フィリピ人(会衆)への手紙(概要)

  パウロからフィリピの会衆と監督と奉仕の僕に対する手紙(奉仕の務めの考え方)

  ローマ AD60AD61

内容

  良いたよりのようにと進展(1:1-1:30

  キリストと同じ精神態度を保つ(2:1-2:30

  目標に向かってひたすら走る(3:1-4:23

**********************

関心のある人は、

 上記の内容ごとに、実際に聖書を読んでみて下さい。

 

一度に、すべてを読み切らず、

 いわば、テーマ毎に「じっくり考えて」から、

  先に読み進んで行く方が分かり易いです。

 

最初から理解しようとするのではなく、

 まずは内容を読んで下さい。

 

ヨハネへの啓示までの27冊の内容すべてを読んだら、

 再び読み、

 自分が考えるテーマごとに、

  関連ある事柄を纏めて見て下さい。

 

少なくとも、

 これを行うことで、

 聖書の「真理」が少しずつ分かって来るでしょう。

その後は、

 

 

この記事の内容にしたがって聖書を調べて見て下さい。

そうすれば、

 あなたは、

 歴史上最も読まれた本に精通することが出来ます

**********************

健康で、問題がなく、

 毎日を平穏に暮らしていても、

 人は楽しみや憩いを求めるものです。

 

他の動物にはない事柄です。

 

誰でも

 憩いや楽しみを求めたことはあると思います。

 

その楽しみ方は、

 人によって千差万別です。

 

ある人は、

 自然に癒しを求め、

別の人は、

 他の誰かと親しくなったり共に何かをすることを求めたり、

 音楽を聴いたり読書をしたり、

 何かを作ったり、

 美味しいものを作って食べたり、

 運動をしたり、

 スポーツをしたり、

 ゲームをしたり、

 お酒を飲んだり、

 温泉に入ったり、

 ドライブを楽しんだり、

 海辺で海水浴をしたり日光浴をしたり、

 ハイキングをしたり、

など様々です。

 

オフロード用の125~250㏄のオートバイで自然の山野を走り回るのは、

 気持ちの良いものです。

 

健康で元気があれば、

 一日を寝て過ごすなどと言うことはありません。

 

というように、

人は元気だと「能動的な生き物」なのです。

 

神が人間だけに付与した、

楽しみ」です。

 

楽しみ」は、

 日頃のストレスを解消するための手段です。

 気分転換でもあります。

 

人間は、

 こうして、時々「リフレッシュ」する必要のある「生き物」なのです。

 

もし、

人間に「楽しみ」がなければ、

 「精神に異常を来す」かも知れません。

 

************************

み使いたちには「楽しみ」というのはありません

み使いたちは、

 ストレスを感じることはないからです。

 

(ただ、

 だけが、

 人間との関係で「楽しみ」とするということはあります。

 しかし、

 人間の「楽しみ」のようなものではなく、

 子供が善いことをした時喜ぶ親のようなものです)

 

しかし、

「ある」み使いたちは、

 このような「楽しみを行う人間」を「羨ましく」思ったのです。

 

 人間同士が、男女が愉快に楽しむのを天から眺めるだけだったのです。

 

(参考:

 み使いに、女は存在しません

 なぜなら、

 人間や他の生き物のように、

  子孫を設ける必要がないからです。

 み使いたちは、

  永遠の生命体なのです。

 人間や他の生き物は、

  命を繋いで行く必要のある生き物です。

  植物も同様です。

 ただ、

 細菌やウィルスは、

  人間とは異なる生命体で、

  もしかすると不滅なのかも知れませんが、

  薬品で分解されてしまうこともあります。

  細胞と同じく「分裂」によって、増殖していきます)

 

そして、

 あるべき居所を捨てて地上に来て、

 人間だけに与えられた「楽しみ」を求めたのです。

それらのみ使いたちは、

 悪霊と呼ばれていて、

 元の場所に戻ることは許されず、

 裁きが下るまで、

 いわば牢屋のような所に「留め置かれて」います。

つまり、

 犯罪者扱いなのです。

 

***********************

「楽しみ」を求める点でも、

 人間は貪欲さを現します。

 

快楽」という言葉があります。

「快楽」の反語は「禁欲」です。

 

どちらも極端です。

 

聖書では「神を愛するより快楽を愛する」者となることを禁じています。

 -テモテ(二)3:4

 

この言葉の「言葉じり」を捉えますと、

「快楽を愛する」こと自体は「禁止」されていないということが分かります。

 

つまり、

神のおきてを守りつつ、

 「快楽」を求めても良いということです。

 

