前文です。このブログは、政治を含め「人間のすべて」に関する内容となっています。
このブログは、聖書の真理を多くの人に知って貰うことを目的としています。
それゆえ、ものみの塔を含めキリスト教や他の宗教をなるべく客観的に批判をすることが含まれています。
そして、人間のあらゆる事柄についても「気が付いた点」も多く述べています。
このブログは、人々に対する「警告」でもあります。

その根拠の多くは「聖書」です。
ヨハネによる啓示11章
14 第二の災いが過ぎた。見よ,第三の災いが速やかに来る。
15 また,第七のみ使いがラッパを吹いた。すると,大きな声が天で起きてこう言った。「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配するであろう」。
16 すると,神の前で自分の座に座っている二十四人の長老がひれ伏し,神を崇拝して 
17 こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能者なるエホバ神,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り,王として支配を始められたからです。
18 しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたのみ名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にも[その]報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定められた時が[到来しました]」。
19 また,天にある神の神殿[の聖なる所]が開かれ,[神]の契約の箱がその神殿[の聖なる所]の中に見えた。そして,稲妻と声と雷と地震と大きな雹が生じた。
-啓示11:14-19 

テモテ(二)3章
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。2 というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,
3 自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,
4 裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,
5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい
6 こうした人々の中から,[あちこちの]家族の中にそれとなく入り込み,罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者が出るのです。[その女たちは,]さまざまな欲望に引かれ,
7 常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。
-テモテ(二)3:1-7 

ガラテア5章
19さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。
24 さらに,キリスト・イエスに属する者は,肉をその情欲や欲望と共に杭につけたのです。
-ガラテア5:19-24

エフェソス6章
10 終わりに,主にあって,またその力の強大さによって強くなってゆきなさい。
11 悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい
12 わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。
13 このゆえに,完全にそろった,神からの武具を取りなさい。あなた方が,邪悪な日にあって抵抗できるように,また,すべての事を徹底的に行なった後,しっかりと立てるようにするためです。
14 それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,
15 平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。
16 何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます。
17 また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神の言葉を受け取りなさい。
18 それと共に,あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい。そのために,決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい
-エフェソス6:11-18 

エフェソス5章
それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい
2 そして,キリストがあなた方を愛し,芳しい香りとなる神への捧げ物また犠牲としてご自身をあなた方のために引き渡されたように,あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい。
3 聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません
4 また,恥ずべき行ない,愚かな話,卑わいな冗談など,ふさわしくない事柄があってもなりません。むしろ感謝をささげなさい。
5 あなた方はこのことを知っており,自分でも認めているのです。すなわち,淫行の者,汚れた者,貪欲な者は―これらはつまり偶像礼拝者ですが―キリストの,そして神の王国に何の相続財産もありません。
6 あなた方は,無意味な言葉で人に欺かれることがないようにしなさい。ここに述べたようなことのために,神の憤りは不従順の子らに臨もうとしているのです。
7 それゆえ,彼らにあずかる者となってはなりません。    
-エフェソス5:1-7  

今回は、なぜ人間に欲が生まれるのかという話です。

人は一人で暮らしていても、やりたいことが沢山あるものです。
それは、健全な欲望と言えるものが多いと思います。

しかし、そこに他の誰かが加わると各々思いも考えも違う場合が出ています。
そうなると、自分の思っていることが出来なくなることが生じます

兎角、人が集まるとこのようなことが起きるものです。

もし、人の心や行いから「悪」とされているすべてのことを除くとどうなるでしょうか。

人間の心や思いの中から「利己的な願望、欲望、思惑、策略、悪意、妬み、羨望」など「悪いことに通じる観念や思いや感情」をすべて排除し、純粋に人間の諸行を考察し道徳を考えるなら、
そこは平和、親切、穏やかな生活などだけの世界になるでしょう。

聖書の律法やイエスの山上の垂訓は、人間に多くの問題があるので、このような律法や助言をしたのであって、人間に何の問題もなければ律法もおきても司法上の定めも、イエスの数多くの助言や書士やパリサイ人に対する非難も必要はなかったのです。

しかし、無知で何も教えられずに、例えば、山中に一人で暮らすと自ずとすべては自分の思いや考えで物事を行うことになります。
人間的に考えれば、いわゆる「野性」そのものですが、他人に対する思いや欲望などは一切生じません
周囲に誰も人がいないからです。

そこに誰かが来たとしても、おそらく、警戒はしません

他人から害を受けたことがないからです。

自分の能力に応じてですが、何でも、自分の思うように出来るのです。
そこには我儘も自己本位もありません

人は誰かと生活や仕事などを共にするので多くの問題が生まれるのです。

こうしたことを考えると、神は集団ではなく家族単位自立した生活することを意図していたように思います。
人間が生き続けるには子孫を設ける必要があります。
つまり、妻と妻の支えが必要であることは言うまでもないことです。

人との交わりを最小限に、家族に限定する物事は大抵大きな問題もなく行うことが出来ます。

人は誰かと比べることで「余計な思いや感情」が芽生えるのです。

人は一人で生活していても欲は生まれますが、例えば、収穫を増やしたいということなどは自然の欲求です。
しかし、誰かと比べることで欲望が増幅されることも事実です。
つまり、人は誰かと比べることで本来の自分自身から逸脱し、分不相応な欲望に執着するようになるのです。

  

人は集団(社会)で暮らしている以上、常に誰かを見ており、見ることで自然に自分と比べてしまうものです。
従って、大勢の人と接していても、誰かと比べることをしないだけでも欲望は半減するのです。

人と比べてではなく、自分自身の向上心による欲であるならば自分自身を見失うことはなく健全な思いを持ち続けることができます。

 

人と比べないことの他の利点は、誰かが立派なことや良いことあるいは優れたことを成し遂げた時に、素直に、喜べるという点です。
比べてはいないので、妬む気持ちも起こりません
ただ、すごいとか良くやったとか褒めるだけで済むのです。
それ以上の思いも感情も持つことはないのです。

 

さて、あなたはどのような欲を抱いていますか

それは、誰かと比べているのではありませんか。

犯罪や悪事と言われること、あるいは、誰かと競争することでなければ、人として「健全な生き方」が出来ます。

 

++++++++++++++++++++++++++++++  

神の律法下にあったAD33年当時のユダヤ人の中で、いわゆるサンヘドリンに出入りする人々、特に書士やパリサイ人などは常に人を見、律法に逆らう者たちを批判し迫害をしていました

そして、ユダヤ人社会で「優位な立場」を得ようとしていました。

つまり、人々から「敬意」を抱かれることを「欲していた」のです。

  

イエスはそうした彼らの振る舞いを批判することで、神への崇拝の「正しい行い」を示しました

 

一方、イエスの弟子たちは、イエスに敬意を抱いておりイエスから学び神の是認を得ることに「思いを集中」させていました。

ある時、ヤコブとヨハネの母がイエスに近づき「あなたの王国で一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座るようお申し付けください」と言いました。

弟子ではなく、弟子の母が言ったことです。

このことを聞くと他の十人はその二人の兄弟のことで憤慨しました。

そして、イエスは十ニ人の弟子たちに次のように言われたのです。

「25 しかしイエスは,彼らを自分のところに呼んでこう言われた。「あなた方は,諸国民の支配者たちが人々に対して威張り,偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。

26 あなた方の間ではそうではありません。かえって,だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者あなた方の奉仕者でなければならず,

27 また,だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者あなた方の奴隷でなければなりません

28 ちょうど人の子が,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」。 -マタイ20:20-28

 

イエスは十二人の弟子たちに、偉くなりたい(高い立場、立派な立場を欲すること)と思うなら「互いの奉仕者、奴隷でなければならない」と言われたのです。

 

また、パウロも次のように語っています。

テモテ(一)6章
くびきのもとにあって奴隷である人は皆,自分の所有者を,全く尊敬すべきものとみなしてゆきなさい。それは,神のみ名と教えが決して悪く言われることのないためです。

2 さらに,信者である所有者のいる人は,それが兄弟であるからといって見下げることがあってはなりません。むしろ,自分の良い奉仕の益を受けるのが信者であり,自分の愛する者であるからこそ,いよいよ快く奴隷として仕えなさい
これらのことを絶えず教え,またこうした勧めを与えてゆきなさい。

3 もしだれかがほかの教理を教え,健全な言葉,すなわちわたしたちの主イエス・キリストの[言葉]に同意せず,また敬虔な専心にかなう教えに[同意し]ないなら,

4 その人は[誇りのために]思い上がっているのであり,何も理解しておらず,疑問をはさむことや言葉をめぐる論争で精神的に病んでいるのです。そうした事から,そねみ,闘争,ののしりのことば,悪意のうたぐりが起こり,

5 また,思いが腐って真理を奪い取られ,敬虔な専心を利得の手段と考える人々の,ささいな事をめぐる激しい言い争いが[起こり]ます

6 確かに,自ら足りて敬虔な専心を守ること,これは大きな利得の手段です。

7 わたしたちは世に何かを携えて来たわけではなく,また何かを運び出すこともできないからです。

8 ですから,命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです。
9 しかし,富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます

10 金銭に対する愛はあらゆる有害な事柄の根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷い出,多くの苦痛で自分の全身を刺したのです。
11 しかし,神の人よ,あなたはこうした事から逃げ去りなさい。そして,義,敬虔な専心,信仰,愛,忍耐,温和な気質を追い求めなさい

12 信仰の戦いをりっぱに戦い,永遠の命をしっかりとらえなさい。あなたはそのために召され,多くの証人たちの前でりっぱに公の宣言をしたのです。

信仰とは戦いであると述べています。

 それは、世と世にあるものに対する欲望との闘いということです)


13 すべてのものを生かしておられる神,また,証人としてポンテオ・ピラトの前でりっぱに公の宣言をされたキリスト・イエスのみ前であなたに命じます。

14 わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで,汚点のない,またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい

15 その[顕現]は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。[その方は]王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,

16 ただひとり不滅性を持ち,近づき難い光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできない方です。この方に永遠の誉れと偉力とがありますように。アーメン。

幸福な唯一の大能者とは神のことです)


17 今の事物の体制で富んでいる人たちに命じなさい。高慢になることなく,また,不確かな富にではなく,わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださる神に希望を託すように。

18 そして,善を行ない,りっぱな業に富み,惜しみなく施し,進んで分け合い,

19 自分のため,将来に対するりっぱな土台を安全に蓄え,こうして真の命をしっかりとらえるようにと。

この助言は、富んでいる信者に対するものです)


20 テモテよ,あなたに託されているものを守り,聖なる事柄を汚すむだ話や,誤って「知識」ととなえられているものによる反対論から離れなさい

(当時の会衆内にもこのような人々がいて、パウロの言う「真理」に対して反対する者たちがいたことを示しています)

 

21 ある人たちは,そうした[知識]を見せびらかそうとしたために信仰からそれて行きました。
過分のご親切があなた方と共にありますように。

 

パウロは、そうした「知識」を見せびらかそうとすることを批判しています。

 

あなたは知っていますか、ものみの塔の教えの中にも「このような教えが含まれている」ことを。

これらの「動機」は、人々からの敬意を受けたい、高い立場に立ちたいという「欲望」なのです。

 

こうしたことを「イエスは非としている」のです。

クリスチャンは「肉をその情欲や欲望と共に杭につけた」だけでは「不十分」なのです。

肉(肉体)だけではなく、心からそうした「精神、つまり、霊」を「死んだもの」とするようにと言っているのです。

前文です。このブログは、政治を含め「人間のすべて」に関する内容となっています。
このブログは、聖書の真理を多くの人に知って貰うことを目的としています。
それゆえ、ものみの塔を含めキリスト教や他の宗教をなるべく客観的に批判をすることが含まれています。
そして、人間のあらゆる事柄についても「気が付いた点」も多く述べています。
このブログは、人々に対する「警告」でもあります。

その根拠の多くは「聖書」です。
ヨハネによる啓示11章
14 第二の災いが過ぎた。見よ,第三の災いが速やかに来る。
15 また,第七のみ使いがラッパを吹いた。すると,大きな声が天で起きてこう言った。「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配するであろう」。
16 すると,神の前で自分の座に座っている二十四人の長老がひれ伏し,神を崇拝して 
17 こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能者なるエホバ神,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り,王として支配を始められたからです。
18 しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたのみ名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にも[その]報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定められた時が[到来しました]」。
19 また,天にある神の神殿[の聖なる所]が開かれ,[神]の契約の箱がその神殿[の聖なる所]の中に見えた。そして,稲妻と声と雷と地震と大きな雹が生じた。
-啓示11:14-19 

テモテ(二)3章
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。2 というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,
3 自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,
4 裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,
5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい
6 こうした人々の中から,[あちこちの]家族の中にそれとなく入り込み,罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者が出るのです。[その女たちは,]さまざまな欲望に引かれ,
7 常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。
-テモテ(二)3:1-7 

ガラテア5章
19さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。
24 さらに,キリスト・イエスに属する者は,肉をその情欲や欲望と共に杭につけたのです。
-ガラテア5:19-24

エフェソス6章
10 終わりに,主にあって,またその力の強大さによって強くなってゆきなさい。
11 悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい
12 わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。
13 このゆえに,完全にそろった,神からの武具を取りなさい。あなた方が,邪悪な日にあって抵抗できるように,また,すべての事を徹底的に行なった後,しっかりと立てるようにするためです。
14 それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,
15 平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。
16 何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます。
17 また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神の言葉を受け取りなさい。
18 それと共に,あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい。そのために,決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい
-エフェソス6:11-18 

エフェソス5章
それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい
2 そして,キリストがあなた方を愛し,芳しい香りとなる神への捧げ物また犠牲としてご自身をあなた方のために引き渡されたように,あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい。
3 聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません
4 また,恥ずべき行ない,愚かな話,卑わいな冗談など,ふさわしくない事柄があってもなりません。むしろ感謝をささげなさい。
5 あなた方はこのことを知っており,自分でも認めているのです。すなわち,淫行の者,汚れた者,貪欲な者は―これらはつまり偶像礼拝者ですが―キリストの,そして神の王国に何の相続財産もありません
6 あなた方は,無意味な言葉で人に欺かれることがないようにしなさい。ここに述べたようなことのために,神の憤りは不従順の子らに臨もうとしているのです
7 それゆえ,彼らにあずかる者となってはなりません。    
-エフェソス5:1-7   

今回は、短気な私が怒らなくなった原因についての話です。

 

前文の中の聖書の助言にあるように、信仰にある者たちには「怒り」は禁物です。

しかし、現実を見てみると「これを守っている人は殆どいません

キリスト教を国教とする国々は沢山あります。

イギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパの殆どの国々やロシアやアメリカもそうです。

仏教では、「怒り」は「むさぼり」や「無知(おろかさ)」を「三毒」)の一つとしています。

 

つまり、どの宗教でも「怒り」「欲望」「淫行」を禁じていますが、これを守っている人は殆どいないということです。

この点、聖書に忠実であると公言しているものみの塔の信者でも同じです。

そして、世の中の普通の人と同じく多くの問題を生じさせています

 

怒り」に関しては、前文の他に

5 ですから,淫行,汚れ,性的欲情,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなた方の肢体を死んだものとしなさい。

6 こうした事柄のゆえに神の憤りは臨もうとしているのです。

7 かつてそうしたことの中で生活していた時には,あなた方もまさにそのような事のうちを歩んだのです。

8 しかし今は,そうしたものを,憤り,怒り,悪,ののしりのことば,またあなた方の口から出る卑わいなことばを,ことごとく捨て去りなさい

9 互いに偽りを語ってはなりません。古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て,

10 新しい[人格]を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造した方の像にしたがって新たにされてゆくのです。

11 そこにはギリシャ人もユダヤ人もなく,割礼も無割礼もなく,異国人も,スキタイ人も,奴隷も,自由人もありません。ただキリストがすべてであり,すべてのうちにおられるのです。
12 したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい。

13 だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい。

14 しかし,これらすべてに加えて,愛を[身に着けなさい]。それは結合の完全なきずななのです。
15 また,キリストの平和があなた方の心の中を制御するようにしなさい。実際あなた方は,一つの体としてそれに召されたのです。そして,感謝を抱いていることを示しなさい。

16 キリストの言葉を,すべての知恵においてあなた方のうちに豊かに宿らせなさい。詩と,神への賛美と,慈しみのこもった霊の歌とをもって互いに教え,また訓戒し,心のうちでエホバに向かって歌いなさい。

17 そして,あなた方が言葉や業において行なうことが何であっても,すべての事を主イエスの名によって行ない,彼を通して父なる神に感謝しなさい。
18 妻たちよ,夫に服しなさい。それは主にあってふさわしいことだからです。

19 夫たちよ,妻を愛しつづけなさい。[妻]に対して苦々しく怒ってはなりません

20 子供たちよ,すべての事において親に従順でありなさい。これは主にあって大いに喜ばれることなのです。

21 父たちよ,あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい

22 奴隷である人たちよ,肉的な意味で[あなた方の]主人である人たちに対し,すべての事において従順でありなさい。人を喜ばせようとする者のように,目先だけの奉仕をするのではなく,誠実な心で,エホバを恐れつつ[仕えなさい]。

