こんにちは、じきです。

 

 

  今回は、一昨年末に20年程勤めた会社を退職し、現在アラフォーヒモニートである私の、これまでのヒモニート生活を振り返った感想を書いていこうと思います。

 

 

 

 不快な方は、いつもとおりブラウザバックしていただくようよろしくお願いします。

 

 

 

 

 穏やかな日々

 

 

 冒頭のとおりヒモニート生活を始めた私ですが、昨年は、本当に年始から年末に至るまで一切働かず1年間生活しました。あれだけ長くゆっくりしたのは、在職中にサイコパスにやられて休職した時以来のことですね。

 

 

↓ 過去記事 サイコパスおじさんとの闘い ↓

 

 

 そして今年も、現在に至るまでヒモニート生活を継続しております。

 

 

 過去記事に書いた通り、私は20年程に及ぶ社会人生活期間中は常に労働が必須である生活から完全に抜け出すことを画策していました。 

 ずっと、こんな風に、時間の制約も責任もない生活をしてみたかったのです。

 

 

 

 実際、目標だったヒモニートになって以降過ごした時間の多くは、穏やかな気持ちで過ごせることが多かったと思います。

 

 

 

 勤めていた頃の私は、ただでさえ心配性なところがあるので、日々、身じろぎしたくなる程の強い不安感等を感じることが多かったです。

 

 

 

 

 勤めていた頃の不安感等の例を上げればキリがないですが、主なものは下記の4点になります。

 

 

 

 

年々厳しくなるコンプラや、客の権利意識肥大により起こる業務内容等の激化。

 こんな息がつまるような社会人生活を、今後何十年にも渡り、自分が「老人」になるまで続けなければいけないのか…という不安。

 

 

 

 

 

転勤族として、全然馴染みがない場所を転々とする生活がしんどい。

 同じ日本といえど、生活上の文化や職務上のルールは場所により微妙に違うし、転勤の都度、職場内外で知り合いが全く居なくなるのも寂しい。

 

 

 

 

 

仕事のための準備や通勤を含めれば、実質的に1日12時間くらいは仕事に心身を拘束されているのがつらすぎる。

 

 

 

 

 

「始業の定時」にはめちゃ厳しいのに「終業の定時」はめちゃユルユル残業祭りという状況が嫌すぎる…等。

 

 

 

 

 他にも色々思うところはありましたが、私が、日々強烈な不安感等を感じていたのは、それらの理由が主な原因だったように思います。

 

 

 

 

 比べることの無意味さ

 

 

 在職中、私と同じような不安等を口にする人は、意外とちらほら見掛けました。

 

 そしてその都度、必ず「日本に生まれたのだからそれだけで幸せ勢」の姿を見てきたようにも思います。

 

 

 

 他国に比べれば生活ぶりや治安等において恵まれているだとか、差別等が少なく暮らしやすいだとか、文句を言うなら国から出ていけ…様々な意見を見ることがあります。

 

 

 

 ただ、それらの意見に対しては、人それぞれ能力・環境等が全く違うので、比べること自体が無意味であると常々思っております。

 

 

 

 何処の誰から、どの国や地域や家庭に生まれようと、他でもない自分自身が、その環境等に適した能力等を持ち合わせて生まれてさえいれば、そりゃ文字通り「幸せ」に生きていけることでしょう。

 

 

 

 

 つまり、その逆も然りです。

 

 

 

 

 どんな条件の良い国に生まれようと、肝心の自分自身の能力・環境等が不遇な状況であるのなら、それは間違いなく「過酷」なのです。

 

 

 

 私自身で言えば、過去記事にしたとおり、身体能力・学力ともに低いし外見も冴えなく、家も貧乏です。そのため、いじめ・差別等の被害者側になった経験など腐るほどあります。

 

 

 

 個人的には、「日本に生まれただけで~」的な意見本気で声高に唱える人の多くは、それを声高に言える程度に、当のご本人が幸運にも恵まれた環境・能力等で生まれてこられただけのヌルゲープレイヤーなのだろうなと感じます。

 

 余計なことを考える必要すらなかった、ただの「運が良いだけの人」であるケースが多いと思うのです。

 

 

 

 ちなみに「運が良いだけの人」というのは、必ずしも、自分自身の能力や家柄等に優れている必要はありません。

 

 

 

