全身で走る
比叡山で、約7年かけて約4万キロを歩く荒行「千日回峰行」を二度満行した酒井雄哉大阿闍梨が著した「一日一生」(朝日新書)の中に、「足が疲れたら肩で歩けばいい」という題の話がある。
そこには、回峰行の師匠から教えてもらったという大泥棒の話がある。
その大泥棒は、福島県の小名浜から宮城の仙台まで、毎晩盗みに繰り出したという。
(ちなみに小名浜~仙台間の距離をさっき調べたら、ちょうど片道100キロという具合だから、一晩かけて200キロの道のりを走破したという事になる)
しかも、家のものに自分が泥棒である事を気づかれないように、皆が寝静まった夜に出発し、皆が起きてくる朝までに帰ってくるという離れ業を続けていたという。
その後、彼は盗みを働いている最中に女性看護士に背負い投げを喰らい、体力の衰えを実感し、自首するのだが、
彼は「なぜ毎晩長距離をどうやって歩いたのか」と問われたとき、「休み休み歩いているから疲れない」と答えたと言う。
右足が疲れたら左足という風に、体のいろんな部分を交代で意識しながら歩くのだと言う。両足が疲れたら、腰、首、肩に意識を向け、その間に別のところが休んでいるという要領だ。そうすることで、スピードが落ちずにずっと早足で歩けたのだという。
酒井大阿闍梨は、この話を引き合いに、「考えを辛い事に一点集中しすぎちゃうから身を投げ出しちゃう。しんどい所は休ませて違うところに精神を集中させてみると楽しく生きられる」ということを仰っている。
私は、走っているときこの話を度々思い出しては、その時々に応じて身体のさまざまな部位に呼びかけて、まだ疲れていない箇所を見つけては、そこを意識して走るようにしている。
今日は土手を20キロ走った。その間に、例えば今日は側筋に意識を向けて走ることができた。側筋を使うためには、どうしても上体を起こさねばならず、それによって体幹を有効活用できるようになるという恩恵もある。また、側筋と極めて近いが、骨盤を意識して走るというのもある。倒れている骨盤をもう一度起こそうとすることで、体幹を使う事にもつながるし、右足と左足にそれぞれつながっている骨盤の高さを常に一定にさせることで、走るたびに左右に体が傾くのを抑えることができる。すると、左右に分散されてしまっていた運動エネルギーを、推進力に変えることができる。
他にも、肩甲骨を意識したり、肩を意識したり、呼吸を意識したりするなどして、なんとか走りきることができた。
あともう一箇所前頭葉を意識して走ったこともあった。ここを意識する事で何が変わるかは初めはわからずに意識をしてみた。つまり、とりあえず意識を向けてみた。そうしたら、後々になって、自分を鼓舞させるイメージが沸いてきた。それは直接、今走っている事のモチベーションにつながるものだったので、一時的にテンションが上がった。それがブースターのように働いて、ペースが上がった。
走るときはほぼそうやって走ることに意識を傾けるので、今のところは知っている最中に音楽を聴くというようなことはあまり必要性を感じない。ただ、走っている最中に、自然と自分の中から曲が流れてくるというのはある。今だと、ケツメイシの「さくら」なんかがヘビーローテーションだ。
「一点に集中しすぎないで、しんどくなったら他のところに精神を集中させてやればよい」ということで、走っている私はスラムダンクを思い出した。
山王工業戦での湘北チームを一人の人体と捉えてみればよい。
あの戦いはまさにそうした休み休みの戦い方の勝利だと言える。
ルカワは常に沢北と戦っていたわけではない。ルカワは前半にベンチに一度引き下がったりもした。
まだ精神をそこに集中するときではないと見越しての采配だった。
逆に、河田弟が出てきた時には、ここぞとばかりに湘北は桜木で一対一の勝負を挑んだ。
序盤のすっぽんディフェンスで疲れさせられた三井は、中盤ではめっきり息を潜めていたが、終盤に見事に巻き返した。
状況に応じて、意識の集中のポイントを変幻自在に変えていくということは、個人レベルでも組織レベルでも重要だと言えるんじゃないだろうか。WBCの日本チームはまさにそれを体現したとも言える。
「どこに意識を集中させればよいか、どこを休ませるべきか」を見極める力、それは実践を通じて磨かれていくものだと思う。特に、意識を向ける部位というのは、今でこそ骨盤や肩甲骨といった感覚が掴めるが、以前では無意識の中に埋もれていた感覚である。