23 何をしていても,人にではなくエホバに対するように魂をこめてそれに携わりなさい。

24 あなた方は,しかるべき報いである相続財産をエホバから受けることを知っているのです。主人であるキリストに奴隷として仕えなさい

25 悪を行なっている人は,自分が行なった悪の報いを必ず受けるのです。不公平はありません

-コロサイ3:5-25  

 

31 すべて悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪と共にあなた方から除き去りなさい。-エフェソス4:31

 

と示されています。

しかし、これを守っている人は「殆どいない」のです。

正に、今の世「淫行,汚れ,性的欲情,有害な欲望,また強欲」で「満ちています」

そして、人々は自分の「怒り」の感情を爆発させているのです。

そうすることで「自分を優位」にしようとさえしているのです。

 

実に愚かなことです。

あなたもそう思うに違いありません

しかし、そう思っても人は、時として怒りを爆発させている」のです。

 

人は単に「自制心」だけでこのような悪を抑えたり除き去ることが出来るのでしょうか

おそらく、「限界」があります

 

++++++++++++++++++++++++++++

自分の中から「怒り」を捨て去るための一つの例として自分の経験を話したいと思います。

私は昔は非常にではありませんが気が短かったです。
それは、自分の考えが正しいと思い込んで、他の人の考えや意見を受け入れない時に、初めは我慢出来るのですが同じことを繰り返されると苛立ち怒ってしまうのです。
その我慢の限界はおそらく20分ぐらいだと思います。
母からは遺伝だと言われました
実際、父も兄も私と同じような時に怒り出すからです

しかし、母は決して怒らない人でした(母にはこの遺伝子が全く関わっていません)。
10歳ぐらいの時、悪いことをして父に一度蔵に閉じ込められたことがありましたが母が食事を差し入れついには出してくれました。(余程父の逆鱗に触れたと思いますが、何をしたかは記憶にありません)

母は私が悪さをしたことを知っていても、問い詰めることも怒るも決してありませんでした
そういう教育方針なのだと思っていました

母は、師範学校を出て教員の資格を持つ人でしたが、当時は復員した男子の就職が優先され教師にはなれませんでした。

祖父も師範学校を出て、教育委員長を務めた人でもありました。

実際、私は小学校高学年以降[意図的に]悪いことをすることは無くなりました

それでも私の性格は高齢になるまで余り変わってはいませんでした

ところが、
定年になりしばらくは何もせずやりたいことをしていましたが、数年前から畑をやるようになってから変わりました
怒らなくなったのです。
時々苛立つことはありますがそれで怒るということが無くなったのです。
今では、妻の方が物事を急ぎ過ぎているように思い、また、言うことに頑固さが目立つようになりました。
そういうことに気が付くようになったのです。
これは自分の思うように畑をするようになり、時々失敗をしても気にしなくなったからだと思います。
すべては自分一人でしたことなので誰かのせいには出来ないし、することもなく、また、何をするにしても自分の思うように、また、やりたいときにすれば良いと心にゆとりが出来るようになったからだと思います。
つまり、自分一人で自由に畑をすることで[気持ちに余裕が出来自分の思いや考えが変わったということです。
畑をしていると常に先のことを考えています
作物を作る時にはまず土を作ることから始めます。
それは、土の消毒であり元肥として牛糞や鶏糞、腐葉土、もみがら、化成肥料、殺虫剤、元肥の中の善い細菌を活発にする薬剤などを混和したり、苗が育ちやすくするために種用培土や育苗培土を混和させたりすることです。
することは決まっていますから、殆ど考えることもありません。
あとは、季節に従って苗を買って来て定植し、時節に応じ追肥をするだけです。
時には苗をしばらくポットで育て、いわゆる鉢替えをして更に根を丈夫にしてから定植する場合もあります。
更に、定植した後も、いわゆる三本立てにするかどうかを決め剪定する場合もあります。
更に、作物によっては防虫ネット、寒冷紗をしたり、不織布をべた掛けしたりすることもあります。
更に、モグラや害獣対策、鳥対策、病気対策などをします。

  

最近、畑を売ってくれた人が彼岸花がモグラに効果があると教えてくれました。

彼岸花が群生している場所も教えてくれました。

その人も畑の周囲に植えているそうです。

ネットで調べて、その理由が分かりました。

以前、モグラ対策を調べた時には気が付きませんでした。

今年は遅いので来年畑の周囲に植えたいと思っています。

これで、費用が減ります。

私も畑で野菜を作っているのですが、会う度に野菜をくれるので、我が家では野菜が余る程あり、食費が助かっています。

 

このようにすることが決まっていますので、わたしとしてはただするだけで良いのです。
つまり、
私自身のストレスが殆ど無くなったことが大きな理由だと思います。

現役で仕事をしている時には、しなければならないというプレッシャーストレスとなり精神的に余裕がなかったとも言えます。

今は、精神的に余裕があるので、すべての事柄に関して寛容さを持てるようになったということです。

これは、丁度お金に困らない位裕福になったようなもので、精神的に裕福になったのです。
こうしたことは人生を更に豊かにしてくれました
周囲の人が善い人だらけになったのです。
これは、つまり、自分がそうしているのだと気が付きました
つまり、周囲に敵が多いのは自分が周囲の人を敵にしていたということの裏返しだと言えます。
つまり、自分が変わると周囲も変わるという証拠のようなものです。

  

いわゆる、現役世代の人々には、特に現代では「精神的余裕」がないと思います。

常に誰かを意識し「無意識の内に張り合っている」からです。

それでも、ものの考え方によっては「精神的余裕」を持つことは可能です。

それは、物事を複雑に考えないことです。

物事をシンプルに考えると「気が楽になる」こともあるのです。

加えて、常々私が言っているように、焦らない、急がない、ボーとした時間を作る、そして、怒らないことと嫌な思いに直面した時にその場を離れ気にも留めないことなどを行うことで物事を思うようになるものです。

 

さて、あなたはどうですか?

  

追伸

怒らないと言っても全く怒らない訳ではありません

犯罪などの悪事に関しては「強い憤り」を感じます

しかし、残念ながら、私にはそうした人を裁く権限はありません

おそらく、誰しもが思うことかも知れませんが、神が私に地上の悪事を裁く権限を与えて欲しいと思う時がしばしばです。

聖書の中では裁く権限を持っているの唯一真の神だけです。

神が裁きの指令を出し、その指令受けたみ使いがある人には神の憐みある人には滅びの報いをもたらすのです。

  

今地球上で行われている戦争や犯罪者などは「自らの責任」で行っているのであって、そうした人々は神による裁きを受け「完全な滅び」を身に受けることになっています。

これを聞いて少しは安心した人もいるのではないでしょうか。

ただし、それは「もう少し先のこと」なので我慢と忍耐が必要です。

もし、イエスによる復活の希望を抱いている人ならば、「信仰を抱く必要」が付け加えられます。

あなたはその「信仰」を持っていますか。

  

この信仰は無償で手にすることが出来ますが無条件ではありません
その信仰がどのようなものかも「是非、調べて見て下さい」
その価値は十分にあります

  

++++++++++++++++++++++++++++ 

こうした点でのものみの塔の指導は、

信者に「自制」を求めるものです。

つまり、「淫行,汚れ,性的欲情,有害な欲望,また強欲」に加え「怒り」を「自制」するようにと教えているのです。

その教えを受けた信者の現実」はどうでしょうか。

抑えるようにと言われている事柄を「慢性的に行い続けている」のです。

そのため世の人々と同じく「多くの問題を抱えています

これも、ものみの塔の教えが功を奏していないというより「間違っている」からなのです。

 

「自制」だけでは効果が殆どないのです。

こうした悪を行わないためには別の動機」が必要なのです。

 

信者が自制しているのはそのように教えられているから」です。

人を喜ばせようとする者のように,目先だけの奉仕をするのではなく」といったパウロの言葉にあるように、

ものみの塔の信者たちは、ものみの塔や周囲の信者の目を気にして「自制」しているだけなのです。

このような動機では弱いので、「自制」出来ないのです。 

 

私が怒らなくなったのは、

信仰という他力本願ではなく自分の「環境」が変わったので怒る必要が無くなったからでもあるのです。

 

ものみの塔の信者でも「会衆内では、自分の怒り」を表す人は殆どいません。

しかし、一歩会衆を離れると「むらむらと妬みや怒りの感情」が出て来るのです。

こうして、ものみの塔の信者は「二重人格者」となって行くのです。

つまり、会衆内では信者として振る舞い世の中では世の人々と同じことをして信仰を否定」しているのです。

これは、単に彼らが言う「人の弱さによる罪」ではありません。

 

肉体のバプテスマを受け表面上はクリスチャンになってはいますが、「心のバプテスマ」を受けていないのです。

もし「心のバプテスマ」を受けているなら、

「キリスト・イエスに属する者は,肉をその情欲や欲望と共に杭につけ」そのようなことはしないのです。

つまり、悪に関しては「みどり子」ように、あるいは、死んだ者となっているはずだからです。

-コリント(一)14:20

 

自分に「怒り」を生じさせないためには、助けが必要なのです。

その一つが「環境」です。

怒らない、あるいは、怒る必要のない環境を「作る」ことです。

これは、家庭という「自分の感情を表しやすい」場所でも可能です。

その「環境」は人によって異なります

一人ひとり「怒る理由が違う」からです。

 

こうしたことを「なんとなくでも理解」出来るなら、あなたの信仰は「少しは進歩」することでしょう。

そして、その進歩はあなたを命へと導くのです。(そこが、命の門となり)

さらに、これが現実となればあなたは命の道を歩み始めたことになります。(実際に、命の道を通っているのです)
 

13 「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。

14 一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。
-マタイ7:13

前文です。このブログは、政治を含め「人間のすべて」に関する内容となっています。
このブログは、聖書の真理を多くの人に知って貰うことを目的としています。
それゆえ、ものみの塔を含めキリスト教や他の宗教をなるべく客観的に批判をすることが含まれています。
そして、人間のあらゆる事柄についても「気が付いた点」も多く述べています。
このブログは、人々に対する「警告」でもあります。

その根拠の多くは「聖書」です。
ヨハネによる啓示11章
14 第二の災いが過ぎた。見よ,第三の災いが速やかに来る。
15 また,第七のみ使いがラッパを吹いた。すると,大きな声が天で起きてこう言った。「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配するであろう」。
16 すると,神の前で自分の座に座っている二十四人の長老がひれ伏し,神を崇拝して 
17 こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能者なるエホバ神,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り,王として支配を始められたからです。
18 しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたのみ名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にも[その]報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定められた時が[到来しました]」。
19 また,天にある神の神殿[の聖なる所]が開かれ,[神]の契約の箱がその神殿[の聖なる所]の中に見えた。そして,稲妻と声と雷と地震と大きな雹が生じた。-啓示11:14-19 

テモテ(二)3章
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。2 というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,
3 自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,
4 裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,
5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい
6 こうした人々の中から,[あちこちの]家族の中にそれとなく入り込み,罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者が出るのです。[その女たちは,]さまざまな欲望に引かれ,
7 常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。
-テモテ(二)3:1-7 

ガラテア5章
19さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません
24 さらに,キリスト・イエスに属する者は,
肉をその情欲や欲望と共に杭につけたのです。
-ガラテア5:19-24

エフェソス6章
10 終わりに,主にあって,またその力の強大さによって強くなってゆきなさい。
11 悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい
12 わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。
13 このゆえに,完全にそろった,神からの武具を取りなさい。あなた方が,邪悪な日にあって抵抗できるように,また,すべての事を徹底的に行なった後,しっかりと立てるようにするためです。
14 それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,
15 平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。
16 何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます。
17 また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神の言葉を受け取りなさい。
18 それと共に,あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい。そのために,決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい
-エフェソス6:11-18
 エフェソス5章
それゆえ,愛される子供として,神を見倣う者となりなさい。
2 そして,キリストがあなた方を愛し,芳しい香りとなる神への捧げ物また犠牲としてご自身をあなた方のために引き渡されたように,あなた方も愛のうちに歩んでゆきなさい。
3 聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません
4 また,恥ずべき行ない,愚かな話,卑わいな冗談など,ふさわしくない事柄があってもなりません。むしろ感謝をささげなさい。5 あなた方はこのことを知っており,自分でも認めているのです。すなわち,淫行の者,汚れた者,貪欲な者は―これらはつまり偶像礼拝者ですが―キリストの,そして神の王国に何の相続財産もありません
6 あなた方は,無意味な言葉で人に欺かれることがないようにしなさい。ここに述べたようなことのために,神の憤りは不従順の子らに臨もうとしているのです。
7 それゆえ,彼らにあずかる者となってはなりません。    -エフェソス5:1-7  
今回は、多民族国家アメリカと日本との決定的な違いという話です。

アメリカは多民族国家なのに、白人以外の人々に対しては排他的です。
これは、自己否定しているのと何ら変わりはありません

多民族国家の特徴も良く表しています。

それは、特に感性に現れています。
例えば、先進技術に敏感に反応します。

クローン技術が進歩し、一部で(韓国という噂)はクローンベビーを誕生させたと聞きます。
おそらく、アメリカやヨーロッパのどこかの国では既に実行していると思います。
しないはずがないからです。

アメリカの面白いところは(愉快という意味ではありません)、これを「警告するような映画」が直ぐに登場することにあります。

映画「アイランド2005」(2005年製作)や「エリザベス 神なき遺伝子」(2016年製作)などがあります。
世界的には「倫理上の問題」が解決していないので、表向きにはさせない方向にあります。

しかし、アメリカ人の特徴は社会的な出来事に関する疑問SF映画などで「その危惧を訴える」ということが良く見られることです。
かつては、犯罪が増加すると、スパイダーマン、スーパーマンなどが流行りました。
その時代設定は1900年代初めです。
その後、宇宙を題材にした映画も多数作っています。
ターミネーター、プレデターなど「奇怪」な映画から、放射能汚染や地球環境の変化により氷河期に突入したものや最近に犯され一つの都市が滅んだものや異星人が到来し地球を破壊したり猿の惑星のように核戦争後に猿が地球を支配する映画など様々な映画を作っています。

 

その背景にあるのは、社会の様々な問題や地球環境破壊などです。
こうしたことを警告する意味でこうした様々な映画やドラマを作っているのです。

 

売れる」となればなんでも手を出すのがアメリカです。
加えて、多民族国家であるゆえに、様々な意見や考えを持つ人も非常に多いということです。

 

日本のように、ほぼ単一国家(いわゆる大和民族)であれば(アイヌもいますが)あまり突飛な考えはしないものです。
殆どが常識程度のことしか考えないのです。
映画「ゴジラ」にしても、様々な漫画やアニメーションにしても、どれも人間的なものばかりです。
怒り、喜び、笑い、涙の他に様々思いや感情が満載です。

 

ところが、アメリカ映画でもこうしたことは表現されますが、大抵は男女間の気持ちや感情と悪に対する極端な感情と表現です。
西部劇が良い例です。
常に白人が正しくてインデアンは野蛮で劣る人間として表現されています。
白人がアメリカ大陸を支配するために「正当化するために制作」されたものばかりです。

 

アメリカ人はインデアンを奴隷には出来ませんでしたが、アフリカからの黒人を奴隷にしました。
映画「ルーツ」ではそうした経緯が良く表現されています。

 

勿論、ヨーロッパでも黒人は奴隷として扱われましたが、アメリカ程酷いことはしませんでした。
今では、イギリスでもフランスでも黒人も白人同様に扱われています。
アメリカだけが黒人のみならず白人以外を差別しているのです。
更に、いわゆる違法難民に対する差別、迫害トランプ大統領自らが行っています

すべての面において、アメリカは極端を表す国です。
政治においても経済や金融に関しても同様なのです。
SFなどの空想だけではないのです。

アメリカ人の本質はトランプが言うように「アメリカファースト」です。

 

日本人の本質は「差別のない進歩改善、思いやり、平和」です。

この違いは非常に大きいです。
政治的日本はアメリカには決して敵いません
外交や経済や金融においてもです。

 

唯一日本人がアメリカ人に敵うのは、創作、創造ではなく「対応力」です。
アメリカ人は多額の資金力や経済力や軍事力で物事を解決しようと「強引」であり「傲慢」な面がありますが、ダメだと分かると簡単に手を引いてしまいます
日本人はダメだと思ったところから「再スタート」をし、努力と改善、改良など工夫をする民族なのです。(こういう発言を聞いたことのある人は多いと思います)
これが日本人の特質なのです。

 

アメリカ人の優しさや愛キリスト教の影響ですが、

日本人の親切や優しさは「経験」から行うものです。
それは、苦労や苦難を経験しその大変さが分かっているので困っている人を見ると助けたくなるのです。

 

日本人の親切や優しさは「人間的」なのです。
アメリカ人の優しさや愛情は「対面的」な、いわゆる外見上の評判を気にしてのことであり、「正義感を持たない人間」と見られたくないための表面的なものなのです。

実際、善いことをした人や悪事を働いた人に対する反応は「極端であり異常」です。

しかしながら、上記で述べたようにアメリカは多民族国家という特質上様々な意見や考えを持った国でもあるのです。
日本人には想像も付かないようなことを思い付きそれを実行する「力、エネルギー」があります

個人的にはこうしたアメリカ人は嫌いですが、その「力」の影響はどうしようもない位「襲って」来ているのが現実なのです。

  

日米のこうした違いの背景には、

アメリカは、ヨーロッパからの移民で作り上げた国だという点にあります。

つまり、移民した人々は原始時代から様々なことを経験し作り上げて来て造った国ではなく、ヨーロッパの歴史を土台として改めて理想とする国家を作った国だということです。

ヨーロッパの歴史と思想と宗教を持った人々が理想とする国家を作り上げた国だという点です。

そのため、アメリカの憲法では、他国では見られない文言が多く含まれています。

アメリカの憲法は他国とは大きく異なるのです。

そして、その思想は現代にまで続いています

 

例えば、日本人が小笠原諸島に移民しそこに新しい国家を建設するようなもので、そこに移民した人々は当然、日本の文化や思想や宗教を持ち込むことになります。

そして、過去の日本の歴史を考え、新しい理想国家を作ることになります。

 

正に、アメリカという国はそういう国なのです。

日本のような歴史的背景を持たない、かつ、利己的で欲望に満たされた国アメリカという国なのです。

  

アメリカ発祥の「ものみの塔」とその組織も「アメリカ人の特徴」を良く表しています。

そのため、特に日本人は理解に苦しみ「困惑」することが多いのです。

日本人は欧米人に従う傾向にあり、数は少ないですが日本にキリスト教が普及した理由でもあります。

例え、疑問を抱いてもアメリカ人の支部委員や宣教者の言うことに従ってしまうのです。

勿論、レイモンド・フランズのように「意を唱え排斥」された人も少なくありません

日本のものみの塔の信者数はピーク時から少し減っておよそ20万人程度でそれ程多い訳ではありません。 

   

さて、こうした日米の特質の違いは周知の事実です。

これをどのように思い、考え、振る舞うかは日本人の継続した「知恵と忍耐と努力」に掛かっています。

カリスマ的な指導者が現れない限り、日本は真の意味で独立した国家にはなれません

明治までの「誇りを持った、自立した国家」を取り戻すことが出来ないのです。

しかしながら、織田信長に見られるように「カリスマ的指導者」が登場しても、それに「反発」するのも日本人なのです。  

 

しかし、前文の中に示されているように、今は危機の時代なので、様々な[特徴的な]人々が世界中に混在しており、決して一つには纏まることが出来ない状態にあります。

それでも「世界的な危機=神のよる滅び(裁き)」では一つに纏まる時が来るのです。 

 

あなたはどう考えますか?