こういうことが出来るのでしょうか

 

「快楽」とは、

 日本語の意味は、

 気持ち良く楽しいこと、欲望が満たされた心地よさ、

 と示されています。

 

ギリシャ語聖書(原語)でも、

 この語は「快楽を愛する」「享楽的な」という意味の語になっています。

 

ですから、

日本語でもギリシャ語でも同じ意味だと理解出来ます。

 

快楽」というのは、

 ただ楽しいだけではなく、

 「陶酔するような気持ち」になるということや、

 「快楽にふけり楽しむ」という意味も含まれています。

 

「快楽」を愛するということは、

 この「陶酔感」を求めるということでもあります。

 

しかし、

神に対するより、

 他のことにこのような気持ちになることは「厳禁」だということなのです。

 

ですから、

「楽しみを求める」ことは「禁止されてはいない」のです。

 

貪欲になり過ぎないように「注意」しなければなりません。

 

********************

エホバの証人たちの、

 特に女性たちは料理や衣類や裁縫などに「楽しみ」を求め、

 日頃のストレス解消をしている人が少なくありません。

 これを仲間内で「定期的」行っている人さえいます。

 

別に悪いことではありません

 

エホバの証人の男性たちには、

 女性のような楽しみを行っていることは余り聞いたことがありません。

 そんな暇があったら「聖書」を読んで「深く熟考」するべきだなどと言われるかも

 知れません。

 

会衆でレクレーションをすることもあります。

 

ですが、

これは「余りお勧め」ではありません

 

余り、楽しくないからです。

 

レクレーションが終わった後で、

 ○○兄弟(姉妹)は・・・だったとか「批判したり噂したり」することが少なくないからです。

 「批判や噂」は、「余分」なことなのです。

 

********************

楽しみ」を求めるのは人間だけだと言いましたが、

 犬や猫は、

  遊んでいる(楽しんでいる)ような「しぐさ」をすることがあります。

  猫が動くものに「じゃれたり

  犬がボールなどを加えて「じゃれたり

 このような動作は、

 「楽しむ」ためにしているのでしょうか?

 

答えは「」です。

 こうした「しぐさ」は、

 動物的「本能」つまり敵や獲物を捕らえる時の習性なのです。

それを、

 人間が勝手に「遊んでいる」などと言っているだけなのです。

 

もし、

 動物で「遊ぶ」ということが観測されるとしたら、

 いわゆる、

  霊長類に属する動物です。

 

 知能が発達しているからです。

 

 例えば、

  猿、ゴリラ、およびこれらに類する動物は、

  遊ぶようなしぐさを見せることがあります。

*********************

参考

 

 

 

エフェソス人(会衆)への手紙(概要)

  パウロからエフェソス会衆への手紙(クリスチャンとしての歩み方)

  ローマ ADAD61

内容

  キリストによって一致をもたらす神の目的(1:1-2:22

  キリストの神聖な奥義(3:1-3:21

  新しい人格を着ける(4:1-5:20

  ふさわしい服従:クリスチャンの闘い(5:21-6:24

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関心のある人は、

 上記の内容ごとに、実際に聖書を読んでみて下さい。

 

一度に、すべてを読み切らず、

 いわば、テーマ毎に「じっくり考えて」から、

  先に読み進んで行く方が分かり易いです。

 

最初から理解しようとするのではなく、

 まずは内容を読んで下さい。

 

ヨハネへの啓示までの27冊の内容すべてを読んだら、

 再び読み、

 自分が考えるテーマごとに、

  関連ある事柄を纏めて見て下さい。

 

少なくとも、

 これを行うことで、

 聖書の「真理」が少しずつ分かって来るでしょう。

 

その後は、

 

 

この記事の内容にしたがって聖書を調べて見て下さい。

そうすれば、

 あなたは、

 歴史上最も読まれた本に精通することが出来ます

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知恵を求める人のためのブログです。

今の事物の体制下でしか出来ないこと

 

新しいキリストの世では、

 全地球的な規模での、

  地球の状態、環境、火山活動、地震、気象などの観測や予報、

  (キリストの統治下では、

   災害はあっても、

   人間や動物などに被害は及びません)

  や、

  宇宙に関する様々な観測、

  更には、

  電子顕微鏡などを用いた観測や研究、

  様々な物質の調査研究、

  あるいは、

  病気や細菌やウィルスなどの観測や研究、

 などは、

 出来なくなります。

 

必要で無くなるからです。

 

今のような学校教育も無くなります。

ですから、

 学校に通って学ぶということが無くなるのです。

 

