ですw

 

 

 

 

普段意識しませんが

 

私たちは「定義されていることば」を使っています

 

 

 

「爺さん」

「車の運転」

「プリウス怖い」

 

っていうのが分かるのは「定義」されているからです

(↑最後やめとけw)

 

 

 

「ショボンヌくん」

「ボロボロのおっさん」

「ベンキマン」

 

が分かるのも「定義」されているからです!

 

(↑はいよwオールスターかよw)

 

 

 

「氷を見たことがない人」に「かき氷」を説明する

 

のは、まず「話しが通じない」わけですw

 

 

 

 

 

 

前回までに

 

キリスト教とは何か?

キリスト教徒とは何か?

 

を「定義」しましたが

 

あれは「聖書が定義してくれていた」からできましたw

(もちろん、生前のイエスの思いとはまったく違っていますw)

 

 

 

 

 

問題は「仏教」なのですw

 

仏教ってじつは「定義できない」んですよw

 

 

 

「定義大好き」な辞書を確認してみましょう

 

 

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

キリスト教・イスラム教とともに世界三大宗教の一。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

前5世紀、インドのガンジス川中流に起こって広まり、のち、部派仏教(小乗仏教)・大乗仏教として発展、アジアに普及した。

日本には6世紀に伝来。多くの学派・宗派がある。(デジタル大辞泉)

 

 

 

まあ、たしかにこんなイメージかと

 

ただ、この定義は「間違っている」んですw

 

具体的にいえば、太文字下線部

 

 

 

釈迦の説いた、仏となるための教え。

人生は苦であるということから出発し、八正道の実践により解脱して涅槃に至ることを説く。

 

が間違っていますw

 

 

 

ただ、「辞書に書いてある」し

 

一般的にも「そういったイメージがある」ので

 

「それで今までやってきた」

 

だけですw

 

 

 

 

 

なぜ、仏教は定義できず、辞書の定義は間違っているのか?

 

ってことは

 

これからゆるゆる書いていきます~

 

 

 

 

 

【おまけ】

大きいわんこ、我慢のすえにw

 

「仏教の変化」ですー

 

「比較」としてキリスト教みてますぅー

 

 

 

 

 

前回は

 

キリスト教とは何か?

キリスト教徒とは何か?

 

について「定義」しました

 

 

 

なぜ「定義」できるのか?といえば

 

「聖書に書いてある」

 

からですw

 

 

 

ほーんと便利!w

 

 

 

これは決してバカにしているわけではなく

 

「定義出来ていない仏教」からみると

 

ほんと便利でありがたいことなんですw

 

 

 

 

 

さらに、キリスト教徒にとって素晴らしいことには

 

「どうすれば救われるのか?」

 

ということが

 

 

 

「聖書に明記されている」

 

という点ですw

 

 

 

 

前回のを再掲しますと

 

では、何と言われているのだろうか。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」

これはわたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。(『新約聖書』ローマの信徒への手紙 10:8-11)

 

 

 

青文字のところをご注目~

 

 

 

「口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」

 

って「どうすれば救われるか?」の答えが聖書に書いてあるんですわw

 

 

 

いいなあキリスト教!

分かりやすいなあ!w

(↑はいよw)

 

 

 

そして、重要なことがあります

 

それは、もう1つの青文字

 

「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」

 

ですが、このスタンスを

 

 

 

「信仰」

 

と呼ぶということです

 

 

 

キリスト教徒にとって「聖書に書いてあることは絶対」ですから

 

「信仰」することにおいてキリスト教徒に迷いはないわけですね

 

 

 

 

 

【おまけ】

ペリカンさん視点

 

 

「仏教の変化」を考えてみるよ~

 

で、「比較」のために

 

 

 

キリスト教とは何か?

キリスト教徒であるとは何か?

 

についてとりあげてるよ~

 

 

 

 

 

前回「イエスの復活」を見てみました

 

「イエスの復活」はキリスト教徒にとって「常識」です

 

 

 

そして、今日の命題である

 

キリスト教とは何か?
キリスト教徒であるとは何か?


に深くかかわっています

 

 

 

 

キリスト教の場合、それが「聖書」で定義されているので分かりやすいですw

 

キリスト教では「イエスは復活した」とされています

 

 

 

そして、キリスト教徒にとっては、イエスが復活したように

 

すべての人間は死んだ後にやがて復活し

イエス(神)による裁きを受ける

 

とされています

 

 

 

そして、キリスト教徒は地獄へ落ちないために

 

「イエスの復活を信じ、イエスの名前を唱える」

 

ことで復活後の裁きで救われ、天国にて永遠のいのちを得ることができる

 

とされています

 

 

 

 

 

では、何と言われているのだろうか。

「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」

これはわたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。(『新約聖書』ローマの信徒への手紙 10:8-11)

 

 

 

 

つまり、キリスト教とは

 

「人はみな死後に復活し、神による裁きを受ける」という宗教

 

であり

 

 

 

キリスト教徒であるとは

 

「『イエスは神である』と口に出して言い、イエスが復活したことを信じる人」

 

ということです~

 

 

 

 

【おまけ】

天国ってどういうところ?って疑問な方への動画

 

 

ヒマにゃ!