  

追加

高市(首相)が独善的な政策をどんどん推し進めていますが、日本を真の意味で独立した国家に出来るかと云えばノーです。

多額な借金を増やし近隣の国と問題を起こし国内経済や政治に影響を与えているようでは、必ず行き詰まる時が来るものです。

国民は騙されているのです。

借金が増えると国民の負担も増えるのです。

見せ掛けの政治に騙されてはなりません。 

あなたは[狂人]トランプに「尻尾を振って近づいた高市」を目撃しているのです。

高市はアメリカに迎合しているのです。

このような指導者は安倍晋三のように日本に「害」を及ぼすだけです。  

結果が起きてからでは「手遅れ」なのです。

あなたはどう思いますか?  

このブログは、政治を含め「人間のすべて」に関する内容となっています。このブログは、聖書の真理を多くの人に知って貰うことを目的としています。
それゆえ、ものみの塔を含めキリスト教や他の宗教をなるべく客観的に批判をすることが含まれています。
そして、人間のあらゆる事柄についても「気が付いた点」も多く述べています。
このブログは、人々に対する警告」でもあります。

その根拠の多くは「聖書」です。
ヨハネによる啓示11章
14 第二の災いが過ぎた。見よ,第三の災いが速やかに来る。
15 また,第七のみ使いがラッパを吹いた。すると,大きな声が天で起きてこう言った。「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配するであろう」。
16 すると,神の前で自分の座に座っている二十四人の長老がひれ伏し,神を崇拝して 
17 こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能者なるエホバ神,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り,王として支配を始められたからです。
18 しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたのみ名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にも[その]報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定められた時が[到来しました]」。
19 また,天にある神の神殿[の聖なる所]が開かれ,[神]の契約の箱がその神殿[の聖なる所]の中に見えた。そして,稲妻と声と雷と地震と大きな雹が生じた。-啓示11:14-19 

テモテ(二)3章
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。2 というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,
3 自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,
4 裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,
5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい。
6 こうした人々の中から,[あちこちの]家族の中にそれとなく入り込み,罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者が出るのです。[その女たちは,]さまざまな欲望に引かれ,
7 常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。
-テモテ(二)3:1-7 

ガラテア5章
19さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。
24 さらに,キリスト・イエスに属する者は,肉をその情欲や欲望と共に杭につけたのです。
-ガラテア5:19-24

エフェソス6章10 
終わりに,主にあって,またその力の強大さによって強くなってゆきなさい。
11 悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい
12 わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。
13 このゆえに,完全にそろった,神からの武具を取りなさい。あなた方が,邪悪な日にあって抵抗できるように,また,すべての事を徹底的に行なった後,しっかりと立てるようにするためです。
14 それゆえ,真理を帯として腰に巻き,義の胸当てを着け,
15 平和の良いたよりの装備を足にはき,こうしてしっかりと立ちなさい。
16 何よりも,信仰の大盾を取りなさい。あなた方はそれをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます。
17 また,救いのかぶと,それに霊の剣,すなわち神の言葉を受け取りなさい。
18 それと共に,あらゆる祈りと祈願をもって,すべての機会に霊によって祈りなさい。そのために,決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい
-エフェソス6:11-18 
  

初めに、今回から、前文を変えました

 

今回は、宗教は究極の人間学であるという話です。

  

兎角、宗教というと空想上の理想の生き方のように思う人もいるかも知れません。
そのため、余り宗教に深く関わらないようにする人も多いものです。
空想や理想と言っても、現実の人間の振る舞いや生き方を論じていることには違いはありません。

一般に、

世の中との関係を断ち宗教に身を投じる人々のことを「出家」と言い、世の中のことを「俗世間」と言って、牧師や僧侶などと世の中の人々を区別して考えています。

 

これを不思議に思った人はいませんか

いわば世を捨てた人である牧師や僧侶俗世間の人々に説教をする点についてです。

牧師や僧侶は一般的には世の中の事柄には関わらないものです。

そうした人々が世の中のことには関わらず理解もしていないにもかかわらず世の中の人々の問題や悩みなどをどうして解決出来るのかという疑問です。

彼らは「宗教という独善的な考え」で世の中と人間を見ているのです。

彼らの説教は「きれいごと」「絵に描いた餅」であり、現実的ではなく、かつ、役には立たない場合が多いのです。

牧師や僧侶は「家」に閉じこもっていて、そこから出て世の中の「荒海の中で活動」することは希です。

悩みや問題を抱えた人が来るのを「ただ、待っている」だけです。

 

この点、イエスやイエスの弟子たちや後に弟子となったパウロなどは、積極的に「世の人々の中に出て行って[活動]をしていました

 

現代の牧師やクリスチャンたちイエスやパウロを見習っていないことは明らかです。

ただ、彼らの言うこと(聖書に書いてあること)を「守ろうとしている(と本人は思っている)」だけです。

実質の伴う信仰を実践している人は殆どいません。

ただ、聖書を読みいたずらに自分の考えや気持ちを思い巡らして自己満足」しているだけではないでしょうか。

そして、教会という組織の「規則」を重んじその通りにすることを日課としているだけなのです。

大抵、この規則は「人間の命令」です。


宗教とは哲学以上の、究極の人間学であり、政治学でもあります。
人間学とは人生などに対する、いわば哲学のようなものです。
人体や人の考えや心の在り方や他人との関係や人生の歩み方や食べる物や自然や災害や犯罪や病気や災いなど、人に関わる全ての分野に関わっているのが「宗教」なのです。
ですから、冒頭述べた「出家」をした牧師や僧侶の説教は「絵に書いた餅」だと述べたのです。

大抵、教会などで説教を聞いても、教会を一歩出ると「忘れてしまっている」ものです。

なぜなら、一歩外へ出ると他のことを考えたり、次にすべきことに「頭が集中しているから」です。

この点は「ものみの塔の信者」も同じです。

実際、聴いた事柄のすべてを理解し覚えている人は「一人もいません」
 

私が、いわゆる「宗教人」でありながら、様々なことについて言及するのは、本来、宗教は「人のすべてを考え、そして、正しい理念を実行することであらゆる問題を解決していくもの」だからです。
いたずらに、思ったことを発信している訳ではありません。
すべては人間そのものについての話なのです。

宗教を極めるということは、人間を、人生を極めるということです。

人に関しては、一般的には医学があり、肉体や精神における研究をしています。
その内容は、病気を治すという観点で人を見ている訳です。
薬の開発、医療器具の開発、治療方法の確立、リハビリ、診断方法などを行っています。
しかし、その人の人生にまで立ち入ることは殆ど関わることはありません。

精神に関しては、精神科医の他に、占い師、まじない師、霊媒師、心霊術者、祈祷師、予言者(出来事の職業的予告者)、コンサルタント、児童相談所、養護施設などがありますが、どれも不確かなものです。

聖書に記されているイスラエルの律法では、人の生き方のすべてが記されていると言っても過言ではありません。
律法とありますように、法律的な事柄で、しなければならないこと、してはならないこと、罪を犯した時にすべきこと、罰の与え方、気持ちや精神の持ち方、男女関係、親子の在り方、躾の仕方、仕事の仕方、休息、収穫の感謝、おきて、神への崇拝の仕方に至るまですべてのことが記されています。

聖書の他にこのようなことを定めているのは、ユダヤ教とイスラム教位のものだと思います。

実際、キリスト教とユダヤ教とイスラム教元をただせば同じなのです。
 

ヒンズー教などに関しては殆ど知りませんので何とも言えません。
仏教では聖書のように細かく定めてはいないので、各人が自分の思い、考えで宗教活動も日常生活も行っています。
仏教は「人間の考えなので、具体的ではなく、曖昧で「包括的」な言い回しをすることで「未知の部分」を含めている場合が多いものです。

そのような「曖昧」な表現により「解釈や適用が人によって異なる」場合も少なくないのです。

 

聖書この点曖昧さはありません

ただし、理解と実践は難しいのです。


宗教は単なる人生観でもありません
現実の世界をどのように生きるかを問うのが宗教なのです。

昔の方が、いや、1960~1980年代の自由な雰囲気こそ人間らしい、そして、なぜか懐かしいとさえ思います。
世の中が今ほど発展していないため、すべてがアナログで、何でも自分でする必要があり、また、大抵のことは犯罪にならないことは何でも出来ました。
勿論、中にはやり過ぎて、批判を受けたり、いわゆる「捕まった」人も少なからずいました。
それでも、今のような「悪質」な出来事は殆どなかったように思います。
つまり、以前は社会には共通認識としての「常識」が存在していたのです。
しかし、
現代はその「常識」さえも覆すずる賢さ」や「悪どさ」が横行し、人々はストーカーをしセクハラをし性暴力に走りちょっとしたことで怒りを爆発させ人の善意を裏切り人を騙し自分の欲望のために平気で人を殺すそのような世の中になってしまったのです。

なぜ、このような世の中になってしまったのでしょうか
その大きな原因の一つは、科学や技術の発展であり、受験戦争と言われたくらい激しい競争と自分との闘いに追い込まれた若者の葛藤と鬱憤であり、高度成長期の時を夢見て富と出世の欲望を抱くもそれが叶えられないと人々は鬱屈した感情を持つようになり社会が次第に殺伐としたものになり、それが、ネットという、いわば「隠れ蓑」を使って自分の心情を吐露し、ある時は、誰かを攻撃の対象とし誹謗中傷に明け暮れるという「歪な社会」を生み出したのです。
つまり、人々の生き方に余裕がなくなり常にベストでなければ満足しなくなったのです。
他人の欠点や過ちを認めず直ぐにネット上で批判や誹謗中傷をし誰かを貶めています。
加えて、自分の素性を隠し、人を騙し、嘘や怒りやある出来事に対する想像を拡散し人々を煽っているのです。
勿論、中には正しいと思われる意見もあります。
しかし、読者はその善悪に関して分別を持っていないので、簡単に騙され「悪に加担している」のです。

人類の愚かさは、こうしたことを予期せずに「自分の思うが儘の好き勝手」をし続けてきたことです。
したがって、制御されないこうした社会の風潮は社会を益々騙し合いと搾取の社会へと突き進めさせているのです。

仏教的には、正に、「末法の世」であり、聖書的には終わりの日」と言えます。
仏教と聖書の違いは、絶望か希望かの違いです。
「末法の世」は社会の絶望であり、「終わりの日」は次の希望なのです。

さて、あなたはどちらの立場にいるでしょうか?

++++++++++++++++++++++++++++++
今の世界の混乱は、
デジタルとバーチャルという「姿を見せない存在」がもたらしたものだと言えます。
つまり、昔だったら面と向かわないと言えないこと、あるいは、新聞や雑誌などの紙面を通してしか言えなかったことが、ネットという現実ではありますが、「見えないやり取り」により、出来るようになったからです。

トランプの発言にしてもスマホなどにより思ったことを即時に発信出来るので、世界が一人の男の発言で右往左往しています。
こうしたことはナンセンスなのですが、現実なのです。

しかし、世界を俯瞰して見るとこうしたことは世界の距離を縮めることになり、世界が一つに結び付けられることにもなっているのです。
この状態は日々強くなっているため、何らかの原因で人類があっという間に滅びる要因となっていることも事実です。

こうした社会現象は人間が作り出したものですが、そこに人類全体としての計画や展望があった訳ではありません
つまり、世界の様々な動きをコントロールする者がいない状態であるということです。
それは、あたかもドライバーのいない暴走車のようなものです。
その車は何処に向かっているかは誰にも分からないのです。
その車は普通に舗装された道路の車線をルールに基づいて走行する訳ではありません。
まるで、道路の無い野原を迷走している状態です。

多くの人はこうした状況を理解していますが、人類のリーダー的存在が未だに現れてはいないのです。
おそらく、全地球が氷河期に入るような危機的な状況にならないと出現しないと思います。
こうした状況になると、必ずどこかの町にリーダーが誕生し、その人たちの誰かが国のリーダとなり、各国のリーダーの誰かが世界のリーダーとなることが予想されます。
こうして、世界は一つになり危機的状況に対処することになります

こうしたことは、ヨハネへの啓示の書に記されているハルマゲドンの状況に似ています。
世界は神による世界の滅亡という危機に対して、いわば、一つに纏まって神に敵対行動をとることに似ています。

13 そしてわたしは,かえるのように[見える]三つの汚れた霊感の表現が,龍の口から,野獣の口から,偽預言者の口から出るのを見た。
14 それらは実は悪霊の霊感による表現であってしるしを行ない,また人の住む全地の王たちのもとに出て行く。全能者なる神の大いなる日の戦争に彼らを集めるためである。
15 略
16 そして,それらは[王たち]を,ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集めた。-啓示16:13-16

この記述にあるように、世界を一つに纏め、一つの状態へと仕向けるのは、悪魔である龍と野獣(政治組織)と偽預言者(宗教指導者)による「発言」であると記されています。
これらの者たちは一つに纏まって神に敵対することで、神による滅びに対抗しようとしているのです。

かつて、バベルで高い塔を建設することで神のよる滅びを免れようとした出来事がありました。
神はその時、人種ごとに異なる言語を話すようにし、世界中に人々が拡散するようにされたのです。

 

その後の人類の歴史は学校で習っています(すべてが正しい訳ではありません)

しかし[神]は、人類を救うためにイエスを地に遣わしその目的の土台を据えた後、更に2000年を経過させることで悪魔と人類の過ちを人々が十分認識するための時間的猶予を与えたのです。

その時間的猶予も終わりに近づき、世界を正すための「予告された時」が間もなく到来しようとしています。
また、神はご自分の考えを人々に知らせるために、イエスを通してヨハネに啓示してくれました。
現在、わたしたちはこのヨハネによる啓示の書を読むことが出来ます。
理解することは難しくても神は確かに世にそれを示したのです。
これを知り理解し神の救いに与れる人は「幸いな者」と言えるでしょう。

すべての人はこの恩恵に与れるわけではありません。

真の問題解決には更に1000年待たなければなりません
それでも、その1000年間人々は戦争も犯罪も病気もない世界で平和に暮らすことが出来るのです。
この間人々は悪事を働かない限り「死ぬことはありません」
最後の死は「この1000年後の時に臨む、人々が悪の根源である悪魔、また、サタンと呼ばれる者の誘惑に同調するか否か」によって終わりを迎えることになっています。
その後は人々は決して死ぬことはないのです。
ただし、今のように結婚して子供を設けるということもなくなりますから、人口が増えすぎるということもありません。

あなたはこうした世界を想像できますか?
今の世は、いわば、幻想のようなものなのです。

人と地球の、真の在り方は今の人間にとっては想像を絶することです。

こうしたことを、人々が知らなくても「神の予定表」は少しも変わることはありません
従って、神の恩恵に与れるか否かは自分自身の問題なのです。
自分が、自分の命の決定をすることになるのです。
善いことをした人は命へと、悪いことを習わしにした人は滅びへと至るのです。
悪いこととは人の考える「悪いこと」ではありません
真の神を認めず従わないことが悪なのです。