教育は、

 殆どは、

 家族の頭が家族に対して行うのです。

 

ですから、

 上記のようなことは、

 事物の体制が存在している「今」しか出来ないのです。

 

また、

 様々な工業製品も無くなることは必定です。

 スマホ、PCなども無くなります。

 ただ、

 自分で作る木工器具や鉄、金、銀、銅などを加工した器具などは出来ます。

 しかし、

 それらを、家族以外の他の人が使うことはありません

 

更には、

 自動車を運転したり、

 飛行機大型客船に乗ったり、

 ディズニーランドのような所で楽しんだり、

 電車で遠くへ行ったり旅行したり、

 様々な電化製品を使ったり、

 映画を見たりアニメーションを観たり、

することも出来なくなります。

 

なぜなら、

 それらを製造する工場がなくり

 また、

 電気も無くなるからです。

これらに加えて、

 他人のために化石燃料を用いることも無くなるからです。

 

おそらく、

 ペットを飼うことも無くなります

 

病院も葬儀社も無くなります

 病人や死人がいないからです。

 

********************

こうして考えると、

キリストの世はどうなるのでしょうか

 楽しみを求めたり、

 様々な事柄で「能力を発揮する」ことが出来なくなって、

 つまらない「世」になってしまうのでしょうか

 

キリストの世では、

人の楽しみや能力は、

 作物を栽培したり、

 いろんな植物を植え育てたり、

 奇麗な花に囲まれたり、

 美味しい野菜料理を作ったり、

 美味しい果物を育て食べたり、

 あるいは、

 動植物を管理したり、

 環境を整備したり、

 

などのことに用いることになるでしょう。

 

不健康な人は一人もいないのです。

精神病の人も身体障害者もいないのです。

性的マイノリティーもいません。

 

家畜は存在し、

 牛乳や山羊の乳を飲んだり料理に使うことが出来るでしょう。

 羊は羊毛として衣類の原料として加工出来るでしょう。

 おそらく、

 馬も飼うことが出来、

  乗ったり農作業に用いたり出来るでしょう。

更には、

 を飼って絹を作れるでしょう。

 あるいは、

 を自分で作れるでしょう。

 

もしかすると、

 戦わない、争わないスポーツを楽しむことが出来るかも知れません

 

ただ、

 ゴグやマゴグが存在することは分かっていますから、

 こうした生活、暮らしに不満を抱く人もいることでしょう。

 

こうした人々は、

今の事物の体制で出来ていたことに未練がある人々であることは間違いないでしょう。

 

追記

 新しいキリストの世では、

  子供を産むということが無くなります

 なぜなら、

  地上は、復活してくる人だけで充分だからです。

 

 もし、

  子供が欲しいなら「今の内」かも知れません

 

*****************

今の事物の体制でしか出来ないことも、

キリストの世で出来ることも、

 極一部に過ぎません。

 

他にも、

 今しか出来ないことが沢山あります。

が、

 キリストの世では、

 楽しいこと嬉しいことで溢れている」のです。

 

 

ガラテア人(会衆)への手紙(概要)

  ガラテアの諸会衆への手紙(律法によって義とせんせられない)

  コリントまたはシリアのアンテオキア AD50AD52

内容

  パウロは自分の使徒職を擁護する(1:1-2:14

  律法ではなく、信仰によって義と宣せられる(2:15-3:29

  キリスト教の自由のうちに硬く立ちなさい(4:1-6:18

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関心のある人は、

 上記の内容ごとに、実際に聖書を読んでみて下さい。

 

一度に、すべてを読み切らず、

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  先に読み進んで行く方が分かり易いです。

 

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少なくとも、

 これを行うことで、

 聖書の「真理」が少しずつ分かって来るでしょう。

 

その後は、

 

 

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知恵を求める人のためのブログです。

初めは、

 母方の祖母(小学校3年生)、

 次いで、

 父方の祖母(20代)、祖父(20代)、父(50代)、母(50代)

 と順番に亡くなりました。

 

世間では、

 順当な死は「良いこと」とされています。

 

正に、その通りになりました。

 

しかも、

 誰一人として「介護」を受けることなく亡くなっています

 今でいうところのPPKです。

 皆、85歳前後で亡くなっていますから「天寿を全う」したと言えるでしょう。

 

子孫である私も斯くありたいと願っています

 

他の親戚が亡くなった時には、

 母から香典を出して置いたという連絡だけ来ました。

(ちなみに私の意思ではなく、

  母が体面を慮(おもんばか)ってしたことなので、

  別に反対もしませんでした)

