わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。 | 僕の日記

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イエス様が大好きな中島豊です。
神様に教えられている聖書の御言葉と
神様のみわざを綴っていけたらと願っています。

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。マタイ4:19

 

ここ最近、この箇所が僕の心の中に何度もこだましている。昨日、友達と朝ご飯を食べて交わり、聖書を読んで、祈り賛美した。その時に預言をした。聖霊様にお互いに対して語りたい事があるか聞いて分かち合おう!という事でやってみた。

 

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。第1コリント14:1

 

預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。第1コリント14:3-5

 

パウロはコリント教会の人々に御霊の賜物について説明している。そして、パウロは愛を求め、預言をする事を熱心に求めるようにと語っている。そして預言とは、人を育てることばや勧め、慰めであり、人に向かって話し、教会を成長させる。なので積極的に、預言する事を求めていきたいと思う。

それで、お互いのために祈り、聖霊様に預言の言葉をお互いのために与えてくださいと祈ると、その友達が分かち合ってくれた言葉の中に、「神様はあなたを人間をとる漁師として用いるよ」と分かち合ってくれた。その時に、このみことばを思わされたのだった。

 

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。マタイ4:19

 

そして、今日教会の礼拝のメッセージを聞いていたら、牧師先生がまた、同じ箇所を分かち合っていた。

 

わたしについてきなさい。

人間を取る漁師にしてあげよう。

 

と。。。あ、、、

と固まった。本当にイエス様についていきたいと願っている。しかし、イエス様が弟子たちに私について来なさい、と言われた時に、弟子たちは、すぐに網を捨てて従った、と書いてある。弟子たちにとって網とは、何を意味するのだろうか。それは彼らの仕事だった。そして、生活する手段であった。さらに、イエス様についていくとなると、家族も置いて行くことになった。それは、弟子たちにとって、自分の大切にしている全てを捨てて、イエス様について行くことを意味していたのではないかな、と思う。直ぐに従った弟子たちは、神様に用いられていった。この、わたしについてきなさい、という言葉を、僕にも神様に語られてる気がしている。そして、僕にとって網とは何かを考えると、経済的に収入の良い仕事を探す事だったり、大切な人からの評価や、進路選択の判断などを思わされている。どうしてもこれだけは捨てるのは厳しいと思うような、大切なものがある。でも、そのような時にイエス様に、

 

わたしについてきなさい。

 

と言われたら、どうだろうか。

イエス様について行くためには、網を捨てる必要がある。

 

「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」

マタイ16:24 

 

イエス様についてきたいと思うなら、自分を捨てなければいけない。自分を捨てるとは、自分の願いや、自分の夢、自分の計画、自分が大切にしているものもかもしれない。自分の十字架を負うとは何を意味するだろうか。

十字架とは、命を失う刑だ。

イエス様はそこで、自分の思いも捧げ、体を捧げ、時間を捧げ、心を魂を、力を精神を、全てを捧げられた。

そのようにして、父なる神様の御心に従われ、愛のうちを歩まれた。

僕は神様から、日本のために生きるようにと語られている。今まで、宣教師になりたいという夢があった。だけど、大学四年になり、進路の事を祈れば祈るほど、神様が日本で牧者として生きるようにと語られている。

 

わたしの羊を飼いなさい。ヨハネ21:17

 