理解出来なくても、これが真実なのです。
さて、これを読んであなたはどう思うでしょうか。

信じるも疑うもあなた次第です。

神から与えられた命ですが、その命の命運を決めるのは自分の責任なのです。

知恵を求める人のためのブログです。

今回は、ものみの塔の会衆や集まりで漂っている空気感についてです。

ものみの塔への批判が減った理由
それは、ものみの塔を見切ったためです。
つまり、良い面や悪い面に加えて、その存在意義や価値に関しても「見切った」ということです。

彼らはどんなに善いことをしたとしても神の是認を得ていないことは明白です。
また、彼らの存在が預言されていないにも拘わらず神の組織と「嘘を付いて」います
なぜなら、聖書の中で、神に用いられる存在明確に神からの指示(預言)を受けて行動しているからです。

現代において、明確に神からの指示を受けて行動している人や組織は存在しないことも明白です。

なぜなら、現代においてはそのような人や組織は必要ないからです。
仮にいたとしても、僅か、おそらく一人か多くても三人です。
そして、それらの人は決して世では目立たず知られていない存在なのです。

神にとって見れば、例え何億人いても一人の存在があれば十分なのです。
大勢の諸国民の中にあってアブラハムのような存在はただ一人でした。
大勢のイスラエル人たちの中にあってモーセのような存在はただ一人でした。
ダビデ、ソロモン、エズラ、ネヘミヤ、イザヤ、エゼキエル、ダニエルなどなど。
バプテストのヨハネも大勢の中のただ一人の存在でした。
神により地に遣わされたイエスのような存在もただ一人でした。
大勢のイエスの弟子たちの中で中心をなす必要な存在は十二使徒たちだけでした。
これに、諸国民の使徒として付け加えられたのはパウロただ一人でした。
イエスにより、事物の体制の終わりに関する「啓示」を与えられたも最後の使徒ヨハネだけでした。
ヨハネの啓示にあるように、神とキリストの見地からすれば天地の事柄は既に完了しているのです。
後は、それが現実に生じるだけなのです。
それゆえ、プーチンやトランプなどが何をしようが神の見地からすれば「眼中にない」のです。
今日の様々なキリスト教の存在もものみの塔の存在も「眼中にない」のです。

神の目から見て「本当に価値のある人間、義人」と言える存在はおそらく誰にも分からないのです。
しかし、公正な神の憐みにより「救われ、生き伸びる人々」や「復活」して来る人々がいることは確かです。
なぜなら、そうしないと神の事柄が完成しないからです。
誰が生き残るか、誰が復活して来るかは「神の一存」です。
おそらく、イエスもすべてを知っている訳ではありません。
現代において神は一人の人を通して大勢の人を組織的に救うということは全く意図していないことも明白です。
組織としての活動人々を救うことは「有り得ない」ことです。
ノアの大洪水の時とは異なるのです。
ノアの大洪水の場合は、大洪水という自然現象を用いましたが、現代の終わりは「み使いたち」を用いることになっています。
ノアの大洪水の場合は「8人」だけを救いましたが、現代の終わりでは「不特定多数」が救われます。
それを可能にするには、み使いの働きだけです。
人間の伝道活動などでは、神の意図を十分に果たすことは不可能です。
加えて、神は人間の組織を用いて人々を救うとは一言も述べてはいません

 

人々を救う業は「神の業」なのです。

人間の業、つまり、人間の考えによるものではないということです。

それゆえ、現実に起きる事柄「神の業であること」を認識させるように「物事を進める」のです。

例えば、神がアブラハムを用いたことも同様です。

アブラハムは大いなる存在になりましたが、約束の子イサクはそうではありませんでしたし、その子ヤコブに至ってはこの三人の中では最も試練に遭遇しました。

しかし、アブラハムとの約束により、ヤコブの子孫がイスラエルとなり、そのイスラエルの指導者として、神が任命したのはモーセでありヨシュアでありサムエルなのです。

彼らはすべて「神の業の代弁者、代行者」として任命されたのです。

こうしたことがすべての人に理解させるために「立場の最も低く、かつ、謙遜な者」を神は用いられるのです。

それは、その神による出来事が「その人、人間によるもの」だと思わせないためです。

実際、アブラハムもモーセもヨシュアもサムエルもダビデもソロモンも皆謙遜な者で、物事が神の働きによるものであることを自覚していました、あるいは、させられたのです。

 

例えば、神はイスラエルを選ばれた理由を次のように語っています。

6 あなたの神エホバにとって,あなたは聖なる民だからである。あなたの神エホバは,地の表にいるすべての民の中からあなたを選んでご自分の民とし,特別な所有物とされたのである。
7 「すべての民の中であなた方が最も数が多いためにエホバはあなた方に愛情を示して,あなた方を選ばれたのではないあなた方はすべての民の中で一番少なかったのである。-申命記7:6、7

組織、または、集団としての古代イスラエルは、イエスの誕生のために必要でしたが現代では必要ありません
イエスが七つの会衆に宛てた手紙でも示されているように、報いを与えられるのは組織を通してではなく「個人の振る舞いや行動」によることが明確に示されています

おそらく、ものみの塔の初代会長C・T・ラッセルは「布教に努め、神の事柄について人々に知らせる」ことに力を注ぎましたが、自分が神の指示を受けて行っているという考えはなかったと思います。

ただ純粋に信仰における「聖書に忠実」な事柄を求めたのです。

その結果、「啓発」され「布教」「宣伝」「宣教」を行うように、いわば、発展したのです。

しかし、それは「予告された神の業」ではありません。
神とキリストの導きを受けたいと思ったと思いますが現実には起きなかったのです。
ですから、彼らの行いはすべて人間の考えによるもの」だったのです。
二代目の会長以降が、いわば、ものみの塔を神権組織化し法律的に確立し今日に至っていることも明白です。
組織を神格化することで、救いは自分たちの組織の中にしかないということを強調したのです。
こうしたことは神の考えでもありませんし、聖書的でもありません
むしろ、聖書的には「背教」的な振る舞いです。
実際、彼らの預言の理解は間違っていました
もし、神からの啓示に基づいて行っているなら、「その通りになるはず」だからです。

 

兎角、大勢の人が集まるとそこには異様な雰囲気が漂うものです。
その雰囲気、空気感をコントロールしているのが、大抵はその集まりの主催者たちです。
それは、その集まりに関して殆どすべてのことを掌握しているからです。
一方、その集まりの主催関係者以外はピンポイントにしか目が行かず全体は理解していないものです。
このような時には、全体の空気感に圧倒される場合が多いものです。
それが違和感となる場合もあります

いわゆる、異様な雰囲気というものです。

ものみの塔の集会や大会での雰囲気、空気感に違和感を覚えた人は多いのではないでしょうか。
私には初めから別世界の雰囲気でした。
それまで経験したことの無い空気感でした。
そして、そこが自分の居場所だと思ったことも一度もありませんでした
会衆と交わり、そして、離れるまでずっとそうでした

会衆を離れてその空気感や束縛から解放された気分」になりました。

ものみの塔の信者であるあなたはどうですか?

エホバの証人の会衆内には「何か抗しがたい雰囲気」があります。
この感覚は、
集団の中にいる感覚、嫌なことを無理やりやらされるときに感じる感覚、あるいは圧力に似ています。
あなたも会衆内でこうした感覚を日常的に感じているのではありませんか
集会が終わり会衆を出て車に乗った時や家に帰った時に「解放された気分」になっているのではありませんか。

その証拠は帰りの車の中や家に帰ってから「誰かの批判」を毎回のようにしていることです。

規則を遵守する時の気持ちとも違います
それでも、毎週3回も集会に通っているのです。

ものみの塔は様々な[推奨=規則]を設け、信者を縛っています
特に、神とキリストに対する信仰、永遠の命を得ること、平和で安全で豊かな生活への希望などを巧みに用いて信者を縛っているのです。
そこには、各人の自由な考えが入る余地は全くないのです。

神によるものであれば、人間の考えが入る余地は全くありません」が、彼らの指示や指導は人間の考えであり、人間の命令をおきてとしているのです。

何か抗しがたい気持ち」は集団では良くある事柄です。
普通、こうした気持ちになると圧倒されその集まりには行かなくなるものですが、「救い」という信仰の特別な形態上行かざるを得ない状況を作り出しているのです。
勿論、強制ではないと口では言いますが実態は命令なのです。
この命令に逆らう者を許さず、それなりの「」を与える場合もあるのです。
1 長老による助言
2 会衆の雰囲気や他の信者からの接し方や噂など

3 会衆内の「特権の剥奪」
こうしたことは、いわば「嫌がらせ」であり、当人の感情としては「罰を受けている気持ち」になるのです。

もし、あなたがものみの塔の信者ならどうしますか?
会衆を離れたくても、離れたら「永遠の命」を失うと言われたら離れられないですよね。

また、離れられないのは信仰に対する確信」がないので出来ないのです。
「永遠の命」を誰に与えるかを決めるのはそれを話している人(長老など)ではなく神とキリストです、他の誰でもない点を良く考えるべきです。
つまり、そのように話す人は、自分を神とキリストの立場に置いていることになるのです。

こうしたことは、いわば、僭越であり越権行為であり、それは背教であり、神はこのような人を決して見過ごすことはありません
必ず、相応の罰をその人に与えるからです。

 

ですから、彼ら人間にそのようなことを言われても気にする必要はない」のです。
お前にそれを言う権限はないだろうと。

ハッキリ言います。
ものみの塔の指示に従っても「命の保障」はありません
ですから、ものみの塔の指示に従わなくても、全く問題はないのです。
あなた自身の問題なのです。
ものみの塔を離れて、信仰において「自立」出来るかどうかという点です。
今迄、ものみの塔に「おんぶにだっこ」で、ただ、集会に行って話を聴き、時々、いわゆる割り当てを果たし、出来る時に会衆の指示に従って伝道活動を行い、年に二度の大会に出席することが「神への崇拝」であるとし、これを行っていれば救われると思い込まされているのです。
日常生活でも聖書のおきてに従っていれば、信仰の点でも罪に問われず裁かれることもないと。

これらは、真の信仰と似てはいますが実質のない」ことです。
パウロは適切にも次のように語っています。
「敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうしたひとびとからは離れなさい」と命令しています。-テモテ(二)3:5

さて、こうしたことを聴いてもあなたはものみの塔の言うことに従いますか。
ものみの塔の言うことは「絵に描いた餅」なのです。
なるほど、[本物]と似てはいますが、真似事をしているだけで[霊的に、つまり、神とキリストの目から見て実質のない者、つまり、死んだ者]なのです。

もし、あなたがこれを理解出来ずものみの塔の信者として留まり続けるなら、[裁きの日]に生き残ることはありません。
イエスも次のように語っています。
21 「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が[入る]のです。
22 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。
23 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。-マタイ7:21-23

知恵を求める人のためのブログです。

今回は、ものみの塔に入信すると思考停止に陥る原因についての話です。

ものみの塔の信者によって、ものみの塔の出版物を用いていわゆる聖書研究を始めると洗脳されて行き、それまでの[人間独自の]考え方が出来なくなって行きます
それほど、ものみの塔の教えは人の考えや思考に強い影響を与えるのです。

ものみの塔の教え方の特徴は「強い思い込みを固定観念」として植え付けることにあります。
それは必ずしも間違ったことを教えている訳ではなくなるほどと納得するような内容なので「素直に聞いて受け入れた人の脳裏には固定されてしまう」のです。

 

つまり、世の中の一般の人々の考えの元となっているもの、常識や基準と言ったものの見方が、聖書の基準によるものの見方に「変えられてしまう」ので、

世の中の普通の人々から見る「考えを変えない」頑固な人々に見え、更に、他の考えや新しい考えや見方を認めないので「思考停止」に陥っていると見なされているのです。

 

実際、ものみの塔以外の考えを全く受け入れない点では「思考停止」に陥っていることは事実です。

これは、学校での授業でも同様のことが起きています。
生徒は教師を疑うことなく、教えられることをすべて理解し吸収することに努めるものです。
理解出来なければ先生に質問するか塾などで教えてもらうことになります。
それは、成績に繋がる試験で良い点数を取るためであり、進学のためでもあります。
教師をしていた経験から、間違ったことでも強調した点を生徒は良く覚えているものです。
生徒たちには生涯その記憶は残り、思考の原点になることさえあるのです。
こうしたことは大人になっても同様の傾向にあります。

しかも、ものみの塔では出版物による家庭での討議に始まり、集会に行くようになると毎週、日、火、金など3回は集まってものみの塔の教えや解釈や指導受け続けているのです。
こうして、神とイエスについて、聖書の内容とその解釈に関して繰り返し「聞かされ」続けているのです。

人は言葉に反応する生き物ですから、当然、繰り返し聞かされる内容にも反応し、初めは懐疑的であってもそれが記憶に定着してしまい、頭から離れなくなってしまうのです。
それは、会衆を離れても信者となることを止めてもその内容を否定する事実に遭遇しない限り記憶に留まりその人の物事の考えや思考に影響を与え続けるのです。

更に、伝道活動によって他の人に「それらの内容(聖書の神やキリストや希望など)について話す」ことで、更に脳裏や心に焼き付いてしまうのです。

学校の学習でも同じことが昔から言われています
学んだことを誰かに話したり説明したりすることで、自分が理解していない点に気付かされ更に理解が深まるということはよくあることで、また、人に教える(話す)良く覚えているものです。
人は自分が確信していない事柄を話す時には多少のためらい」があり、また、人に話すことを「精神的に嫌がる」るものです。

そういう人は、積極的に「伝道活動」をしたいとは思わないのです。

伝道をしなければならないという考えとの「葛藤」が、すべての信者に生じていることは事実です。
それはその人自身が良く分かっていますし、他人にもそれが分かる場合が多いものです。

記憶に残るという点では、丁度生まれて初めて甘くて美味しいケーキなどを食べた時の味を決して忘れないことに似ているのです。
つまり、
一度、ものみの塔の教えに感化され集会や伝道活動に参加すると生涯その記憶は消えないのです。
ある意味、非常に恐ろしいことです。

(参考:とは言ってもすべての人はすべての事柄に関して、このようにして記憶の蓄積をしているの 

 です。

 恐ろしいというのは、その記憶が「自分の考え」で行われていないという点です。

 つまり、洗脳によるという点がカルト的であり恐ろしいのです。

 例えば、

 犯罪や世の中の出来事に「憂い」を抱いている人は多いものです。

 しかし、それに乗じて「新しい考え」を植え付けられるということが「他者によって、意図的に行わ

 れ」というカルトが行われているのです。

 旧統一教会も典型的な例です。

 そして、その「強い思い込み」により「他の考えをすべて退ける」あるいは、「他の考えを出来なく

 させる」ことにより「思考停止」追い込んでいるのです)

幸いにして、聖書の解釈や信者の行動や発言に関して「多くの誤り」が指摘されるようになり、この「いわゆる呪縛」から逃れる人が多くなって来ています
つまり、何が正しくて何が間違いかの分別が付くようになって来たということです。

しかし、残念なのは「一事が万事」という考え方をし、ものみの塔を退けることは良いとしても聖書に対する信仰そのものまで捨てる人がいることです。
こうしたことも極端な思いや思考であり、バランスの欠けた考えであることは言うまでもないことです。

聖書自体は正しいので、ものみの塔の教えの中には「正しいこと」も多く含まれています
一部の解釈や適用そして現実の振る舞いに誤りがあるだけだとも言えます。
しかし、れがイエスに退けられる理由であることをものみの塔の多くの信者が
認識していない点に問題があります。
ものみの塔の信者ですらものみの塔の言い分をすべて受け入れている訳ではありません
しかし、疑問を抱きつつも外見上はものみの塔に従っているのです。
この点は非常に大きな問題です。
疑問を持ちつつもものみの塔に従うあなたは一体何者なのでしょうか
ものみの塔という器の中の「異物に他なりません。
周囲に「異物」は「異物」と認識されると外に放り出されてしまうのです。
外に放り出された「異物」はどうなるでしょうか。
野性の動物についばまれるだけです。

丁度、獣の死骸を鳥たちが食べ尽くすように

こうしたことを「幻」のような出来事として、ヨハネへの啓示の書の中に次のように記されています。
11 また,わたしは天が開かれているのを見た。すると,見よ,白い馬が[いた]。そして,それに乗っている者は忠実また真実ととなえられ,その者は義をもって裁き,また戦う。
12 彼の目は火の炎であり,頭には多くの王冠がある。彼には記された名があるが,彼自身のほかはだれもそれを知らない。
13 そして,彼は血の振り掛かった外衣で身を装っており,そのとなえられる名は神の言葉である。
14 また,天にある軍勢が白い馬に乗って彼の後に従っていたが,彼らは白くて清い上等の亜麻布をまとっていた。
15 そして,彼の口からは鋭くて長い剣が突き出ている。それによって諸国民を討つためである。また彼は,鉄の杖で彼らを牧する。また,全能者なる神の憤りの怒りのぶどう搾り場も踏む。
16 そして,彼の外衣に,実にその股[のところ]に,王の王また主の主と書かれた名がある。
17 わたしはまた,ひとりのみ使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び,中天を飛ぶすべての鳥に言った,「さあ,来なさい,神の大きな晩さんに集まれ
18 王たちの肉,軍司令官たちの肉,強い者たちの肉,馬とそれに乗る者たちの肉,そしてすべての者,すなわち自由人ならびに奴隷および小なる者と大なる者の肉を食べるためである」。
19 そしてわたしは,野獣と地の王たちとその軍勢が,馬に乗っている方とその軍勢に対して戦いをするために集まっているのを見た。
20 そして,野獣は捕らえられ,それと共に,[野獣]の前でしるしを行ない,それによって,野獣の印を受けた者とその像に崇拝をささげる者とを惑わした偽預言者も[捕らえられた]。彼らは両方とも生きたまま,硫黄で燃える火の湖に投げ込まれた。
21 しかし,そのほかの者たちは,馬に乗っている者の長い剣で殺された。その[剣]は彼の口から出ているものであった。そして,すべての鳥は,彼らの肉[を食べて]満ち足りた
-啓示19:11-21