 

********************

葬儀ですから、

 死者や親戚など周囲の人に対する「敬意」を示しました。

 当然のことだと考えています。

 

国旗に敬意を払うことと同じことです。

 

葬儀などの儀式は兎も角として、

 死者を埋葬すること自体は

 どの宗教に属していても行う訳で、

 また、

 その国の法律に定められています

 

土地の風習もあります。

 

葬儀には、様々な儀式があります。

 何時通夜や告別式や葬式やお別れ会などを行うか、

 死者の埋葬(火葬)の準備、

  日本では棺桶に入れる前に「死に装束」にします。

  喪主や家族がしなくても、

   葬儀社の人がやってくれることが多いものです。

   普通は、

    家族が行うことになっているようです。

 実際に、

  火葬場に行き、最後に死んだ人の骨を拾い骨壺に納めます。

   場合によっては、

   ここでも「読経」が行われるところがあります。

  (ないところもあります

  

  骨を拾うことは、

  火葬は1時間位で終わりますが、

  冷えるまで少し待つことになります。

   家族や親族で行います。

   最初に拾うのが「喉仏」と言われる部分の骨です。

   小さいので探さないと分かりません。

   その後、

   大きい骨から初めて、最後に「頭がい骨」を収めることになります。

 (火葬場の人が教えてくれます

 

  骨壺は、普通は先祖代々のお墓に納めることになります。

   これは家族のみで行うことが多いものです。

 

こうした葬儀に関することがらは、

 殆どは慣習によるもので、

 宗教の儀式的な事柄は「一部」だと考えて良いです。

 

ですから、

 死者に対する「礼」と儀式を混同していることも少なくありません

 

日本では、

 亡くなったら、埋葬しなければなりません。

 今は土葬はありませんから、当然火葬になります。

 火葬であれば、当然亡くなった人の骨や灰を集める必要があります。

 この骨や灰を集めることに、

  意味を持たせたところで「何の価値」があるでしょうか。

  遺骨は「集める必要」があるのです。

 

そして、墓などに埋葬しなければなりません。

 さもなければ、家のどこかに祭壇を築き、そこに置くことになります。

 あるいは、

 無宗派などの埋葬場所や納骨堂もあります。

 

法律で定められているからです。

 捨てる訳にも行かず、どこかに勝手に埋めることも出来ないのです。

 

故人の遺言や残された人の意思で幾つかの方法が取られます。

 

自由に出来るのは、

 葬儀を行うか否か、埋葬や骨や灰をどうするかなどで、

 故人の遺言などで決めることも出来る場合です。

 

 例えば、

  海や山に「散骨」するなど。

 

宗教によって、異なる葬儀をすることもあります。

たとえば、

 天皇の場合は、

  すべて神道のしきたりと法律に基づいて行われます。

  通常は土葬ですが、

   平成天皇は400年ぶりに火葬を希望した(する)と言われています。

 

********************

もし、エホバの証人自身か、エホバの証人の親族が亡くなった場合、

必ずしも、

 地元や親戚などの慣習に従う必要はありません

 大抵、

 故人が望む葬儀を行うことは認められるのです。

 故人の遺言がなければ、

  喪主か親族が決めることになります。

 

当然、

エホバの証人であれば、

自分や家族や親戚の人が亡くなったらどうすべきは調べ、また、考えておくべきです

 

エホバの証人の葬儀にも出席したことがあります。

 通常の「講演」形式と同じで筋書きがあり、

 ただ、生前のこと、将来の希望、残された家族に対する慰め(哀悼)などが話され

 るだけです。

 そして、神に歌と祈りが捧げられます。

 その場には、

  遺影も献花も祭壇もありません。

この時、

 いわゆる礼服を着用することを「ものみの塔が禁じている」こともあります。

 ものみの塔の言い分は、

  徒に悲しみを助長しないためと聞いています。

  復活の希望がありますので、

   必要以上に悲しむ理由はないのです。

   いわば、

   一時の別れに過ぎないと考えているからです。

(私の考えでは、

  復活に値しないエホバの証人も「少なからず存在している」と考えています)

 

ですが、

 礼服は死者に対する「」であり問題はないのです。

 エホバの証人ではない「親族」は皆礼服で出席します。

 

その土地の葬儀に関する慣習は、

 その土地や(日本では)仏教思想に基づいて行われるのがです。

 

********************

日本では、

 結婚式は「神前」で、

 葬式は「仏前」でと、

大概は決まっています。

 

神仏が融合した社会なのです。

 