 

 

 

 

 

ってことで般若心経の「無智亦無得」でも~

(たぶん長いシリーズになりますm(__)m)

 

 

 

なんとなーくの「目次」としては…

 

 

○「仏教の常識」

「信仰」について←いまここw

「仏教の変化」について

 

○「釈迦の教えのゆがみ」

「根本分裂」について

「釈迦の実像」について

 

○「無智亦無得」

「お経」について

「玄奘三蔵の実像」について

「無智亦無得」について

 

あたりを~♪

(↑たしかに長そうだなーw)

 

 

 

 

 

 

「仏教の常識」を考える際

 

そもそも仏教って何だ?

 

ってことを見てみると理解しやすくなります~

 

 

 

 

 

じゃあ、さっそく…

 

「聖書」読むか!

(↑お前気はたしかか?w)

 

 

 

 

いえいえw

 

キリスト教と「比較」することで

 

見えてくることもあんのよw

 

 

 

 

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主(しゅ)イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。

婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガラリヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。(『新約聖書』ルカによる福音書24:1-9)

 

 

 

 

ご存じ「イエスの復活」のところです~

 

え?キリストって生き返ったの?

マジかよ!ウソでい!

 

って方も多いと思いますw

 

んなこた日本人知らなくていいもんなw

 

 

 

でも、キリスト教徒さんにとっては「常識」なので

 

上の「マジかよ!」はいいけど

 

「ウソでい!」は言わない方がいいもよw

 

 

 

 

 

イエス・キリストは十字架にかけられ処刑された

 

ってことはよく知られています

 

 

 

キリストが生まれる前には

 

いわゆる『旧約聖書』ってのが「教え」として広がっていまして

 

そこには「メシア(救世主)は苦しんだ後、三日目に復活する」という預言があります

 

 

 

そして、キリスト教では、処刑の三日後の日曜日

 

その預言通りイエスは復活したとされています

 

 

 

この出来事を祝うイベントが

 

毎年3月から4月にかけて行われる復活祭(イースター)ですが

 

 

 

じつにこの「イエスの復活」こそ

 

キリスト教とは何か?

キリスト教徒であるとは何か?

 

にかかわってくるのです

 

 

 

 

 

ここで「仏教徒」あるいは「仏教好き」さんらーに考えていただきたいのは

 

仏教とは何か?

仏教徒であるとは何か?

 

ということです~

 

 

 

 

 

【おまけ】

メシアってどんな人かな?って疑問な方への動画

 

 

「誰も言わないから俺が言う」シリーズです~

 

 

 

たぶん、長いシリーズになるかもでして

 

そこはほんとごべんなさい

m(__)m

 

 

 

また、世の仏教者さんや仏教大好きさんらーを

 

オコにさせちゃうこと必死なのですが

 

議論等はしないことをお許しください

m(__)m

(心苦しいですが、「議論系のコメントは載せないスタンス」なもので、どうぞご了解ください)

 

 

 

 

 

 

書き手の私ジーナは、こういう顔して書いてます~

 

 

こういう「悪い顔」してる奴と議論したって無駄ですw

 

「悪い顔だなーw」と見守ってくださいw

 

 

 

 

 

ちなみに、般若心経の筆者である玄奘三蔵さんも

 

 

こういう顔して「無智亦無得」と書きましたw

(↑はいよw)

 

 

 

 

 

さて、「誰も言わないから俺が言う」シリーズですが

 

「誰も言っていない」ということは

 

「みんな言ってる」ということですw

 

 

 

つまり「仏教の常識」になっていることが

 

たくさんあるということです

 

 

 

 

 

釈迦の教えを「ひと言」で要約すれば

 

とらわれんなよw

 

ですが、このことに異論反論はありませんよね?

 

 

 

じゃあ

 

「仏教の常識」となっていることに

「とらわれる」必要もない

 

わけです

 

 

 

 

 

たとえば、「仏教の常識」の1つに

 

「読経」

 

があります

 

 

 

とくに大乗系の仏教者さんは

 

朝から晩まで読経している

 

イメージがあります

(あくまでイメージです。本当のところは知らんw)

 

 

 

「読経」「お経」については

 

シリーズの後半で述べると思います

 

 

 

 

「読経」に限らず「仏教の常識」はいまや無数にありますが

 

そもそも仏教とは何か?

 

について見ていくと分かりやすくなります~

 

 

 

 

 

それを読み解くキーワードの一つが

 

信仰

 

ってやつですです

 

 

 

 

 

【おまけ】

これはごめん、見ない方がいいw