しかし、ものみの塔の中にいても「共に沈んでしまう」のです。
どちらにしても「助かりません

ですから、この点もイエスに退けられる理由の一つなのです。

こうしたことはものみの塔に限らず、世界中のキリスト教の各宗派にも見られることです。
カトリック、プロテスタント、正教会、福音派教会、セブンスディー・アドベンチスト教会、モルモン教などにも同じことが言えます。
加えて、旧統一教会のような「全くの、まやかし」まである始末です。
つまり、
キリスト教に多くの宗派があるということはそれだけ聖書の解釈や適用そして現実の振る舞いに違いがあるということの証拠です。

その殆どが「自分勝手な崇拝をしている」ので、神とイエスに捨てられ、そして、滅ぼされ「鳥についばまれてしまう」のです。

真理は一つです。
ですが、真理と言える事柄は非常に多くあります。
それは自然の中に見られることもあれば聖書の中にもあります。
例えば、神が多数存在することは聖書の中でも認めています。
しかし、唯一真の神はただ一人であることは真実であり真理です。
イエス・キリストもただ一人であることも真実であり真理です。
神が天地人を創造したので世界が存在することも真実であり真理です。
このように真理と言えるものは沢山存在しています。

 

では、真理は一つというのはどういうことなのでしょうか。
それは、正しいことは「一つしかない」という意味です。
真理の源も「一つしかない」という意味でもあります。
これから逸脱した事柄はすべて「偽り」なのです。

従って、クリスチャンでない普通の人でも、どのキリスト教の教えの中でも真理を話しているということはあります
カトリックの教えのすべてが間違っている訳ではありません
プロテスタントも正教会も福音派教会でさえ同じなのです。

問題はその解釈と適用そして現実の振る舞いなのです。

真理で真の神とイエス・キリストに信仰を抱き崇拝をすることを神は「人」に求めているのです。

あなたはこうしたことを理解して「キリスト教に[殉じて]あるいは[準じて]」いますか?
そうでなければ、あなたの信仰は「意味のないもの」つまり「救われることはない」のです。

  

++++++++++++++++++++++++++++++++++

では、最後に「お仕着せではない」「自分の意思による信仰、崇拝」とはどのようなものでしょうか。

この点を示したいと思います。

 

真の信仰に至るには「経過」というものが存在しているはずです。

いきなり、真の信仰を抱く人は「一人もいません」

その「経過」は、自分が自らの意思で信仰しているという「証し」となることは明らかです。

 

その「経過」とはどのようなものでしょうか。

もし、ものみの塔や会衆内で「自由な発想、自分の考え」を話すことが「許されているとすれば、

会衆内で活発な議論がなされ、

1世紀当時の会衆のように、分裂、分派が起きているはずです。 

パウロがユダヤ人に訴えられた時、ユダヤ人たちはパウロのことを「ナザレ人一派の先鋒」とさえ言われていました。-使徒24:5、28:22

 

こうした様々な議論を踏まえて、そうした人々の中の「一部の人々」、「自らの意思」で真理を見極め、真の信仰、真の崇拝を実践する人々が現れてくるということです。 

 

分裂、分派というと「背教」のように考えがちですが、

そうではなく、様々な議論を通して「より正しいこと」に到達することが「人間」であり「人間の意思」なのです。

はじめから「こうだ」と決めつけられた事柄を「教えられ」それを「押し付けられた」信仰、崇拝は「偽りの信仰、崇拝」です。

それは他人の信仰であって、自らの意思で実践している信仰ではありません

 

ものみの塔は「自分たちの見解」を真理で「絶対」だと「押し付けている」のです。

仮に、それが正しくても「人の言うことに従う信仰」は「自分の信仰」とは言えないということです。

 

会衆内で様々な議論をし「ものみの塔と別の考え、結論」を抱くようになると、そうした人々は分裂、分派だと「ものみの塔は決めつけています」

その理由は、組織や会衆内に混乱を招き、また統制を乱すからです。

例えそうであったとしても自由な発想や考えを「抑えつける」ことは間違っています

ものみの塔の信者を抑え付ける行為は、ものみの塔がその人の信仰の主人であり、その人に対して「重い責任」を負うことになるからです。

こうした信仰の形態「真の信仰、真の崇拝」ではありません

 

こうした点でものみの塔は次のように反論するかも知れません。

そうした「自由な発想、自分の考え」は、信者になる前の「家庭聖書研究」でなされ、その上で自らが出した結論だと主張するでしょう。

この「家庭聖書研究は」はものみの塔が「意図して作った書籍」に基づいて行われているものです。

それは内容を読んで質問に答えるという形式で行われます。
しかし、結論は初めから決まっているのです。
こうして、自分の考えではなく「洗脳」されたものとなって行くのです。

これは「自分の意思による信仰」ではないことは明白です。

バプテスマの討議に関しても、正しい答えというより「ものみの塔の考え」を返答することが求められているのです。
例えば、唯一真の神とは誰ですかという問いに正しく答えたとします。
しかし、それは教えられたことであり、自らが確信して答えた訳ではないということです。

 

ものみの塔のやり方は「押し付け」なのです。
 

教義や信仰や崇拝が「本物」になるのは「経験」を通してのみ可能となるからです。
信者として活動し日々聖書の言葉を調べ、自分の抱く疑問などに関して試行錯誤し、また、誰かと議論することで「確信を得、それが信念」となるには「時間が必要」なのです。

ものみの塔の信者で「初めからすべてを理解し、実践している人は一人もいないことは事実です」
信者としての信仰は「少しずつ変化、成長」していくことは明らかです。-箴言4:18-19

であれば、ものみの塔や会衆内で様々な議論することは、むしろ、「真の信仰を抱き、真の崇拝」を実践するためには「必須」だということです。

その中で「正しい崇拝」を見い出すことは「重要」なことです。

こうして、人は「本当の意味で、自分の意思で信仰と崇拝を、自分の責任で行っている」と断言出来るのです。

こうして、人は「神に認められるかも」知れないのです。

 

ヨブが試練に遭遇したとき、三人の友と議論しましたが、それ自体は問題とはされていないのです。

エリフや神が彼らを正す機会となったのです。

ヨブはそれを受け入れ、以前持っていたものを2倍にされるという「報い」を受けました。-ヨブ記

 

真の神の「預言者」が存在していない「現代」において人間が自らの意思で「真の信仰、真の崇拝」を実践できる「唯一の方法」と言っても過言ではありません。

 

もし、現代にイエスのような「真の神の預言者」がいれば、ペテロ兄弟やマタイのように「招かれた時、直ちに(何も調べることなしに)従う」ことが出来ます。

実際、彼らはイエスの話すことすら理解していませんでした。

それでも使徒に任命されたのです。

しかし、現代にはイエスやサムエルやダニエルのような預言者は存在していないのです。

 

信仰の「初め」が重要なのではなく、「終わり」が重要なのです。-マタイ10:22、伝道7:1

知恵を求める人のためのブログでうす。

この記事は、あくまでも一般市民としての思いです。
政治的な意図は微塵もありません

国内では思うが儘に政治を行っている高市早苗ですが、一つの言葉の扱いで中国、韓国に反感を抱かれています。
こうしたことは、石破内閣では全く聞かれなかったことです。
この点は、高市の「驕り」であることは言うまでもないことです。

つい、心にある「本音」が出てしまうのです。


高市は、麻生太郎や安倍晋三などが考えている「日本の政治の在り方」を良いと思っていますが間違った方向を向いているのでこのようなことが起きるのです。
高市はかつての強い自民党内閣の在り方を参考にしていることは明白です。
そこに自分の考えを付け加えて政治を行っているのです。
これに対して、石破は国内外の政治に関して、常に国民を意識し、かつ、相手と平和的に物事を解決するように努力していました。
しかし、高市は唯我独尊で、他を顧みず自分の思うことを行っています。

少し軽薄な面があります。
約束を守るという姿勢は「政治家としては当然」(これを蔑ろに政治家が多いのも事実です)で、それに向けて努力してはいますが、果たしてその約束が果たせなかった時にどのように約束した相手や国民に「言い訳」をするのでしょうか。
自分が首相になりたいばかり日本維新の会の政策を受け入れ約束したことが実現出来なければ高市は嘘つき呼ばわりされ一気に信用を失うことになります。

 

今の政権は動き出してたばかりですが、高市は「自分の思いや考え」を露骨に出し、「強いレーダシップ」を発揮しているつもりでしょうが、国会議員やメディアや国民に「一つのイメージ」を作り上げてしまいました。

もはや、このイメージに縛られ身動きが取れなくなる時がいずれ来る状況を自ら作ってしまったのです。

 

孫子は「敵を知り己を知れば百戦危うからず」と言い、これを実践し生涯一度も負けませんでした

常に、有能な将軍などの「戦いの意気込み」などを抑え、また、必勝の時期と状況を見定め戦いをコントロールしていました。

時には、間者(スパイ)を放ち、時には伏兵(待ち伏せ)を置き、時には持久戦に持ち込み、また、地形や戦う相手の国の状況、指揮官の性格や状態など様々な状況を適切に判断し決断し実行して、常に勝利を収めて来たのです。

しかし、常に戦い相手を倒した訳でもはありません

特に、相手が「背水の陣」などを敷き「必死」になっている時には決して攻撃をさせませんでした。

それは、敵味方の損傷が激しいからです。  

  

高市のやり方を見ていると、敵に自分のすべてを「曝け出して」戦っているようなもの愚かに見えます。

政治は「常に、策略と駆け引きとタイミング」なのです。

トランプのような「力の政治」は単なる「愚かな独裁者」に過ぎません。

 

この点、石破は「良く戦った」のですが、「慎重」し過ぎて国民の支持を得ることが出来ませんでした

この場合は、国民が愚かだったのです。

参考:社会に勢いがある時や平和な時には、石破政権のような政権は誕生しません

 政治に問題があったから石破政権が誕生したのです。

 時節が、石破を選んだのです。

 同じように、

 時節が高市政権を誕生させたのです。

 このように考えると、

 石破の登場も高市の登場も、運命的ですが、「政治や社会や世界の大きなうねり」がそうさせたので 

 す。

 こうしたことは、「後になって分かる」ことです。

 丁度、聖書の預言と成就のように

 

 時節を読み先を予告する四柱推命」や「」などによれば、高市の今後は自ずと先が見えていま

 す

 石破、高市の例は、分かり易い例と言えます。

 

 かの有名な孔子は、その国の政治に腐敗などがあった時には、宰相としての働きは有効でしたが、

 平和になると権力者や国民からの人気は不評でその地位を去ったものです。

 あなたは知っていましたか?)

 

さてさて、カメラの前では「笑顔を振りまいている」高市ですが今後どのように対応するのでしょうか。
その能力と手腕が発揮される時です。

 

**********************************  

参考

石破政権が国民に人気がなかったのはスーパーヒーローのような強く強健な政治ではなく政治の本質」を行ったからです。

  

丁度清廉で真面目な人に人気が集まらないように。
高市のような、安倍晋三のような、あるいは、田中角栄のような強引な政治」は批判も受けますが人気もあるのです。

野球に例えれば
地道に堅実なプレーに徹する選手は目立ちませんし人気もイマイチですが、プレーが下手でもホームランを打つ選手は目立ち人気もあるものです。
人柄としても前者の方が後者の乱暴者より優れているのですが人気が余りないのです。
前者はいわゆる「玄人はだし」と言われ、専門家や評論家には好まれる人です。
石破は堅実なプレーを行い、高市はホームランを狙っているのです。

ホームランはいつも打てる訳ではないのです。

それに対して、ヒットは常に打てる確率は高いのです。

ですから、大谷翔平は人気があるのです。

一方で、イチローのようなヒットメーカーや守備の人が人気を得ることは希なのです。

 

私から見れば、高市は思い込みが強く、勢いのある若者のような感があります。

つまり、無知と思い込みだけで政治を行っている[ように見える]ということです。

勢いのある若者は何かをすると「世間を騒がせます」が、それに対する批判も多く、いろいろと波風が立つものです。

しかし、その後は大抵、経験を積み、政治の世界が「身に染みてくる」と今とは真逆に「慎重になってくる」ものです。

 

さて、あなたはどちらが好みですか?

堅実な方ですか、それとも、スーパーヒーローですか。

華々しいのは後者(高市)ですが、平和で安定しているのは前者(石破)の方です。

  

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追記

今回の高市の発言には、高市の中国に対する「心の中の蔑視」から出たものと思われます。

つまり、高市の心の中には、アメリカを重視していれば「善い」という考えが強く、中国や韓国を軽視しているということです。

この点が軽薄なのです。

中国は、高市の中国に対する迂闊な刺激により、日本経済や政治に強いメッセージ、あるいは、警告を発したものと思われます。

勿論、中国日本を経済的にはアメリカと同等に重視していますが、政治的には「取るに足りない相手」としか見ていないことは事実です。
更には、11月20日前後の中国の日本に対する対応は日米間の強化に対する対抗策の一環であるとも推測されます。
中国政府が日本に「何かを仕掛ける」時には、必ずアメリカを意識しているからです。

中国政府の日本に対する姿勢は、日本に対するというよりは間接的にアメリカに対するものと見なすべきです。

また、北朝鮮が「例によって、日本を刺激しどのような対応をするか」を窺うためにミサイルを発射しましたが、政治的には殆ど無関心を示しました。

つまり、北朝鮮を高市や日本の政治家は軽視しているということです。

日中間が険悪になることにより、中東やウクライナへの支援などを弱体化させ、さらには、ロシアへの圧力を低下させる狙いもあると思われます。
アメリカにはさほどの影響がないように見えますが、おそらく、中国からアメリカへの半導体の輸出などの減少も含めて、中国はロシアに代わってアメリカを裏から牽制する姿勢を見せたものと思われます。

もし、石破政権が継続していればこのようなことにはならなかったことは明らかです。
これは、安倍晋三の外交重視の姿勢を高市が継承したことによる弊害です。
自民党のガンとも言える議員たちは未だにかつての中国をイメージし対応していることもその要因の一つです。

今更ですがなぜ石破は衆議院の解散に踏み切らなかったのかと思います。
高市になって
日本の立場が非常に不安定なものになってしまったのです。

つまり、安倍晋三や高市のようにアメリカとの連携重視を「露骨に表明」すると中国の反発を招くのです。

こうしことは、政治家でなくとも分かっている事柄です。

とはいえ
世界の潮流から見ればこうしたことは「ちっぽけなこと」です。
世界の大きなうねりというか流れの中の小さな出来事、しみかにきびのようなものです。
世界の潮流は以下の通りなのです。

ペルシャ時代からですが。(少し長いです
ダニエル9:20-12:4
20 わたしがまだ話し,祈り,自分の罪また自分の民イスラエルの罪を告白し,わたしの神の聖なる山に関して恵みを請う願いを自分の神エホバのみ前にささげている間,
21 まだ祈りの中で話している[間]に,わたしが幻の中で始めに見た人ガブリエルが,疲労しきって,夕方の供え物をする時分にわたしのそばにやって来るのであった。

(疲労しきったのは、[み使い]ガブリエルではなく、祈りをしているダニエルです)


22 そうして彼は[わたしに]理解を得させながら,わたしと話してこう言った。
ダニエルよ,今わたしは,理解とともに洞察力をもあなたに得させるために出て来た
23 あなたの懇願が始まった時ひとつの言葉が発せられ,報告を行なうためにわたし自らここに来た。

この言葉を発したのは[神]です。ダニエルはそれを伝えるためにダニエルの元に遣わされたので 

 す)

 

あなたは大いに望ましい人だからである。ゆえにこの事をよく考え,見た事柄について理解を得よ
24 「あなたの民とあなたの聖なる都市に関して定められた七十週がある。これは,違犯を終結させ,罪を終わらせ,とがの贖いをし,定めのない時に至る義を携え入り,幻と預言者とに証印を押し,聖の聖なる所に油をそそぐためである。
25 そして,あなたが知り,また洞察するべきことであるが,エルサレムを修復して建て直せという言葉が発せられてから指導者であるメシアまでに,七週,そしてさらに六十二週があるであろう。それは元どおりにされ,公共広場や堀と共にまさしく建て直されるが,それは苦境の時になされるであろう。
26 「そして,その六十二週の後にメシアは断たれる。自らのためには何も持たないであろう。
「そして,その都市と聖なる場所とは,やって来るひとりの指導者の民がこれを滅びに至らせる。それで,その終わりは洪水によるものとなる。そして,終わりに至るまで戦争がある。定められているものは荒廃である。
27 「また彼は多くの者のために一週のあいだ契約の効力を保たねばならない。そして,週の半ばに,彼は犠牲と供え物とを絶えさせる。
「また,嫌悪すべきものの翼の上には,荒廃をもたらす者がいるであろう。そして,絶滅に至るまでは,定められている事柄が,荒廃に横たわるものの上にも常に注ぎ出されるであろう」。
(これは、メシアであるイエス・キリストに関する預言です。既におよそ1990年前に成就した出来事です)