中には、

 神道に属する人は、

 神道による「葬儀」を行うと聞いたことがあります。

 

つまり、

 神前、仏前などの

  意味付けに「重要な価値」がある訳ではないのです。

 ただ、

  慣習通り行えば

  死者に対する「」と

  遺族の体面が「保たれる」だけなのです。

 

仏壇やお墓を拝むことは、

 神社や寺社で拝むことと「同じ」行為とみなし、

偶像崇拝、偶像礼拝」とされています。

 

私の考えでは、

 神に対するように

 亡くなった人を「拝む(祈る)」人はいないと思います。

 

 亡くなった人に(心の中で)「語りかけます」が、

  亡くなった人に「祈願」することは「少ないものです」

  亡くなった人にその「」がないことは「誰でも知っている」からです。

 

人も動物も死んだら「」になるのです。

 仏教による「輪廻転生」を証明されたことは「皆無」です。

 また、

 キリスト教のように、

 天国や地獄に行ったことが証明されたことも「皆無」です。

(イエス・キリストの言う「神の王国」とはことなるものです)

 

これらは、

 空想か迷信です。

 

多くの人々にとっては、

 ただ、慣習として「同じこと、同じようなこと」などを「常識」的に行われれば問

 題はないのです。

 参考

 列王(二)5:8-19

 

 葬儀に出席する人に「何かを強制」することは「普通はありません」

 

例えば、

 焼香をしたくなければしなくても良いのです。

 葬儀に出席したくなければしなくても良いのです。

 

 ただ、周囲の人それを容認するかどうかですが。

(死んだ人は何も感じないし、何も思わないからです)

 もし、

 周囲の人が強く出席を求めるなら、拒む理由はありません

 

「敬意を示しながら出席すること」は可能なのです。

 

自分宗教や信念をそれらの人々に話しをして「受け入れてもらう」努力はする必要はあります

 

イエス・キリストも、

当時のユダヤ人の慣習に従って埋葬されました

-マタイ27:57-61、ルカ23:54-56

 

葬儀に出席するか、その葬儀で何を行うかは、

その人の「良心」の問題でもあります。

 

もし、

出席したエホバの証人が、

 それが「偶像崇拝や忌避すべきこと」だと「認識していながら行うならば」「

 になります。

 -コリント(一)8:4‐12、10:18-22を参考にして下さい。

 

 葬儀に関する「正確な知識」を必ずしも必要としている訳ではありません

  

一方で、

ナアマンは、父と一緒に偶像に身をかがめる許しを求め、それが許されました

 それは「一般的には偶像崇拝」と見なせる行為でした。

 しかし、

 それを神は「ナアマンが偶像崇拝を行った」とは見なさないとエリシャを通じて言

 われたのです。

 

現在、エホバの証人の行う葬儀は、

 ものみの塔の「葬儀に関する指示(筋書き)」と「世の慣習や法律に従う事柄」と

 混じったもです。

 葬儀はものみの塔のやり方で、

 火葬や埋葬は世のやり方です。

 

こうした状態で、

 エホバの証人たちは、

 どうやって(良心を)潔癖な状態に保てるのでしょうか

 

勿論、

 亡くなった本人による遺言により「潔癖」を保てる場合もあります。

 

がそれも、

独善的なもの」に過ぎないのです。

 

すべては、

神が禁じている事柄に関して各人の良心」に基づいて行うことです。

 

死者を埋葬しなければなりませんので、

 誰も避けては通れません

 

もし、間違ったことをすれば

 神がその人を正されるのです。

 

 人が正す訳ではないということも理解すべきです。

 

ものみの塔やエホバの証人や周囲の人の言うことを気にする必要はないのです。

もし、

他のエホバの証人に問いただされた時に、

 真理に基いて正しく返答すれば良いのです。

 

仮に、

 会衆の長老たちが「偶像崇拝」とし「排斥」の処分を決定したとしても、

 その責任は会衆の長老たちにあり、

 本人にはないのです。

 勿論、

 エホバが、(会衆の長老ではなく)その人を是認している場合もあるのです。

 ナアマンのように。

 

もし、ものみの塔がある事柄を禁止しているなら、

その理由と根拠を確かめるべきです。

 

多くの場合「偶像崇拝」や「復活の希望」と関連付けて、

 禁止の理由を述べています。

 

「○○することは××を思い起こさせるものとなります」などと、

 根拠が曖昧な説明も少なくありません。

 

 エホバの証人は良く注意すべき点です。

 

上記に述べたように、

 必ずしも「禁止の理由」に該当しない場合もあるのです。

 