という、イエス様がペテロに語られた箇所が何度も繰り返し僕の内で響いてる。そして、5月ごろ大学のリトリートのときに、この箇所を語られた。自分の不信仰もあり、すぐには従えなかった。でも、8月の最後の週に行ったリトリートで、祈る中で神様から日本で牧師となる事を思わされた。そして日本のために神様が泣いておられる幻を見た。放蕩息子を待ち焦がれている父親が息子のために涙を流して待っているように、天の父は日本が神様に帰るのを涙を流して待っているイメージだった。その幻を見た日から、日本に対する想いが変わってしまった。深い日本への重荷が、僕の心にのしかかり離さないでいる感じがしている。そして日本を思うと、本当に救ってください!という想いでいっぱいになる。就活を大学3年の秋から始めて、自分の適性を大学のキャリア支援室で調べたりした。そしたら、ミュージシャンや保育士、社長に向いてる、と検査で出てきた。人と接する仕事が向いてるという事だったので、その方面で探していた。三年のときに合同説明会などに2度参加した。でも、説明会に行くたび、絶対このような会社で働きたくないな、と思った。フルタイムで献身したい!と。それから、紹介されてホテル業界のセミナーに行った。楽しそう!と思って、クリスチャンの社長と言われているホテル会社説明会に行った。でも、聞いてみると日曜日は休めないという事だったのでここではないと思った。僕にとって日曜日に教会行くことは本当に大切で、高校生の時アメリカに行ったのだが、日曜日の朝に飛行機が出発だった。その日、教会に行けなくて悲しくて泣いてしまった。なので絶対日曜日休みたかったのでホテルは違うと思った。それから、四年になってから、めっちゃ給料のいい、体育会系のベンチャー起業に行った。そこで入社目的は何か?という事を書く欄を見て書こうとしたら、心に思い浮かんだのが、お金をめっちゃ稼ぎたい!という事だった。でも、それは、僕が一番したくない選択の仕方だった事を思い出した。高校生の時絶対お金のために生きたくないと思った。神様のために生きたいと。だけど、お金を求めてる自分がいて、そのために生きたくないと思い、そこも辞めた。それから、教育関係の会社に行った。すごく楽しそうだった。だけど、日曜日は休めない時もあるという事で辞めた。それから、タリーズコーヒーに行った。そしたら、そこも日曜日休めそうになくて、難しいかなと思った。星乃珈琲も同じだった。サービス業はいいなと思ってカフェを将来全世界に展開したいという夢あったが、待遇面や勤務時間を考えると違うかなと思った。先週は外資系の企業に行ってきた。日曜日休みで、自分の願う条件もかなり揃ってて、仕事内容にそこまでパッションはなかったけれど、素敵な会社だと思った。

そして、今、夜行バスで関西に向かっていて、明後日、リフォーム会社の営業の説明会に行く予定。神様は僕に何を願ってるのだろうか?と思う。牧師に日本でなるという想いがある。そして、その前に社会で働く必要があると感じている。そしてもう1つ、関東で伝道師になるという選択肢もある。僕にとって、この道に進めば、イエス様に従う、イエス様について行く道なのではないかな?とも感じている。しかし、正直その道に進むとなると、自分の中で大切にしているものを失う気がして、一歩踏み出す事が出来ていない。本当に神様は、それを願っているのですか?その道に進みたくないです。というのが、今の心境だ。これを、ゆるしてくださらないでしょうか、と。でも、神様の計画は完璧であり、神様の備えてくださっている道は完全であるという事を知っている。そして、イエス様に信頼しついて行くならば、主は人間を取る漁師として、用いてくださる。僕はイエス様についていきたい。たとえ、失っても、神様はその先に用意してくださってる。十字架の先には、喜びがある。イエス様のように、愛のゆえに、十字架を負って、ついていきたい。このブログを読んでくださってありがとうございます。

ぜひ、僕のために、神の国とその義をまず第一に求めて、自分を捨て、自分の十字架を負って網を捨て、イエス様についていけるように、お祈りしてもらえると感謝です。

 

神様の大きな大きな祝福と聖霊様の親しい語りかけがあり、激しく主がこのブログを読んでくださっている一人一人に臨まれて、恵みと愛が溢れ、平安で満ちますようにお祈りしています😊

 

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。マタイ4:19

 

彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊に捧げられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のないものである。黙示録14:4,5

 

 

「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」

マタイ16:24 

 

「人は、たとえ、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せば良いのでしょうか」マタイ16:26

 

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものは全て与えられます。

マタイ6:33