10章
ペルシャの王キュロスの第三年,その名をベルテシャザルと呼ばれていたダニエルに啓示された事柄があった。その事柄は真実であり,大きな戦があった。そして彼はその事柄を理解し,自分の見たものに関して理解を得ていた
(これは、ダニエルがこの預言を啓示された年を明確にしたものです)

2 そのころわたしダニエルはまる三週間の喪に服していた。
3 美味なパンは食べず,肉もぶどう酒も口に入れず,まる三週間を終えるまでは身に油を塗ることもしなかった。
4 そして,第一の月の二十四日,わたしが大川つまりヒデケルの岸にいた時であるが,
5 目を上げて見ると,そこに,亜麻布をまとい,ウファズの金を腰に帯びたひとりの人がいた。
6 そして,その者の体は貴かんらん石のようであり,その顔は稲妻の現われのようであった。その目は燃えるたいまつのようであり,その腕と足の立つ所とは磨き上げた銅を眺めるようであった。その言葉の響きは群衆のどよめきのようであった。
7 そして,わたし,つまりこのダニエルだけがその姿を見た。その時わたしと一緒にいた人々は,その姿を見なかった。それでも,それらの者たちには非常なおののきが臨み,彼らは逃げて行って身を隠すのであった。
8 それで,このわたしだけがそこに残り,それによってこの大いなる姿を見た。そして,わたしには何の力も残っておらず,わたしの威厳はわたしにあって滅びに変わり,わたしは何の力も保っていなかった。
9 そしてわたしにはその人の言葉の響きが聞こえてきた。だが,その言葉の響きを聞いているうちに,わたしは,ひれ伏して顔を地に付けたまま深く眠ってしまっていた。
10 すると,見よ,ひとつの手があってわたしに触れ,それが少しずつわたしを起こして,ひざと両手のひらで[起き上がらせ]てくれた。
11 そうして彼はわたしにこう言った。
「ダニエル,大いに望ましい人よ,わたしが話している言葉について理解を得よ。そして,あなたの立っていた所に立ち上がるように。わたしは今,あなたのところに遣わされてきたのである」。
それで,彼がこの言葉を語った時,わたしはそのとおりに立ち上がったが,身は震えていた。
12 すると彼はなおもこう言った。「ダニエルよ,恐れることはない。あなたが自分の心を理解力に,そしてあなたの神の前で身を低くすることに向けた最初の日以来,あなたの言葉は聞かれているからである。わたし自身あなたの言葉のゆえにここに来た
13 しかし,ペルシャの王土の君二十一日間わたしに逆らって立ちつづけた。すると,見よ,主立った君のひとりミカエルがわたしを助けに来た。それでわたしはそこにいて,ペルシャの王たちの傍らにとどまった

ペルシャの王土の君はこの神のみ使いに逆らって立ち続けたことから、人間ではないことは明らか 

 です。

 その者はサタンであるとパウロは述べています。テサロニケ(一)2:18)


14 そして今,末の日にあなたの民に臨む事柄をあなたに悟らせるためにやって来たそれはなお[来たるべき]日々にかかわる幻なのである」。

(これは、イスラエルに起こる出来事=AD1世紀に成就、とさらにその後の世界の終わりに関する幻で

 あることを示しています)


15 さて,彼がこのような言葉をわたしに話した時,わたしは顔を地に向けたまま口がきけなくなっていた。
16 すると,見よ,人の子らに似た者がわたしの唇に触れるのであった。それでわたしは口を開いて話しはじめ,自分の前に立っていた者にこう言った。「我が主よ,その現われのために,わたしのもだえはわたしの内に生じ,わたしは何の力も保っていませんでした。
17 それで,この我が主の僕はどうしてこの我が主とお話しできたでしょうか。そしてわたしには,今なお何の力もとどまっておらず,息さえ全く残っていないのです」。
18 すると,地の人のような姿をした者が再びわたしに触れて,わたしを強めてくれた。
19 そうして彼はこう言った。「恐れることはない,大いに望ましい人よ。あなたに平安があるように。強くあれ。さあ,強くあれ」。それで,彼がわたしに話しかけるとすぐ,わたしは自分の力を奮い起こし,ようやくこう言った。「我が主がお話しくださいますように。わたしを強めてくださったのですから」。
20 すると彼は続けてこう言った。
わたしが何のためにあなたのところに来たか,あなたは本当に知っているだろうか。そして今,わたしはペルシャの君と戦うために戻って行く。わたしが出て行くとき,見よ,ギリシャの君もやって来る
21 しかしわたしは,真実の書の中に書き留められた事柄をあなたに告げる。これらの事に関してわたしを強く支えてくれる者は,あなた方の君ミカエルのほかにいない

真実の書の中に書き留められた事柄とは、神の預言のことです。

 この中に書かれている事柄は、必ずしも全てを[人間]に啓示してはいません。)

11章
「またわたしは,メディア人ダリウスの第一年に,彼を強める者またその要害として立ち上がった
2 それで今,真実の事柄をあなたに告げる
「見よ,なお三人の王がペルシャのために立つ。そして第四の者は[他の]すべての者に勝って大きな富を集めるであろう。そして,その富において強くなるとすぐ,彼はすべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻めるであろう。
3 「また,ひとりの強大な王が必ず立ち,広範な統治権をもって支配し,意のままに事を行なうであろう。
(ギリシャの王アレキサンダー=アレキサンドロス3世を示しています)

4 だが,彼が立ち上がった時に,その王国は砕かれ,分けられて天の四方の風に向かう。しかし,それは彼の後裔には帰さず,彼が支配したさいの統治権のほどでもない。彼の王国は引き抜かれて,それら以外の者たちのものとなるのである。
(アレキサンダーが32歳で、突然死に、ギリシャが四つの国に分裂したことも成就しています)

5 「そして,南の王,すなわち彼の君たちの[一人]が強くなる。これは彼に対して優勢になり,その者の支配力[に勝る]広範な統治権をもって支配することになる。
6 「そして,幾年かの終わりに彼らは互いに盟約を結び,南の王の娘が北の王のもとに来る。平衡を図る取り決めのためである。しかし彼女は自分の腕の力を保てない。彼もまたその腕もずっと立つことはない。彼女自身が引き渡される。彼女を連れて来た者たちも,彼女を産ませた者も,そのころ彼女を強くした者も[同様]である。
7 だが,彼女の根から出た新芽の一つが必ず彼の地位に立ち,その者が軍勢のもとに来て,北の王の要害に向かい,必ず彼らに攻めかかって優勢になる。
8 さらに,彼らの神々,彼らの鋳像,彼らの願わしい銀や金の品,[また]とりこたちを携えてエジプトに戻る。そして彼は,幾年かのあいだ北の王から離れて立つ。
この時代の北の王はローマで、南の王はエジプトだと考えられます)

9 「次いで彼は南の王の王国にまさに入って来る。だが,自分の土地に戻って行くことになる。
10 「一方その子らは,自ら奮い立ち,群がる大軍をまさに集める。そして彼は進んで行ってまさに入り,みなぎりあふれて通って行く。しかし彼は戻って行く。そして,身を奮い起こして自分の要害へと進む。
11 「それで南の王は憤激し,出て行って彼と,[すなわち]北の王と戦うことになる。彼はまさに大群を立ち上がらせるが,その群衆は実際にはかの者の手に渡される。
12 そしてその群衆は必ず連れ去られる。彼の心は高ぶり,彼はまさに幾万の者を倒す。しかし彼は自分の強固な立場を利用しない。
13 「それで,北の王は戻って来て,初めを上まわる大群を起こすことになる。そして,しばらくの時すなわち幾年かの終わりに,彼はやって来る。大きな軍勢を率い,大量の貨財を携えてそうする。
14 またその時,南の王に立ち向かう者が多くいる。
「また,あなたの民に属する強盗の子らは,幻を実現させようとして引き回される。彼らは必ずつまずく。
15 「そして,北の王はやって来て,攻囲の塁壁を盛り上げ,城塞のある都市をまさに攻略する。そして,南の腕は立ち向かうことができない。彼のより抜きの民も[同様]である。こらえて立つ力はないであろう。
16 そして,彼に向かって来る者は意のままに事を行ない,その前に立ち向かう者はだれもいない。さらに彼は飾りの地に立つ。その手には絶滅があるであろう。
17 また彼は自分の王国全体の勢いをもって進もうとして顔を向けるが,その者との間で平衡を図る[協約]ができることになる。こうして彼は効果的に行動する。また,女たちの娘に関し,これを破滅に至らせることが彼に許される。だが,彼女は立ち行かず,ずっと彼のものとしてとどまることはない。
18 そして彼は顔を再び海沿いの地帯に向け,実際に多くのところを攻略する。だが,ひとりの司令者が自分のために彼からの非難を絶えさせることになる。[そのため]彼の非難はやむ。その者はそれを彼自身に帰させる。
19 それで彼は顔を再び自らの地の要害に向ける。彼は必ずつまずいて倒れ,[もはや]見いだされることはない。
20 「また,取り立て人を光輝ある王国に通り行かせる者が彼の地位に立つことになる。だが,数日のうちにその者は砕かれる。それは怒りによるのでも,戦いによるのでもない
21 「次いで,軽んじられた者が彼の地位に立つことになる。彼らは[その]王国の尊厳を決してその者に付そうとはしない。だが,心配なく過ごしている間に彼はまさに入って来て,滑らかさをもって[その]王国を手に入れる
(これ以降は、過去と現代の二重に成就しているものと思われます

22 また,洪水の腕について言えば,それは彼のゆえに押し流されて,砕かれる。契約の指導者もまたそのようにされる。
23 そして,彼らとの盟約のゆえに彼は欺きを続け,まさに上って来て,小さな国民によって強大な者となる。
24 心配なく過ごしている間に,彼はまさにその管轄地域の肥えたところに入り,その父たちまた父の父たちも行なわなかった事を行なう。強奪物と分捕り物と貨財を彼らの間に散らす。そして,防備の施された所に対してたくらみを巡らすが,それはただしばしの間である。
25 「また彼は大きな軍勢を率い,南の王に対して自分の力と心を奮い起こす。南の王もまた甚だ大きく強大な軍勢を率いてその戦いに奮い立つ。だが,彼はこらえて立つことができない。彼に対するたくらみが巡らされるからである。
26 そして,彼の美食を食していた者たちが彼の崩壊をもたらす
「また,彼の軍勢についても,それは押し流され,多くの者が打ち殺されて必ず倒れる。
27 「そして,これら二人の王は,その心を悪を行なうことに傾け,一つの食卓について偽りを語り合う。しかし何事も成功しないであろう。終わりはなお定めの時に臨むのである。
(現代のロシアとアメリカを指していると思われますが、まだ終わりに至らないことを示しています)

28 「そして彼は大量の貨財を携えて自分の土地に戻る。その心は聖なる契約に逆らう。そして彼は効果的に行動し,必ず自分の土地に戻る。
29 「定めの時に彼は戻って行き,南に向かってまさに攻め寄せる。しかし,後の時は初めの時と同じにはならないであろう。
30 そして,彼に対してキッテムの船が必ず攻め寄せる。彼は必ず失意させられる。
「それでも彼はまさに戻って行って聖なる契約をひぼうし,効果的に行動する。また戻って行って,聖なる契約を離れる者たちに考慮を払う。
31 また,彼から出る腕があって立ち上がる。そうして彼らは聖なる所を,要害をまさに汚し,常供のものをも除き去る。
「また彼らは荒廃をもたらす嫌悪すべきものを必ず据える
32 「また,契約に対してよこしまな行動をしている者たちを,彼は滑らかな言葉で背教に導き入れる。しかし,自分たちの神を知っている民は,優勢になり,効果的に行動する。
33 そして,民のうち洞察力のある者たちは,多くの者に理解を分かつ。また彼らは,剣と炎により,捕らわれと強奪とによって幾日かのあいだ必ずつまずきに渡される
34 しかし,つまずきに渡されている時,彼らは多少の助けによって助けられる。だが,多くの者が滑らかさによって彼らに加わる
35 そして,洞察力のある者たちの中にもつまずかされる者がいるそれらの者のゆえに精錬を行ない,清めを行ない,白くすることを行なうためであり,こうしてついに終わりの時に至る。それはなお定めの時に臨むのである。

(まだ、終わりに至らないことを示しています)


36 「そして,その王はまさに自分の意のままに事を行ない,自分を高め,自分を大いなるものとしてあらゆる神の上に高める。また,神々の神たる者に向かって驚くべきことを語る。また彼は糾弾がなし終えられるまでは必ず成功を収める。決定された事柄は遂げられねばならないからである
37 また彼は自分の父たちの神に何の考慮も払わない。女たちの願いにも,他のすべての神にも考慮を払わず,すべての者に勝って自分を大いなるものとする
38 しかし要害の神に対しては,自分のその地位からも栄光を帰する。その父たちの知らなかった神に対して,金により,銀により,宝石により,望ましい物によって栄光を帰する。
39 また彼は,異国の神と共になって,最強の防備の施されたとりでに対しても効果的に行動する。彼はだれでも[自分を]認めた者を栄光に富ませ,それらの者を多くの者の中で支配させる。また,代価を取って土地を配分する。
40 「そして,終わりの時に,南の王は彼と押し合うが,これに対して北の王は兵車と騎手と多くの船とをもって強襲する。彼は必ず[多くの]土地に入り,みなぎりあふれて通り行く
41 彼はさらに飾りの地にも入り,多くの[土地]がつまずきに渡される。しかし,これらは,すなわち,エドム,モアブ,またアンモンの子らの主立った部分はその手から逃れ出る。

(この出来事はロシアのウクライナ侵攻をも暗示しているのかも知れません)
 

42 それでも彼はそれらの土地に向かってしきりにその手を突き出す。エジプトの地は逃れ出るものとはならない。

43 そして彼は隠された金銀の宝をまさに支配し,またエジプトのすべての望ましい物を[支配する]。そしてリビア人とエチオピア人は彼の歩みに付く。
44 「しかし,彼をかき乱す知らせがあって,日の出る方から,また北から来る。そのため彼は非常な激怒を抱き,滅ぼし尽くすため,多くの者を滅びのためにささげようとして出て行く。
45 そして彼は自分の宮殿のような天幕を,壮大な海と聖なる飾りの山との間に設ける。それでも,彼は必ず自分の終わりに至る。これを助ける者はいない。

12章
「そして,その時に,あなたの民の子らのために立つ大いなる君ミカエルが立ち上がる。そして,国民が生じて以来その時まで臨んだことのない苦難の時が必ず臨む。しかしその時,あなたの民,すなわち書に記されている者はみな逃れ出る。
2 また,塵の地に眠る者のうち目を覚ます者が多くいる。この者は定めなく続く命に,かの者は恥辱に,[また]定めなく続く憎悪に[至る]。
3 「また,洞察力のある者は大空の輝きのように照り輝く。多くの者を義に導いている者たちは定めのない時に至るまで,まさに永久に星のように[輝く]。

4 「そしてダニエルよ,あなたは終わりの時までこれらの言葉を秘し,この書を封印しておくように。多くの者が行き巡り,[真の]知識が満ちあふれる」。

大いなる君ミカエルが立ち上がる時にはかつてない程の苦難の時が必ず望むとあるように、終わり

 の時は「悲惨な時」となると述べています。時とあるように短期間で終わることも示唆しています)


ダニエルに対する神のみ使いのこれらの言葉(預言)は、11:19までは既に成就しています。
それらの概要は歴史の教科書に載っています(ただし、日本の教科書という意味ではありません)
時代と共に、ここで示されている者たちは変遷しています。
つまり、彼、彼ら、北の王、南の王という表現で示されてる人物時代と共に違う人物を指しているということです。
例えば、彼と言っても、同じ人物について述べている訳ではないということです。
11:20以降は正に現代に生じている事柄であり、これから起こる出来事を示しています。
現代の北の王はロシア、南の王はアメリカを指していると考えられています。
今、そしてこれから起こる出来事を、ある意味具体的に示しているということです。
洞察力と識別力のある人間はこれらの意味するところを理解し、世界の動静を「眺めている」のです。
そして、12:4の封印が「終わりの時」である現代に解かれたのです。

 

さて、あなたは聖書の「この預言」を読んでどのように思いますか?
洞察力と識別力を持って「これらの意味を理解」出来るでしょうか。
もし、そのような者であるなら、あなたは「定めのない時に至るまで、まさに永久に星のように輝く」者になれるのです。

  

このような世界の潮流から見れば、高市政権や日中間の出来事は「ちっぽけ」な出来事です。

知恵を求める人のためのブログです。

今回は不登校の話です。

不登校の生徒は健全な学校生活を送れない異常者なのでしょうか?
事実は、の場合が多いと思われます。
不登校となった人が正常で、学校環境が異常な場合があると考えれるということです。

 

大抵不登校となる人は、大人しい人、内気な人、あるいは、皆と同じように出来ないためいじめに遭う人などが我慢の限界を超えた時、突然の不登校となるのです。

つまり、多少の問題であっても「気を強く持って」他の生徒と協調性を保つことが難しい生徒である場合が多いのです。

 