 ある種の脳の領域がそもそも欠損・欠落等しており、他人に対しての洞察をする能力等が非常に低かったり、何でも他責し、他責することに何ら躊躇・葛藤が無いような人種も、私が思う「運が良いだけの人」に当てはまります。

 

 

 

 それらの「運が良いだけの人」の共通事項は、己の歩んできた道・見聞きしてきた常識や知識等以外のことに対する想像力等が、著しく欠如していることです。

 

 

 そういった、己の無能にすら気付けない程の無能は、本当に幸せな人種だと感じます。

 

 

 

 私も他人をとやかく言えません真の無能は、マジで「己の無能」を自覚しておりません。

 

 

 

 

 そういった類の人は、わざわざ自ら病院に行き、知能検査等の診断を受けてないから気付かないだけで、実は境界知能等だったというケースも少なくないのではないかと思います。

 

 

 

 しかし、残念ながら問題意識を持って自ら病院に行かなければ、何らかの障がい等があることを診断されることはないです。

 

 

 

 そのため、自分自身を真っ当だと勘違いし、その勘違いに気付く能力すらなく、ひたすら歪んだ主観や正義感で他者を攻撃し続ける構図です。

 

 

 

 

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 当然、歪んだ主観=全てが境界知能に該当するだとか、境界知能=全てが悪とかいう極端な話ではなく当然そういった御方達の中にも、優れた能力を持つや人柄の良い人も沢山いらっしゃることでしょう。

 

 

 

 ただ一部の、何度も同じような内容で他者に「正論という形をとった誹謗中傷」をする人を見るたび、おそらく、正確なコミュニケーションが取れない若しくはコミュニケーションを司る脳の回路そのものが未発達もしくは無い人なのだろうなと感じます。

 

 

 

 

 「文字の読み書きが出来ること」「文章・行間・要点・気持ちを理解すること」は、全く違います。

 私を含め、その辺の能力に乏しい人はわりと多いと思います。

 

 

 

 なお「知能」「知性」必ずしも比例しません。

 

 

 例えお勉強が出来て知能に長けていても、知性がないと脱税国会議員等みたいになってしまいます。

 回路が無い脳=無脳=無能です。IQだけ高くてEQ激低なのは寒いです。

 

 

 

 なお「偉そうに言ってるが、てめぇは文字の読み書きも知能も知性も何もかも劣等生だろうが」と私が言われた場合、返す言葉もございません照れ

 

 

 

 ヒモニート生活のメリット・デメリット

 

 

 

 さて、話を戻します。

 

 

 現在の生活スタイルにおいては、上記したような強い不安感を感じる機会がそれほど無く生活出来たため、本当に良かったと感じております。

 

 

 保有資産面でも、貯蓄を減らすことなく生活をしておりました。当初、このヒモ生活はわりと早く破綻するかなと予想していだだけに、嬉しい誤算でしたね。

 

 

 

↓ 参考 過去記事 私のお財布事情 

 

 

 

 1日の生活サイクルは残念ながら乱れております。

 贅沢な話ですが、時間の自由が約束されているが故の弊害ですね。

 

 

 

 真夜中まで起きて、お昼過ぎまで寝るというサイクルが定着しつつあります。彼女が休みの日だけは、彼女に合わせて起きるようにはしております。

 

 

 

 恐らく、私は夜型人間なのでしょう。

 明るい時間帯よりも、暗い時間帯の方がなんやかんや行動を起こしやすいように感じます。

 

 

 

……

 

 

 さて、現在の生活にもメリット・デメリットがあります。

 

 

 メリットの最たるものは先にも述べたとおり「時間の自由」です。

 

 

 正直な話、個人的にはこのメリットだけだとしても、数あるデメリットを凌駕している印象です。

 

 

 

 私は時間に縛られることが苦手なタイプの人間です。

 

 

 そのため、翌朝何時までに起きなきゃならない・仕事により何時までにどこかへ行かなければならない等のプレッシャーがほぼ皆無な今の生活は、この上なく快適です。

 

 

 私の「ヒモニート」という状況は少し特殊かもしれませんが、やはり目先のことに限定すれば、時間の制約がないことは勿論のこと、他にも金銭的な心配事が非常に少ないことや、性交渉による性欲の解消が容易というのも良いところですね。

 

 

 

 ただ、やはり、思うところも多くあるのです。

 私の思うデメリットも書こうと思います。

 

 

 

 デメリット 刺激のない日々

 