知識だけではなく「理解」と「確信」が必要なのです。

 

理解のない信仰は「盲信」です。

 

葬儀極端な例ですが、

 知識と理解と確信の重要性を良く教えています

 

 

コリント人(会衆)への第二の手紙(概要)

  パウロからコリント会衆とアカイアにいるクリスチャンへの手紙(奉仕の務めに関して)

  マケドニア AD55

内容

  すべての慰めの神からの助け(1:1-2:11

  新しい契約の奉仕としての資格(2:12-6:10

  神への恐れのうちに神聖さを完成する(6:11-7:16

  寛大さは報われる(8:1-9:15

  パウロは自分の使徒職を論証する(10:1-13:14

 

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関心のある人は、

 上記の内容ごとに、実際に聖書を読んでみて下さい。
 

一度に、すべてを読み切らず、

 いわば、テーマ毎に「じっくり考えて」から、

  先に読み進んで行く方が分かり易いです。

 

最初から理解しようとするのではなく、

 まずは内容を読んで下さい。

 

ヨハネへの啓示までの27冊の内容すべてを読んだら、

 再び読み、

 自分が考えるテーマごとに、

  関連ある事柄を纏めて見て下さい。

 

少なくとも、

 これを行うことで、

 聖書の「真理」が少しずつ分かって来るでしょう。

 

その後は、

 

 

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そうすれば、

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 歴史上最も読まれた本に精通することが出来ます

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知恵を求める人のためのブログです。

人生思い通りにはならないことは誰でも知っています。

しかし、

人は、自由に、自分で生きたいように生きていることが多いものです。

中には、

 自分ではどうにもならない人もします。

 病気を抱えたり身体障碍者などです。

 

そうでない人は、

家庭環境が極端でない限り、

 普通の人生、自分の能力や技術に応じた人生を歩むものです。

 

しかし、

聖書を学ぶと

 神やイエス・キリストに認められる「人」になるには、

 生き方や人格などに於いて、

  神の助言に従わなければなりません。

 

 好みなど自由に決められること以外は、

 神のおきて、命令に従わねばならないのです。

 

勿論、

 各人には、

 お二人に認められる人生を歩むか否かを決定する「自由」はあります。

 

しかし、

 お二人に従わない人生を選択した人は、

 今の命がすべてで、

  死ねばすべては「無に帰します」

 

お二人に従う人生を選択した人は、

 今の命を失っても「将来の命」が約束されています。

 この約束は、

  その後の人生をお二人に忠実な人生を歩むか否かで決まります。

 

つまり、

 「将来の命の約束」を得られるには「ハードル」が高いのです。

 

しかも、

 信仰の闘いという厳しい闘いもあるのです。

 これにも打ち勝たねばなりません。

 

確かに「命は貴重なもの」です。

 

誰しも「条件がなければ」「将来の命、永遠の命」を手に入れたいと思うものです。

(苦境に立たされていたり苦悩していなければの場合です)

 

しかし、

 「条件」が付くと、

 二の足を踏むのです。

 

 そこまでして「命」を長らえたいとは思わないと思う人もいるのです。

 

あるいは、

 今の状態、環境が自分にとって「ある程度満足」したものであれば、

 「条件」を受け入れることはないでしょう。

 

「条件」を受け入れる人は、 

 大抵、自分が置かれている「今の状態、環境」などに不満を抱いていることが多い

 ものです。

 

あるいは、

ただ、

 平和を望み、病気や争いや事故や死などから解放されたいと望むからでしょう。

 

エホバの証人になる人の多くは「後者」の場合が多く、

それも、

 専業主婦が可能な家庭など「生活苦の少ない」人の場合が殆どです。

 

しかも、

これらすべてに関して、

 聖書と「ことば」だけで、

 受け入れているのです。

 

 現実に、これらが「生じた」ところを見た人は誰もいないのです。

 

つまり、

 口だけで、言葉だけで「教えを信じ、生活を改め、信者となり、活動」をしている

 のです。

 

勿論、

イエスが亡くなった後、使徒たちが生きている時までは、

 「奇跡」を目の当たりにすることが出来ましたから、

 信じる理由、根拠がありました。

 

しかし、

 その後は使徒たちもいませんし「奇跡」は起きません。

 

こうした状況では、

 背教が生じやすくなり、実際そうなりました。

 

 使徒たちが生きている間ですら「背教」「反キリスト」は存在していました。

 

 

「ことば」だけを信じることが、

 すべてが「誤り」とは限りません。

 