逆に気が強く物怖じしない生徒は少しぐらいのことではくじけたりせず気丈に振る舞っている場合が多く、

競争意識や対抗心の強い生徒や他の生徒を妬む生徒などはグループを組んで「特定の生徒をいじめる」ことで「鬱憤」を晴らそうとする「心のねじれた」生徒であることが多いものです。

こうした生徒は不登校になることは希です。

 

こうした状況は、ある意味犯罪と似ています。

犯罪被害者が弱弱しく見え、犯罪者が強く見えるようなものです。

つまり、善い人が虐げられ悪人がのさばっているようなものです。

 

このような感情を抱いた人は多いのではないでしょうか

 

子供たちの間の関係や出来事は、今も昔も同じなのですが、現代の方が「より陰湿」になっていることが問題なのです。

加えて、昔と違って現代では子供たちを取り巻く環境が著しく変化に富んでいます。

それに呼応する生徒も多種多様です。

ここにスマホなどが加わり他の生徒との連携がいとも簡単に形成されてしまい、被害がアッと言う間に拡大するという特異な状況となっています。

 

現実には、子供たちの間だけではなく、SNSによって社会全体でこうしたことが普通に行われています。

 

こうしたことを懸念するある国では子供たちがスマホを持つか、あるいは、使用することを制限する法律さえ作っています。

  

2005年4月の発達障害者支援法の施行以来、自閉症スペクトラム障害(ASD)・注意欠如・多動性障害(ADHD)・学習障害(LD)などの当事者を支援する制度が充実し啓発活動が盛んに行われるようになったことで、臨床でも学校でも会社でも、当事者の行動パターンの特性の理解や問題行動の早期発見が重視されるようになったとされています。

 

自閉症という言葉は、1943 年にアメリカの児童精神科医のカナーが,ユニークな症状を示す 11 人の症例について,「情緒的接触の自閉的障害」という題名の論文を発表したことに始まるとされていますが、

日本では、1970年から2000年にかけて、自閉症の生徒などが問題児扱いをされたことが「きっかけ」であったと記憶しています。

自閉症の生徒は扱いは、専門家でも大変難しいのです。

学校で教師をしていた時にこうした生徒と出会うことはありませんでしたし不登校もいませんでした。

それでも、自閉症に関する様々な本は読んで対応を常に考えていたものです。

 

おそらく、今の教師は大学の教職課程での講義や教育実習の時に事例や対応などを聞かされた程度だと思います。

そのため、学校内で、あるいは、父兄や生徒からの苦情などの問題が生じた時上手く対応出来ず

教師の方が悩む場合も少なくないのです。

 

教師、生徒共に多くの問題を抱えている実態は周知の通りです。

本来、学校には目的がありそのために集まる場所です。
その目的を達成するために様々な規則が設けられています。

しかし、生徒は、殆ど無条件で入学して来る訳です。

生徒の大半は学校の規則を殆ど知らず、また、それらを守ることをしていないのです。

普段は規則などのことは全く気にせず学業に励んでいるものですが、学校や担任などに言われて初めて知り守るようになることが普通となっています。

生徒間では、当然、気の合う人もいればそうでない人もいます。
大人しい人もいれば暴力的な人もいます。

いわば、羊、山羊、牛、豚、ライオン、虎、熊、狸、サル、猫、犬などを一つの場所で一緒に飼っているようなものです。

なのに、一緒に同じことをさせています。

学校では、こうした点で「区別」「差別」することはありません。

教師にはこうした様々な生徒をまとめ、するべきことをさせる「能力」が求められています

現実に、これを上手く出来ず「鬱病」になってしまう教師もいて、長い間休職扱いになる場合が増えています。

教育委員会や学校の規則では、例え暴力を振るう生徒でも一時的に登校禁止には出来ますが、長期間、登校禁止には出来ません。
中学までは登校しなくても卒業出来ますが、高校以上では単位が取れないため落第か退学になります。

現実はこうのようなのです
今の社会が異常であるため、正常な人間までが「おかしくなってしまっている」ように、不登校の生徒が正常で、学校社会の反応が異常である場合が多いのです。

 

どの社会でも同じですが、人が大勢集まると「集団意識が働き個人ではしないようなことをする「力」が働きます

この「」が異常な状態を生み出しているのです。

親切や思いやりを弱体化させ、自己主張、積極性、活動的、協調性などを重視し、いわば「力の世界」を作り上げ「抑圧的な状態」を生み出しています。

各都道府県の教育委員会の学校に対する目標を見てみれば分かります。
活動的、積極性、目標を持って達成させるための環境を整えることなどを掲げています。
こうした「縛りの中で皆が同一の教育を受けさせられている」のです。
一見して健全な目標のように見えますが、こうしたことについていけない生徒に対して、同じくらい力を入れて支援をしているでしょうか。
答えはです。
そのため、不登校が増えているのです。

今の学校教育方針と学校現場の在り方が間違っているのです。
学校教育の現場も社会と同じように変化し時代に適用させて行かなけらばならないのです。

しかし、今の教育委員会の面々を見ても分かる通り、旧態依然とした考えしか持ち合わせていない人たちだけなのです。
これでは、いつまでたっても学校の環境が良くなりません。

本来、学校は「人を育てる」ところなのに「競争の場」にしているのです。

人を育てるということは、表面的な目標を達成させるための支援だけでは「上手く行かないのです」

昔は、時には褒め時には叱ったり罰を与えるという、いわば「飴とムチ」を上手く用いて育てる人が優秀な指導者だと言われていました。

しかし、現代では必ずしもこの方法だけでは上手く指導出来ません

教師にも「高度な能力」が求められる時代となってしまったのです。

 

現代の有能な指導者昔のような暴力的」であったり、優れたチームや団体が「昔の軍隊のよう」であったり、

そこで「力」を発揮できない「弱者」がいじめられ社会問題化し驚きを生じさせていることも事実です。

 

これは、何を意味しているのでしょうか。

人を有能な人材に育てるには「権威的な力」が必要だということを教えています。

例え、甲子園で優勝するほどの有能で優秀な指導者たちでも「権威的な力=叱咤激励」と思い違いをしている場合が多いのです。

こうしないと生徒を思い通りに育てることが出来ないと思い込んでいるからです。

こうした指導者は「指導者としては失格」と言わざるを得ません。

  

昔は教師は尊敬される職業の一つでしたが、今では「単なるサラリーマン、職業」にしか見られていません。

加えて、教師による盗撮などという卑劣な犯罪も横行している始末です。

教師も地に落ちたものです。 

だからと言って、この職業が無くなる訳ではありません。

国としての抜本的な対策もしくは改革が必要なのです。

 

あなたはどう思いますか? 

知恵を求める人のためのブログです。

今回は、物事を体系化することに関する話です。

結論として、聖書はそのような書物ではないと述べています。

宗教にしろ他の何かについての説明しているもの(本など)にしろ、完成されたもの「分り易く、また、理解しやすくするため」に、大抵はすべてを体系化しているものです。
そのため、それらを学ぶ弟子や後進たちは、まず、体形という形から学ぶことになります。
しかし、纏めて体系化した本人は、試行錯誤しゼロから形作ったことは言うまでもないことです。
そのため、創始者または著者自身はすべてを理解していても弟子たちがそれを十分に理解するには困難な場合が多いものです。

人が人生を考える時、生まれた時から死ぬとき迄を俯瞰して考えることの出来る「若者」はおそらく一人もいません。
人生の様々な出来事を経験していないからです。
もし、若者で人生を俯瞰して考える人がいれば、それは想像(理想を含めて)やそれまでの経験による思い込みや誰かの受け売りでそう思っているだけだと言えます。

また、考える「範囲」でも変わって来ます。
自分だけのこと
家族のこと
友人とのこと
仕事のこと
社会のこと
地域(市や町や県など)のこと
自分の国だけのこと
地域(隣接する国など)のこと
全世界のこと
宇宙全体のこと
このように、考える「範囲」によっても、理想とする完成された「体系化された考え」は違ってきます。
これら10項目それぞれに関して「俯瞰」して考えることが出来ます。
つまり、理想はこの「範囲」ごとに考える必要があるということになります。

これらすべてを「同じ基準」で、つまり、同じ形で考えるには無理があります。
例えば、精神的な要因である、愛、道徳、信仰、喜び、思いやりや親切、辛抱や忍耐、欲、利己的または利他的などは必ずしもすべてに共通していません
更には、目標とするものもそれぞれ異なり、それを達成するための手段や方法も異なるからです。

宗教や「成功の秘訣」本などでは、大抵は「個人と他者との関係における精神」的な事柄について、状況に応じてどのようにすべきかを述べている場合が殆どです。
その際、見習うべき対象として、聖書であれば神やキリスト、仏教であれば釈迦やそれぞれの宗派の創始者、あるいは、模範とするべき特定の人物やその人の経験などが示されているものです。

物事をはっきりさせるために各々を「定義」し、それに基づいて説明を拡張しています。
そして、全体を「体系化」して、項目ごと状況ごとに説明し、最後に纏めとして結論を述べています。
こうした説明は「人間によるもの」「人間の考え」です。
例えば、それぞれの項目について、中心となる考えを具体的に展開し、また、問題を状況ごとに分析し、それぞれに沿った問題の解決方法を述べている場合が多いものです。

こうした思考では、往々にして「近視眼的な考え方」「独善的な考え」に陥る場合が多く、時として全体を考えることを忘れ間違った方向へと進んでいることに気が付かないこともあるものです。

このように考えると、いわゆるすべての人を網羅する「完全な本」というのは不可能だと言えます。
人によって、それぞれ思いや考えや性格や嗜好などが異なるからです。

人生で様々な経験をして来た人から見れば、確かに宗教や様々な「成功」本などを読み人生などを深く考え、共感した事柄に基づいて行動し、また、振る舞うことは「重要、あるいは、大事」だと思うものです。

繰り返しますが、こうした考えは「人間によるもの」「人間の考え」です。

人生を考える時に、別の視点もあることを知る必要があります。
それは、神の視点から、また、宇宙全体における人間の置かれている状況を考えた時に、宇宙全体の時の流れからみれば一人の人間は余りにもちっぽけな存在だということです。
ダビデは詩編の中で次のように語っています。
8編 ダビデの調べ。
わたしたちの主エホバよ,あなたのみ名は全地にあって何という威光を帯びているのでしょう。
あなたの尊厳は天の上で語り告げられます。
 2 あなたは子供や乳飲み子の口から力の基を据えられました。
それは,あなたに敵意を示す者たちのため,
敵と復しゅうする者とをとどめるためでした。
 3 わたしがあなたの指の業であるあなたの天を,
あなたの定められた月や星を見るとき,
 4 死すべき人間が何者なのであなたはこれを思いに留められるのですか。
地の人の子が[何者なので]これを顧みられるのですか

 5 あなたはまた,[人]を神のような者たちより少し劣る者とし,
次いで栄光と光輝を冠としてこれに添えられました。
 6 あなたはこれにご自分のみ手の業を支配させ,
すべてのものをその足の下に置かれました。
 7 小家畜や牛,それらすべて,
さらに,原野にいる獣,
 8 天の鳥,海の魚,
海路を通って行くものを。
 9 わたしたちの主エホバよ,あなたのみ名は全地にあって何という威光を帯びているのでしょう。


人間は誰一人神の思い、宇宙の流れを変えることは出来ません
あたかも行き先が決まっている大型客船(地球)に乗船している一人の乗客のようであり、船の中ではある程度自由に往来し振る舞うことも出来ますが、船の行き先や航路を変えたりすることは出来ません。
変えることが出来るのは、船の中での個人の振る舞い、あるいは、周囲の人々だけです。

人間は地球上では大きな存在で思い通りに振る舞うことが出来るかも知れませんが、宇宙という大きな流れの中では逆らうことも変えることも出来ないのです。

すべては「神の予定表通りに進む」ことになっています。

いわゆる「運命」的な考えではありません
人間にはその神の予定表すら「ハッキリとは分かっていない」のです。
もし、神の予定表を明確に分かっていれば人間はそれに合わせた行動を取るに違いありません。
しかし、それでは神に対する敬意も信仰も示す人は少なく、大多数の人々は神を冒とくするようになってしまうのです。
そうなることは神は望んではいないのです。

神は後述するアブラハムのような人を望んでいるのです。

宗教の教えを信じ、人生を俯瞰して考える場合、体系的な説明がもっともらしく思えるものです。

しかし、真の崇拝に対する理解はこうしたものとは異なります

聖書の場合は、宇宙全体が主であり、一つしかありません。
それは、
まことの神に対する真の崇拝という一点でしかないのです。

その他の事柄は「至らない人間に対する【
細かい助言」に過ぎないのです。
こうしたことは「神における真の崇拝」そのものとは異なるものです。
真の崇拝を行う上での
人間の至らない点を補完しているだけなのです。

宗教を批判する多くの人は、この補完について指摘し、信仰を行う人々、崇拝する人々のすることを「間違っている」とか「罪を犯している」などと発言しているのです。
私自身も、例えば社会の出来事やものみの塔を批判する時には同様の発言しています。

しかし、こうしたことは批判する人間も批判される人間の行いも、
真の崇拝そのものには何の影響も与えないということを理解出来るでしょうか。

世界の様々な宗教やものみの塔とその信者たちを批判したからと言って、
真の崇拝そのものを批判している訳でも否定している訳でもないのです。
様々な宗教を行っている「人や組織」が問題であって、真の崇拝そのものが問題だと言う訳ではないということです。
崇拝している信者に問題があるからと言って、その崇拝を否定している訳ではないのです。
ただし、ものみの塔の組織とその信者の問題点を指摘したからと言って、ものみの塔の考えを擁護し彼らの考えが真の崇拝を示していると言っている訳ではありません
なぜなら、ものみの塔のは人間の命令を教理として教えているからであり、イエスは明確にそうした人々を退けているからです。
マタイ15:7-9
7 偽善者よ,イザヤはあなた方について適切に預言して言いました,
8 『この民は唇でわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。
9 彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである人間の命令を教理として教えるからである』」。

イザヤ29:13
13 そして,エホバは言われる,「この民は口をもって近づき,ただ唇をもってわたしの栄光をたたえ,心をわたしから遠ざけており,わたしに対する恐れは人間の教えるおきてとなっている

唯一真の神はただお一人であり、天地の創造者であり、宇宙の絶対の権威者であり支配者であることは普遍なことです。
この神が真の崇拝を回復させるという目的も少しも変わってはいません。
こうしたことは、その神を崇拝する人間の行いによって「左右」されるものではありません
宇宙の流れ=真の崇拝を回復させる神の予定表を変えることは出来ないのです。
例えば、すべての人がこの神に敵対したとしても、宇宙の体系や神の目的は少しも変わらないのです。
パウロは次のように述べています。
ローマ人への手紙
3章と4章(全文)
3章
では,ユダヤ人の勝ったところは何ですか。また,割礼の益は何ですか。
2 あらゆる点で非常に多くあります。まず第一に,彼らが神の神聖な宣言を託されたことです。
3 では,[実情は]どうなのですか。ある者が信仰を表わさなかったとすれば,その信仰の欠如が,神の忠実さを無力にでもするのでしょうか。
4 断じてそのようなことはないように! むしろ,すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように。「あなたが言葉において義なることが証明され,裁かれる際には勝つため」と書かれているとおりです。
5 しかしながら,わたしたちの不義が神の義を際立たせるのであれば,わたしたちは何と言えばよいのでしょうか。神が憤りを発しても不当であるわけではないでしょう。(わたしは人間がするような言い方をしているのです。)
6 断じてそのようなことはないように! そうでなければ,神はどのようにして世を裁くのですか。
7 しかしながら,もしわたしの偽りのゆえに神の真実さがいよいよ引き立って[神]の栄光となったのであれば,なぜわたしはなおも罪人として裁かれているのですか。
8 そして[なぜ],わたしたちが言いがかりを受け,わたしたちがそう唱えているとある人たちが言うとおり,「良いことが来るように悪いことをしよう」と[言わ]ないのですか。そうした[人たち]に対する裁きは正当なものです。
9 ではどうなのですか。わたしたちは勝った立場にいるのですか。決してそうではありません! わたしたちはすでに,ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあるとの告発をしたのです。
10 こう書かれているとおりです。「義[人]はいない,一人もいない
11 洞察力のある者はいない,神を探し求める者はいない。
12 すべて[の人]が[道から]それ,みな共に価値のない者となった。親切を行なう者はいない,一人すらいない」。
13 「そののどは開かれた墓,彼らは舌で欺まんを弄した」。「毒へびの毒が彼らの唇の裏にある」。
14 「またその口はのろいと苦いことばで満ちている」。
15 「彼らの足は血を流すのに速い」。
16 「破滅と悲惨が彼らの道にあり,
17 彼らは平和の道を知らない」。
18 「彼らの目の前に神への恐れはない」。
19 さて,わたしたちは,律法の述べる事柄はみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するようになるためです。
20 したがって,律法の業によって肉なる者が[神]のみ前で義と宣せられることはありません。律法によって罪についての正確な知識が生じるのです。
21 しかし今や,律法からは離れて神の義が明らかにされました。律法と預言者たちによって証しされているとおりです。
22 そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。差別はないからです。
23 というのは,すべての者は罪をおかしたので神の栄光に達しないからであり,
24 彼らがキリスト・イエスの[払った]贖いによる釈放を通し,[神]の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。
25 神はこの方を,その血に対する信仰によるなだめのための捧げ物として立てられました。これはご自身の義を示すためでした。神は過去に,すなわちご自分が堪忍を働かせていた間になされた罪を許しておられたからです。
26 こうして今の時期にご自身の義を示し,イエスに信仰を持つ人を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされました。
27 では,誇るところはどこにあるのでしょうか。そのようなことは締め出されているのです。どんな律法によってですか。業の[律法]ですか。決してそうではありません。信仰の律法によってです。
28 わたしたちは,人は律法の業とは別に,信仰によって義と宣せられる,とみなすからです。
29 それとも,この方はユダヤ人だけの神なのですか。諸国の人たちの[神]なのでもありませんか。そうです,諸国の人たちの[神]でもあります
30 もし神がほんとうにただひとりならばです。[神]は,割礼を受けた人々を信仰の結果義と宣し,無割礼の人々をもその信仰によって[義と宣する]のです。
31 では,わたしたちは自分の信仰によって律法を廃棄するのですか。断じてそのようなことはないように! それどころか,わたしたちは律法を確立するのです。