 

 在職中の私は元々仕事が嫌いだったし、出世に興味もなく、実社会の常識や慣習に辟易とした毎日を過ごしておりました。

 

 そのため「仕事」や「定時」から解放れたら、仕事をしている時よりも相当幸せに生きていけるのではないかと考えておりました。

 

 

 

 そんな私の、在職中の暮らしぶりはどのような感じだったのか。

 

 

 

 

 在職中は、趣味らしい趣味など一つもなく、仕事終え一人暮らしのアパートへ帰り、クタクタになりつつ飯を作り食事し風呂に入り洗濯等をし、就寝までの僅か2時間程度をYOUTUBEを見るとかTVゲームをする等して過ごしておりました。

 

 

 

 休日でも、あまり積極的に遠方への外出はせず、近場で買い物をしたり、家でゴロゴロしているという行動パターンが9割を占めておりました。

 

 

 

 なので、自分の内向的な性格や、インドアに偏った生活スタイルは、恐らくニート生活というものに「向いている」側の人間なのかと思います。

 

 

 

 ただ、そんな私でも、やはりこの「あまりにも膨大な自由時間」を持て余してしまうことがチラホラあるのです。

 

 

 

 ヒモニートになって以降、働いていた頃より輪にかけて外出をしなくなり、YOUTUBEを見る時間や各種SNS等をぼんやり眺める時間が劇的に増えました。

 

 

 軽い運動と食事制限をしているため体重はむしろ標準近くまで落ちましたが、体力自体は余っているな~と毎日のように感じます。

 

 

 何というか、乾燥した生活なのです。

 

 

 

 

 デメリット

 働いている頃とは種類の違う不安感

 

 

 ヒモニートであるが故、私が主体でこなさなければならない日常業務というものはほとんどありません。

 仕事をする必要が皆無なのを筆頭に、金銭面から家事全般に至るまで、ある程度は私の思うとおりにコントロールして生活を出来る環境です。

 

 

 ↓参考 ヒモニート生活の記事 ↓

 

 

 彼女に感謝しておりますし、この生活に大きな不服もありません。彼女の性格も中々特殊であるため、本来ならば手伝えることもあえてやらないケースも多いです。

 

 

 

 ただ、当然ながら、人間は何事においても、メンテナンスを怠れば錆びつくのです。

 それは、身体のケアや、仕事に関する能力に限った話ではありません。

 

 

 料理をすること、掃除をすること、運転をすること、文字を書くこと、家計の心配をすること等

 自分の、人間としての基礎的な機能全般は、やはり日々の生活でこなしていかないと錆びついていくのです。

 

 

 

 私はヒモニートになる前は、冒頭にも書いた通り20年程会社勤めをしておりました。

 

 

 

 在職中ずっとアパートでの一人暮らしをしていたので、当然家事や家計管理は自分でこなしていました。

 

 

 

 今は、良くも悪くも、それらの全てを何もしなくても、生活が回っていく状態です。

 

 

 

 これ以上ないくらいにヌルく、怠惰な私が理想と思い、かなえたいと思っていた生活スタイル。そこに関しては、大きな文句などあるはずもありません。

 

 

 

 ですが、たまに自分で料理をしたり文字を書いたりすると、以前は感じなかった違和感を感じるようになったことは事実です。

 

 

 

 アラフォーという私の年代は、ただでさえ「老い」が身体の表面的に内部的にも顕著に表れてくる年代でもあります。

 自分自身の各種機能の衰えに対し、漠然とした不安感が無いと言えば嘘になりますね。

 

 

……

 

 

 とはいえ、ならば以前のように、自分で全てのことをこなすような生活スタイルに戻りたいのかと言われれば、そうは思いません。

 特に、仕事に関してはNOと断言できます。例えば働くとなったとしても、少なくとも雇われで働きたいとは微塵も思わないです。

 

 

 

 なので、彼女から別れを切り出される等して、強制的にこの生活が終わってしまうケースはスッパリ諦めがつきますが、自分からわざわざこの生活を終わらせることは選択しないだろうと思います。

 

 

 

 

理想論

 

 

 

 私は過去記事にしたとおり、今まで生きてきた中で体験してきたことに基づき、自分自身の能力や適正を考えた時に「家族以外の誰かに頼る」という選択肢が最善だろうと結論づけ、結果的に現在のヒモニート生活に至っております。

 

 