実際、 

人の言うことを「信頼」しないと、

 生きづらいものとなります。

 

人間の活動は、

 信頼が土台となっているからです。

 

要は、

イエスを含め、

 その語ること「真理」か否かという点と、

「真理」を正しく扱い、また、説明出来るかどうかという点です。

 

こうした点で「霊的知識、理解、分別、視野」を持っている人は「少ない」ものです。

 

ものみの塔は「知識、理解」は持っているかも知れませんが、

分別、視野」を持っていないことは「行いの結果」から分かります。

 

ある人々は、

エホバの証人から「聖書の希望」について聞き、

 その説明を、ものみの塔による見解を聞かされ、

「希望」を手に入れるために、

 ものみの塔の指示に従い、ものみの塔の活動に参加し、

 ものみの塔による「バプテスマ」を受け「信者」となって行きます。

 

しかし、

時が経つにつれて

知識もものみの塔やエホバの証人の「実体」を目にすると「疑問」が湧いてきます。

 

その「疑問」を解消出来ない人は、

やがて会衆を離れて行くのです。

 

つまり、

言うこと行いの乖離に「疑問」を感じるのです。

つまり、

正しい分別と視野を持っていないことに疑問を感じているのです。

 

それが、

不完全故の「罪」なのか「故意による罪」なのかに関して、

離れていく人たちは、

 敏感に感じ取るのです。

 

これが、

ものみの塔やエホバの証人が「偽善者」の集まりであることの「証拠の一端」となることは明白です。

 

信仰とは、

 まだ起きていない事柄に対する「期待」です。

 

 平和の訪れ、病気や争いや事故や死がなくなること、永遠の命を与えられること

 などは、

 すべて「期待」なのです。

 

あなたは、

使徒たちがいない上に、様々な翻訳の聖書がある「今の時代」

誰に、何に「期待」を抱きますか?

 

多くを望む人にとっては、

 人生は「窮屈」なものなのです。

イエスは、

 「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って

  行く人は多いからです。

  一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないので

  す」

と言われました。

 

つまり、

広くて大きく自由に生きられる道を歩む人には「将来」はなく

神とイエス・キリストのおきてを守る「狭められた道」「窮屈な道」を生きる人には「将来」があるということです。

 

したがって、

自分の命を長らえさせたいのであれば

 狭い、生き辛い人生を歩むしかないのです。

 今の人生ではなく「将来の人生」のために

 

これは、ある目的地の行く人の場合に例えることが出来ます。

「地図」を見ながら「決まった道」を行くなら大抵は目的地の着くでしょう。

しかし、

 「地図」を持っておらず、あるいは、地図を持っていても、

   自分の思うように、自由に行くなら、

   大抵は、中々目的地には着かないものです。

   中には、途中「良いところがある」と言って「寄り道」をする人もいるかも知

   れません。

 

あるいは、

 スポーツ選手のような生き方かも知れません。

 そのスポーツのために、

  不必要な事柄を避け、役立つことに専念した生き方は「窮屈」なものです。

 

 例えば、

 大谷翔平選手は、

 野球に全精力を打ち込むため、

  女性にあまり関心を持たず、アルコールも飲まないそうです。

  結婚は「引退」した後と決めているようです。

  食べる物、飲む物、人間関係、チームやチームメイトとの関係、ファンや周囲の

  人との関係、

  日常生活、娯楽や趣味、お金に関することなどなど

 多くの点で普通の人より「制限や制約」を自分に課しているのです。

 

 ある意味、信仰を実践する人の道に似た非常に狭められた道」です。

 

 

注意点は、

どちらの道を選択するにしても

 「時間が限られている」ということです。

 いつまでも、

  だらだらと歩む程「時間がない」ということです。

 

従って、

今の世の中で、

 穏やかで平和に暮らしたい人は、

 ものみの塔やエホバの証人と「関わらない」ことです。

 

彼らと関わると、

 必ず「不幸」になります。

 彼らは、

  世の考え、振る舞いなどを極端に「避けている」ため、

  友達や家族に「必ず亀裂」が入るからです。

 

また、

もし、聖書の音信を知ってそれを手に入れたいと思うなら

真理を知り、真理を正しく扱っている人」を探すべきです。

 

「救い」は組織に属することで生じるものではありません

「救い」は個人的なことです。

 

この点も正しく教えてくれる人を探すべきです。

 

どんなに「言うことが良いように思えてもエホバの証人とは関わらないことです。

これは「警告」です。

 

コリント人(会衆)への第一の手紙(概要)

  パウロからコリント会衆への手紙(会衆内でのクリスチャンとしての在り方)