4章
そうであれば,肉によるわたしたちの父祖アブラハムについて何と言えばよいでしょうか。
2 例えば,もしアブラハムが業の結果義と宣せられたのなら,彼には誇る根拠もあったことでしょう。といっても,神に対してではありません。
3 聖句は何と言っているでしょうか。「アブラハムはエホバに信仰を働かせ,彼に対してそれは義とみなされた」。
4 さて,働く人に対して,給料は過分の親切ではなく,債務とみなされます。
5 他方,業を行なわなくても,不敬虔な者を義と宣する方に信仰を置く人に対しては,その人の信仰が義とみなされるのです。
6 ダビデも,神が業を別にして義とみなしてくださる人の幸いについて語っているとおりです。
7 「その不法な行ないを赦され,罪を覆われた者は幸いである。
8 エホバがその罪を考慮に入れることのない人は幸いである」。
9 では,この幸いは割礼を受けた人々に臨むのですか。それとも,無割礼の人々にもですか。というのは,「アブラハムに対してその信仰は義とみなされた」と,わたしたちは言うからです。
10 では,どんな事情のもとでそのようにみなされたのですか。彼が割礼[を受けてから]ですか,それとも無割礼の時でしたか。割礼[を受けてから]ではなく,無割礼の時です。
11 そして彼はしるし,すなわち割礼を,無割礼の状態で得ていた信仰による義の証印として受けたのです。それは,無割礼の状態で信仰を持つ人すべての父となり,その人たちが義とみなされるためでした。
12 それで,[彼は]割礼のある子孫の父ですが,割礼を堅く守る者たちに対してだけでなく,無割礼の状態にありながら,わたしたちの父アブラハムが持ったあの信仰の足跡にそって整然と歩む者たちに対しても[父]なのです。
13 というのは,世の相続人となるという約束アブラハムとその胤が得たのは,律法を通してではなく,信仰による義を通してであったからです。
14 律法を堅く守る者たちが相続人であるのなら,信仰は無用となり,その約束は廃棄されたことになります。
15 実際のところ,律法は憤りを生じさせ,律法のないところには違犯もないのです。
16 このような訳で,それは信仰の結果でした。それが過分のご親切によるものとなって,その約束が彼の胤すべてに,すなわち,律法を堅く守る者だけでなく,アブラハムの信仰を堅く守る者に対しても,確かなものとなるためでした。(彼はわたしたちすべての父であり,
17 「わたしはあなたを任じて多くの国の民の父とした」と書かれているとおりです。)これは,彼が信仰を抱いていた方,すなわち,死人を生かし,無い物を有るかのように呼ばれる,その神のみ前においてのことでした。
18 達しがたい希望ではありましたが,それでも希望をよりどころとして彼は信仰を抱きました。それは,「あなたの胤もそのようであろう」と言われたところにしたがって,彼が多くの国の民の父となるためでした。
19 そして彼は,信仰においては弱くなりませんでしたが,およそ百歳であったので,自分の体がすでに死んだも同然であること,またサラの胎が死んだ状態にあることを思い見ました。
20 しかし,神の約束のゆえに,信仰を欠いてたじろいだりすることなく,むしろ信仰によって強力になり,神に栄光を帰し,
21 また,[神]はご自分の約束した事を果たすこともできるのだと十分に確信していました
22 ゆえに,「彼に対してそれは義とみなされた」のです。
23 しかしながら,「彼に対してそれが[そのように]みなされた」ということは,ただ彼のためだけでなく,
24 [同じように]みなしていただくことになっているわたしたちのためにも書かれたのです。わたしたちは,わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせた方を信じて頼っているからです。
25 [イエス]はわたしたちの罪過のために引き渡され,わたしたちを義と宣するためによみがえらされたのです。

今回の話の結論として、
聖書は読む人を教え諭し、また、納得させるために記された本ではないということです。
ただ、真の神の考えと天と地と人に対する予定表を示した書物であるということです。
それゆえ人間が分かり易いような、また、従いやすいような体系的な記述にはなってはいないということです。
体系的は説明は、人間が理解し易くするための方法に過ぎないのです。

あなたはどう思いますか?

知恵を求める人のためのブログです。

私は人に生じるあらゆる出来事には法則が働いている感じています
ただし、「感じています」ですから、明確にこうだとは説明出来ません

 

以下に述べることは、いわゆる「霊感」とは全く異なるものです。

日常の出来事の結果についての法則を述べているだけですから誤解の無いようにして下さい。

 

このように言うと「運命」「定め」などを連想する人がいるかも知れませんが、少し違います

これらについては、あらかじめ初めから決まっているという意味で用いられていることが多いからです。

 

私のいう法則というのは、人が自分の意思で何かをすることに対する「反応」のようなもので、初めから物事が定まっているという考えではありません

 

例えば、

物を落とすと重力で落下します。

意図的に落とす場合もありますが、落としてしまう場合もあります。

こうしたことは意図したこと、また、初めから決まっていたことではありません。

いわゆる、自然の法則です。

人の行いとその結果には、いわば、因果関係があると考えることは道理、または、理屈ですが、それを明確には証明出来ないので、「感じている」と述べています。


その感じ方は、
例えば、交通事故にしても、ケガをする時にしても、人が何らかの行動をしている時の出来事は、大河の流れのように「その流れを変えることは出来ない」と感じています。

その行動を起こした時、その発言をした時に「既にどのようなことが起きるかが決まってしまう」というものです。
つまり、交通事故にしても、ケガにしても「起きるべくして起きている」のです。
単に、理由や原因があるという問題ではありません

スピードを出し過ぎたから、よそ見をしていたから、眠かったから、ブレーキとアクセルを踏み間違えたからなどが原因だという考える以前の問題なのです。

ある人がある行動をとったその瞬間に、自然の法則が働くようにその行いの結果が生じるというものです。

だからといって、すべての人が車を運転すると交通事故に遭遇する訳ではありません。

その危険性はすべてのドライバーに、常に付きまとうことは誰しもが理解しています。

ただ、事故を起こす人は「起こすべくして起こしている」ということです。

それを明確には証明することは出来ませんが、そうなっているのです。

 

例えば、日航ジャンボ機が墜落しましたが、その飛行機に乗るはずだった人が乗り損ねた人もいました。

何らかの理由があったと思いますが、その人は死なずに済んだのです。

こうしたことは「その人の運命」だと言う人が多いと思いますが、私の考えは違います。

偶然死ぬべきして皆亡くなったのです。

なぜなら、その飛行機が墜落することになっていたからです。

後で分かったことですが、いわゆる隔壁にヒビが入っていて、それが離陸直後に破損しそれが原因で飛行機の操縦が不可能になって墜落したということです。

つまり、

その飛行機を羽田で始動した時にすでに墜落することが決まってしまったのです。

その飛行機を飛行させなければ墜落することはなかったのです。

その飛行機に搭乗して生き残った人は僅かに四人だったと記憶しています。

生存者後部胴体の後方に着座していて、衝突時の姿勢や座席の状況などが衝撃を和らげたためその人たちは助かったと言われています。

その人たちはその場所に座るべくして座っているのです。

その内の一人の女の子が自衛隊のヘリコプターで救出され搬送される場面もテレビで見ていました。

その日の出来事は飛行機が離陸した直後からテレビで放送していましたので、初めからすベてを見ていました。

確か夕刻でしたが不穏な空気が漂っていたのを感じていました。

別に予感していた訳ではありませんし、霊感を持っている訳ではありません。

ただ、そう思っただけです。

日常的な例としては、

例えば、洗濯した時長い紐が絡み合うのを見ていつも何か法則が働いているように感じていました。
これは水の抵抗と重力がそうさせているということは理解しています。
洗濯ではなくても長い紐の扱い次第ではどうにもならない位絡まってしまうことは良くあることです。
人の不注意、考えが足りないなどと考えることも出来ますが、少し考えれば絡まないように出来るのに「そうしない」気持ち、感情があると「必ず紐は絡む」のです。

人は、「そのまますれば紐が絡む」ということを理解しまた直感もしているのです。

しかし、やってしまうことは良くあることです。
つまり、紐を絡めているのは「自分」だということです。

もう一つの点は、その紐の絡み方が一見して複雑に絡み合っている(ように見える)ことです。

ただ、洗濯機で回しているだけなのにすごく複雑に絡み合いほどくのに手間がかかったことのある人は多いと思います。

しかし、その絡み方を良く見ると「ただ、いわゆる入れ子になっているだけ」なのです。

これを理解しほどくと簡単に解けることに気が付いている人がいるでしょうか

試しに、実際に長い紐をネットに入れないで他の衣類と一緒にそのまま洗濯して絡ませてみて下さい。

その時、洗濯機を見ていても絡み方が分かるかも知れません。

私は昔から「自分のこと」で、「何もしなければ何も起きない」言い聞かせて問題の対処をして来ました。
幾ら物事を深く考えて振る舞っても、自分の思いや感情などで行動を起こすと自分の意図しない結果や大事になることがある場合もあります

問題が生じ、自分だけではどうにもならないことに関しては、何もしない方がいわゆる「時間が解決」してくれる場合が多いものです。

もし、急いでしなければならない場合には、必然のみを行うことです。

自分の考えではなく、しなければならないこと自分の感情や考えを抑えて行うことです。


急がない場合には、何もしないことで、自分でも意識しない間に「問題の解決」が進んでいることが多いものです。
加えて、この間に解決するための「気持ちとアイデア」が自然と生まれ「その問題を上手く対処」出来ることは数多くあるものです。

いわば「ひらめき」が偶然に生まれることもあるのです。
自分に問題意識が生じた時には今でも同じようにしています。

その何もしない間にいろんな思いが自然と浮かんで来て、いわば最適解を選ぶことが出来るのです。

これは誰かとのトラブルという問題についてのことではありません
自分自身に生じる出来事に関してです。
自分自身が感じたことや他人が直接自分に関わらない問題である場合です。

しかし、現実には人間関係でも「上手く行く」こともあります。

それは、いわゆる「深謀遠慮」ということかも知れません。

また、交通事故に関してもケガに関しても、自分で「直前に予知」していることが多いのです。
自分では「なんとなく」気が付いていても「無視」している場合が殆どです。
こうした思いは、虫の知らせなどという不安な気持ちとは異なるものです。

例えば、何かをしている時、失敗するとかケガをするという気持ちや考えが「一瞬」よぎることがあります。

これは、直感であって思考ではありません。
それを無視して続けると案の定失敗やケガ」をしてしまう場合があるのです。

誰しもが経験していることです。

 

実際、柱やなにかにぶつかる、ぶつける直前、「体が勝手にぶつかる方に引っ張られているような、押されているような」「感覚」がよぎる場合があります。

手をナイフなどで切ってしまう場合も「手を切るのではないか」という予感があり「手が切るように動いてしまい手を切っている場合が多いものです。

こうした時には殆ど同じような「感覚」が生じているものです。

しかし、これを「回避」する手段がないので、実際にものにぶつかったり手を切ってしまうのです。

(参考:あたかも「背後霊」がいて、その者がそうさせているように思ってしまうような感覚」で

 す)

  

こうしたこととは逆のこともあります。

つまり、絶対そういうことは起きないと理由もなく「確信」したり「感じる」場合もあり、実際その通りに事故やケガなどが起きない場合もあるのです。

 

人間は殆どの場合、こうした思いを抱いて物事を行っていて、実際、問題が起こることはいわゆる「万に一つ」なのです。

しかし、その「万に一つ」が大事になることがあるのです。

それは、偶然ではなく「自分がそのようにしている」のです。

 

皆さんは、こうした経験はありませんか?

  

++++++++++++++++++ 

私はふと人間のすることには化学反応のような決まった法則、必然性があるように感じています。
人間のすることは偶然と必然で成り立っています。

いわゆる「因果応報」的な考えですが、聖書でもこうした考えを否定していません

 

人間には少し先のことはある程度は予測出来ますが、現実にどのようになるかを正確に告げることの出来る人はいません。
しかし、私は人間のするこうしたことには法則や必然性があるように思うのです。
今、私はそれを確かめ、かつ、身に付けようとしています
こうしたことは言葉では上手く伝えることは出来ません。
目には見えない事柄であり、確信を抱くことが難しいことだからです。

冒頭に述べましたが、いわゆる、霊的な事柄とも違う、あたかも引力のような法則のようなものです。
霊的な事柄は、いわば、人体の内部からのあるいは外部からの何らかの「力の働き」ですが、今私が伝えようとしている事柄はそうしたものではなく必然性、自然の法則のようなものです。

例えば、自分の欲しいものが手に入ると嬉しいという感情「自然に心に生じる」ようなことです。
自分にとって悪いことが起こる怒りの感情が湧き出て来るようなことです。

感情ではなく、感情が生まれるという法則そのもののことを言っています。

人間が行う物事にもそのような法則があるように感じています。
人はこうしたことを知らず、いわば、直感的に行うことが多いので、物事を上手くやることが出来ない場合が多いのです。
もし、こうした法則を知り事前に対応出来れば、殆どのことは思い通りに上手く出来ると考えています。

物事は自分の考えているように、あるいは、思うように出来なかったり事故やケガをする最大の原因はこの法則を無視した自分の考えであり思いを持つためなのです。

 

しかし、今のところこれを回避する手段はありません

それでも、例えれば、バッターがボールをヒットする瞬間の出来事で、選手の中には「その瞬間」が見える場合があることもあります。

川上哲治はそれを「繰り返し素振り」を繰り返すことで身に付けたとも言っています。

ボールが「止まって見える」と言っていました。

野村克也や落合博満などは「別の観点」でボールを捕え、数多くヒットを打っています。

この二人は川上のようにボールを点で捉えるのではなくボールの軌道とボールの当たる位置(上か下た)を意識しているということです。

同じすることでも「人によって異なる」のです。


人間はある意味欲望の塊のようなものです。
この欲望という思いも、思うように出来ない原因の一つとなる場合もあるのです。
人は、これを理解しないので、何でも自分の欲することを欲するままにしようとして、特に他人との関係では、大抵は上手く行かないのです。

人の思いと「目には見えない働き=法則」とが一致しない時物事は上手く運ばないのです。
しかし、この目には見えない働き=法則を察知し自分の思いとの調和というか整合性を持つことが出来れば物事は好転すると考えています。

 

従って、人に必要なことは「目には見えない働き=法則」を察知する能力ということになります。

これは、霊感ということではなく「目には見えない自然の法則」を常に意識するということです。

例えば、重力を常に意識していれば、ものを落とすことが減るかも知れないというものです。

+++++++++++++++++++++++++

以下は、こうした事柄についての最近の出来事に関することです。
軽トラの購入に関して、前週の金曜日に電話し土曜日に見に行きそこで即決し日曜日に住民票をコンビニで取りそれをFaxし、お金をネットバンキングから振り込み月曜日には完了したとの電話あり火曜日には受け取りに行きました。

そして、保管場所の届け出を木曜日にし、やはり金曜日にガレージテントを注文し日曜日に届きました。
ガレージテントを建て終わるまでの間、車を一時的に止めさせて頂いて、アンカーボルトの確認、玉砂利の購入、必要なアンカボルトや、コンクリートブロックの購入などを揃え建て終わりました。

すべてがあっという間の出来事でした。

また、

畑の購入に関して農業委員会の手続きも面接も許可も時間通りに進み、その後、所有権の移転、売買契約等も多少の問題がありましたが殆どすべてが順調に行き無事に終わりました

 

この間、上手く行かなかったらどうしようなどという焦りや心配はありませんでした

そのような思いが去来しそうになる時には、ボーとして「ただ思いを巡らす」だけで、深く考えたり意識をしないようにしていました。

思うように上手く行かなくても必要なことや出来ることをすれば良いとだけ考えていました。

 

必要なことをしていれば何もしなくても向こうから何をすべきかの知らせが来るものです。


いすれにしろ、必然を行い、先のことは余り意識を集中させないようにボーとして考えず「思いを巡らすだけ」で結果として「物事が上手く運ばれている」ように思います。
 

そうすると、思い通りにならなくても次を考え易くなります。
こうしなければならないという強い思い込みがないからです。
ただ、状況に合わせて行動するだけなのです。
こうした態度物事を好転させていると考えています。

 

皆さんが、何かをする時の「ヒント」なれば幸いです。