 この生活スタイルをとることや仕事を辞めることによるリスク等を考え、自分なりには悩んだ上で、リスク承知で選んだことですので、後悔はありません。

 

 

 

 ただ、それとは別に、本当の、文字通りの「理想論」としての生き方は別にあると、自分で思うところはあります。

 

 

 

 私は元来、アンパンマン等の、いわゆる正義の味方が大好きな子供でした。

 

 

 

 他でもない自分自身が、誰かのために役に立ち、必要とされ、感謝をされる。

 それはとても恰好の良いことで、同時に誇らしいことだと、今だってそう思います。

 

 

 

 在職中の、何か嬉しかった思い出はなにかと問われれば、上位で思い浮かぶのは、自分が一生懸命頑張って誰かの手助けをしたり問題を解決した結果、その誰かから「ありがとう」を言われた瞬間だったと思います。

 

 

 

 そう、わかっているのです。

 

 

 

 誰かに何かを与えずして、少なくとも私の脳にとって、真の意味での喜びは得られないことを。

 

 

 

 自分が「何かを成した」という自意識がある場合でこそ、その行動に対し、何かしら対価・感謝等を得られた時、たまらなく嬉しく感じることを。

 

 

 

 

 人生はギブ&テイクなのです。

 身に染みてわかっています。

 人生は、色々な意味でギブ&テイクです。

 

 

 

 人間の脳とは、めんどくせぇですね。

 この感覚については、恐らく私の脳が特別めんどくさい造りというわけではないと思います。

 

 

 そういった「自尊心」を満たす。

 

 

 私の場合のそれは、理想論を言うならば、人から与えられるばかりなのではなく、人に適度に与えていくことも含めて、ようやく、真の意味で満たされるのでしょう。

 

 

 

 ただ、現実は厳しいです。

 

 

 

 社会人生活の約20年間の間に、嫌というほど自分自身の至らなさや能力不足を痛感しました。当然、それを巻き返すために自分なりの努力はしました。

 

 

 他人から見たら、私のしてきたことなど努力のうちに入らない、と言われる程度のことかもしれませんが、それでも私なりに、努力に割いた時間は多かったつもりです。

 

 

 

 その結果、場面によっては他人にギブ出来る側になれたこともありました。

 

 

 

 ですが逆に、私にギブしてくれる人に、同じ量のテイクを返せる自信は年々無くなっていきました。

 私の能力では、目一杯エンジン全開に頑張って、やっと他人と肩を並べられる程度の成果がほとんどだったからです。

 

 

 

 

 そうです、私は、他でもない自分自身の性能に疲れたのです。

 

 

 

 だから「一般的な生き方」から逃げました。

 理想的な「自尊心」を得ることからも逃げました。

 

 

 

 結果、逃げすぎてヒモニートです。

 わけわからんですね。

 

 

 

 

 

 私は元来、自分自身を見栄っ張りで器が小さい人間だと思っております。

 

 きっと、醜悪なほどに自己愛が超強いのでしょう。自分自身が傷つくということを極度に恐れ、何やかんやと理由をつけて逃げ出そうとする。

 

 なにより、他人より自分が大事でなければ、彼女を消耗品のように使役できる道理はないと思います。

 

 

 

 まじで面倒ですね、脳。

 ロボトミー歓迎ですよ、是非してほしい。

 

 

 

反面教師

 

 

 この記事をここまで書いていて思いましたが、一番のデメリットて「自尊心が満たされないこと」なのでしょうね。

 

 

 偉そうに言えたことではありませんが、それを満たしたければ自分の欠陥に目を背けず立ち向かい続けることです。

 

 

 

 ただ、私はそれをやりません。

 

 

 

 自分の理想論がわかっておきながら、立ち向かう勇気が湧かない。

 能力が足りないという言い訳をして、それを補うための努力もしない。

 

 

 やりたくないことに立ち向かうための心のガソリンは、もう既に枯渇しました。

 

 

 

 …さて、いま、何かに立ち向かっていて上手くいかない人は、是非、限界がくるまではそれを継続してみてください。苦しい時は、是非とも私を反面教師にしてほしい。

 

 

 

 

 何かに立ち向かうあなたを、私は尊敬します。

 それで、もし限界がきたら、ヒモニートしましょう。

 それまでは私を軽蔑し、頑張ってみてください('ω')

 そんな方々を、私は圧倒的に応援しております。