知恵を求める人のためのブログです。
人生思い通りにはならないことは誰でも知っています。
しかし、
人は、自由に、自分で生きたいように生きていることが多いものです。
中には、
自分ではどうにもならない人もします。
病気を抱えたり身体障碍者などです。
そうでない人は、
家庭環境が極端でない限り、
普通の人生、自分の能力や技術に応じた人生を歩むものです。
しかし、
聖書を学ぶと、
神やイエス・キリストに認められる「人」になるには、
生き方や人格などに於いて、
神の助言に従わなければなりません。
好みなど自由に決められること以外は、
神のおきて、命令に従わねばならないのです。
勿論、
各人には、
お二人に認められる人生を歩むか否かを決定する「自由」はあります。
しかし、
お二人に従わない人生を選択した人は、
今の命がすべてで、
死ねばすべては「無に帰します」
お二人に従う人生を選択した人は、
今の命を失っても「将来の命」が約束されています。
この約束は、
その後の人生をお二人に忠実な人生を歩むか否かで決まります。
つまり、
「将来の命の約束」を得られるには「ハードル」が高いのです。
しかも、
信仰の闘いという厳しい闘いもあるのです。
これにも打ち勝たねばなりません。
確かに「命は貴重なもの」です。
誰しも「条件がなければ」「将来の命、永遠の命」を手に入れたいと思うものです。
(苦境に立たされていたり苦悩していなければの場合です)
しかし、
「条件」が付くと、
二の足を踏むのです。
そこまでして「命」を長らえたいとは思わないと思う人もいるのです。
あるいは、
今の状態、環境が自分にとって「ある程度満足」したものであれば、
「条件」を受け入れることはないでしょう。
「条件」を受け入れる人は、
大抵、自分が置かれている「今の状態、環境」などに不満を抱いていることが多い
ものです。
あるいは、
ただ、
平和を望み、病気や争いや事故や死などから解放されたいと望むからでしょう。
エホバの証人になる人の多くは「後者」の場合が多く、
それも、
専業主婦が可能な家庭など「生活苦の少ない」人の場合が殆どです。
しかも、
これらすべてに関して、
聖書と「ことば」だけで、
受け入れているのです。
現実に、これらが「生じた」ところを見た人は誰もいないのです。
つまり、
口だけで、言葉だけで「教えを信じ、生活を改め、信者となり、活動」をしている
のです。
勿論、
イエスが亡くなった後、使徒たちが生きている時までは、
「奇跡」を目の当たりにすることが出来ましたから、
信じる理由、根拠がありました。
しかし、
その後は使徒たちもいませんし「奇跡」は起きません。
こうした状況では、
背教が生じやすくなり、実際そうなりました。
使徒たちが生きている間ですら「背教」「反キリスト」は存在していました。
「ことば」だけを信じることが、
すべてが「誤り」とは限りません。
実際、
人の言うことを「信頼」しないと、
生きづらいものとなります。
人間の活動は、
信頼が土台となっているからです。
要は、
イエスを含め、
その語ることが「真理」か否かという点と、
「真理」を正しく扱い、また、説明出来るかどうかという点です。
こうした点で「霊的知識、理解、分別、視野」を持っている人は「少ない」ものです。
ものみの塔は「知識、理解」は持っているかも知れませんが、
「分別、視野」を持っていないことは「行いの結果」から分かります。
ある人々は、
エホバの証人から「聖書の希望」について聞き、
その説明を、ものみの塔による見解を聞かされ、
「希望」を手に入れるために、
ものみの塔の指示に従い、ものみの塔の活動に参加し、
ものみの塔による「バプテスマ」を受け「信者」となって行きます。
しかし、
時が経つにつれて、
知識もものみの塔やエホバの証人の「実体」を目にすると「疑問」が湧いてきます。
その「疑問」を解消出来ない人は、
やがて会衆を離れて行くのです。
つまり、
言うこと行いの乖離に「疑問」を感じるのです。
つまり、
正しい分別と視野を持っていないことに疑問を感じているのです。
それが、
不完全故の「罪」なのか「故意による罪」なのかに関して、
離れていく人たちは、
敏感に感じ取るのです。
これが、
ものみの塔やエホバの証人が「偽善者」の集まりであることの「証拠の一端」となることは明白です。
信仰とは、
まだ起きていない事柄に対する「期待」です。
平和の訪れ、病気や争いや事故や死がなくなること、永遠の命を与えられること
などは、
すべて「期待」なのです。
あなたは、
使徒たちがいない上に、様々な翻訳の聖書がある「今の時代」
誰に、何に「期待」を抱きますか?
多くを望む人にとっては、
人生は「窮屈」なものなのです。
イエスは、
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って
行く人は多いからです。
一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないので
す」
と言われました。
つまり、
広くて大きく自由に生きられる道を歩む人には「将来」はなく、
神とイエス・キリストのおきてを守る「狭められた道」「窮屈な道」を生きる人には「将来」があるということです。
したがって、
自分の命を長らえさせたいのであれば、
狭い、生き辛い人生を歩むしかないのです。
今の人生ではなく「将来の人生」のために。
これは、ある目的地の行く人の場合に例えることが出来ます。
「地図」を見ながら「決まった道」を行くなら大抵は目的地の着くでしょう。
しかし、
「地図」を持っておらず、あるいは、地図を持っていても、
自分の思うように、自由に行くなら、
大抵は、中々目的地には着かないものです。
中には、途中「良いところがある」と言って「寄り道」をする人もいるかも知
れません。
あるいは、
スポーツ選手のような生き方かも知れません。
そのスポーツのために、
不必要な事柄を避け、役立つことに専念した生き方は「窮屈」なものです。
例えば、
大谷翔平選手は、
野球に全精力を打ち込むため、
女性にあまり関心を持たず、アルコールも飲まないそうです。
結婚は「引退」した後と決めているようです。
食べる物、飲む物、人間関係、チームやチームメイトとの関係、ファンや周囲の
人との関係、
日常生活、娯楽や趣味、お金に関することなどなど
多くの点で普通の人より「制限や制約」を自分に課しているのです。
ある意味、信仰を実践する人の道に似た「非常に狭められた道」です。
注意点は、
どちらの道を選択するにしても、
「時間が限られている」ということです。
いつまでも、
だらだらと歩む程「時間がない」ということです。
従って、
今の世の中で、
穏やかで平和に暮らしたい人は、
ものみの塔やエホバの証人と「関わらない」ことです。
彼らと関わると、
必ず「不幸」になります。
彼らは、
世の考え、振る舞いなどを極端に「避けている」ため、
友達や家族に「必ず亀裂」が入るからです。
また、
もし、聖書の音信を知ってそれを手に入れたいと思うなら、
「真理を知り、真理を正しく扱っている人」を探すべきです。
「救い」は組織に属することで生じるものではありません。
「救い」は個人的なことです。
この点も正しく教えてくれる人を探すべきです。
どんなに「言うことが良いように思えても」エホバの証人とは関わらないことです。
これは「警告」です。