  エフェソス AD55

内容

  パウロは分派的な傾向を指摘して、一致を説く(1:1-4:21

  会衆を清く保つことについて(5:1-6:20

  独身と結婚に関する助言(7:1-7:40

  良いたよりのためにすべての事を行なう(8:1-9:27

  害になる事柄に対して闘う(10:1-10:33

  頭の地位、主の晩さん(11:1-11:34

  霊の賜物;愛およびそれを追い求めること(12:1-14:40

  復活の希望の確かさ(15:1-16:24

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関心のある人は、

 上記の内容ごとに、実際に聖書を読んでみて下さい。

 

一度に、すべてを読み切らず、

 いわば、テーマ毎に「じっくり考えて」から、

  先に読み進んで行く方が分かり易いです。

 

最初から理解しようとするのではなく、

 まずは内容を読んで下さい。

 

ヨハネへの啓示までの27冊の内容すべてを読んだら、

 再び読み、

 自分が考えるテーマごとに、

  関連ある事柄を纏めて見て下さい。

 

少なくとも、

 これを行うことで、

 聖書の「真理」が少しずつ分かって来るでしょう。

 

その後は、

 

 

この記事の内容にしたがって聖書を調べて見て下さい。

そうすれば、

 あなたは、

 歴史上最も読まれた本に精通することが出来ます

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知恵を求める人のためのブログです。

おそらく、

どの宗教でも、

 自分が入信する時には、

 悩み解決、将来の希望などが得られて「安心と解放感」が得られたかも知れませ

 ん。

 

しかし、

 その宗教と交わり、時間が経つと、

 「気が薄れて」行くことが多いものです。

 

以前の生活と信仰に基づく生活が

 融合し混然一体となって行くものです。

 

そして、

 初めの熱意が徐々に失われて行くことも多いものです。

 これは、

  不信仰になったからではなく、

  いわば、落ち着いて来て少し冷静になって来たからと言えます。

 

更に時間が経過し、

 入信した宗教全体が少しずつ分かってくると

 いくつかの疑問が生まれてくることがあります。

 

その原因の多くが、

 「人や組織に対する躓き」です。

 

教えそのものではないことが殆どなのです。

 

皆さんはこれをどう思いますか?

 

宗教の教えは間違っていない

しかし、

 組織と信者の発言や行いが間違っているのだと。

 

パターンとしては、

1 宗教の教えが正しくて、

  人や組織が過ちを犯している

2 宗教の教えそのものに矛盾がある

3 両方が正しくない

 

疑問や矛盾を感じる時には、

 両方が正しいということは有り得ません

 

 哲学では「あるかもしれません」が・・・

 

個人的には、

殆どの宗教は、

 3番目の、両方が間違っていると考えています。

 

なぜなら、

 完璧な人も組織も宗教も「基本的にはない」からです。

 

皆、

 何かしらの「善い点に共感」して、

 その宗教の門を叩くのであって、

 初めからすべてを知って、分かって入信している訳ではないことは明白です。

 

個人的には、

 聖書は「完全な書物」と考えています。

 これほど「完全な書物」を他には知りません。

 

どの宗教にしろ、

 目に見える現実の教えと

 目に見えない「形而上」の事柄

があります。

 

 人の行い、善悪目に見えるものです。

 神や人の心目には見えないものです。

 

人が躓くのは、

 目に見える事柄に関してです。

 

目に見えない事柄「人が躓く」ことはありません

 なぜなら、

 見えないので「確証」がないからです。

 

人が躓くのは、

 自分の理解と違うことを他の人がしているからなのです。

 

 逆に、同じ理由で「自分が批判」されることもあります。

 

結論として、

 同じ宗教を信心していても

 一人ひとり「理解も信仰心も振る舞い」も違うのです。

 

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違いに関して、

 他の人に「寛容」になるべきだと言っているのではありません。

 是々非々で対応すべきなのです。

 

ただし、

 自分が自ら「問題を正そうとする」と大きな問題に発展するので、

 より立場の上の人にそれとなく相談し対応した方が無難です。

 

時には、希に

 より立場の上の人にも「問題」があることもあります。

 

ですから、

 より立場の上の人でも、

 だれに相談すべきかは「その人を良く観察し、また、話したらどうなるかを十分考

 慮」しなければ、

 自分が「悪者」にされることさえあるのです。

 

この点、すべての人は良く注意する必要があります。

すべての人は、

 何らかの「思惑」を持っているものです。

 

ですから、

 相手の思惑を知らない内は「黙っているべき」です。