最近分かってきた感覚といえば、他に肉を食べると下腹部がぽこっと膨らむということである。
肉は消化にものすごいエネルギーを消費し、同時にガスを発生させる。ぽこっとお腹の原因はそのガスが充満したもののようである。そういう意味で肉を食べると、非常に走る時にも不都合であるどころか、日常生活でも問題が起きる。食後に、突然意識レベルが低下するのだ。食後の眠気は安眠とはまったく関係ないという話がある。これは恐らく、43度くらいの風呂に漬かったときの眠気と同じで、両者は単なる意識障害にほかならないからだ。
つまり、肉も43度の風呂も人体にとってはかなりの負荷をかけているもので、決していいものではない。
そういうことで、最近、肉の摂取を意識的に減らしている。
野菜、海藻類、木の実類、きのこ類、穀物、豆類、小魚、果物を積極的に摂るようにしている。
この一週間は断酒もしている。
夜の8時以降には基本的に何も食べない。
おかげさまで、身体が軽い。
さっき観たテレビによると、結婚披露宴や居酒屋での残飯はものすごい多いらしい。
テーブルに食べきれないまま残されたフルコースのお皿が並んでいる。「いやー今日は豪華な披露宴だったなあ」と、ワインで高潮した顔で膨らんだ腹を叩き満足げにしている。
「今日は祝儀をはずんだから元はとらねえとな」と、高価な伊勢海老を堂々と残し、こんなご馳走を残すくらい今日は食べたんだから今日は満足、とでも言いたげ。
消費消費。二人の結婚も所詮、消費。
「今日は割りカンなんだから、頼まなきゃ損。」とばかりにテーブルに乗り切れないくらいの料理と酒が次々と運ばれてくる。
テーブルの上に、大量の皿とグラスと残飯がたくさんあるのを見て、「今日はたくさん食ったなあ」となんだかいい気分になって、「これだけ今日は派手に飲み食いしたんだから、ちょっとくらい金払ってもいいや。今日は使う日だ!」などと思って、気持ちよくお金を払って帰る。
店を出たその脇で、「喰いすぎた気持ち悪~」と、今にも吐きそうな輩。それを介抱する女。そんな何気ないことがきっかけで、私たち結婚する事になりました。つきましては、披露宴ですが・・・・・・
永遠に続く。
ストレスを発散させるために食べていないか。
その発散行為によって、内臓はオーバーヒート寸前の勢いで消化するという「付け」を払わされている。
「日本の緻密で繊細な野球が、あんな力任せのアメリカンベースボールに負けるはずがねーだろ」っていう一方で、食生活が意外とアメリカンだったりして。
走り始めて5ヶ月。こうも人は変わるのね。
比叡山で、約7年かけて約4万キロを歩く荒行「千日回峰行」を二度満行した酒井雄哉大阿闍梨が著した「一日一生」(朝日新書)の中に、「足が疲れたら肩で歩けばいい」という題の話がある。
そこには、回峰行の師匠から教えてもらったという大泥棒の話がある。
その大泥棒は、福島県の小名浜から宮城の仙台まで、毎晩盗みに繰り出したという。
(ちなみに小名浜~仙台間の距離をさっき調べたら、ちょうど片道100キロという具合だから、一晩かけて200キロの道のりを走破したという事になる)
しかも、家のものに自分が泥棒である事を気づかれないように、皆が寝静まった夜に出発し、皆が起きてくる朝までに帰ってくるという離れ業を続けていたという。
その後、彼は盗みを働いている最中に女性看護士に背負い投げを喰らい、体力の衰えを実感し、自首するのだが、
彼は「なぜ毎晩長距離をどうやって歩いたのか」と問われたとき、「休み休み歩いているから疲れない」と答えたと言う。
右足が疲れたら左足という風に、体のいろんな部分を交代で意識しながら歩くのだと言う。両足が疲れたら、腰、首、肩に意識を向け、その間に別のところが休んでいるという要領だ。そうすることで、スピードが落ちずにずっと早足で歩けたのだという。
酒井大阿闍梨は、この話を引き合いに、「考えを辛い事に一点集中しすぎちゃうから身を投げ出しちゃう。しんどい所は休ませて違うところに精神を集中させてみると楽しく生きられる」ということを仰っている。
私は、走っているときこの話を度々思い出しては、その時々に応じて身体のさまざまな部位に呼びかけて、まだ疲れていない箇所を見つけては、そこを意識して走るようにしている。
今日は土手を20キロ走った。その間に、例えば今日は側筋に意識を向けて走ることができた。側筋を使うためには、どうしても上体を起こさねばならず、それによって体幹を有効活用できるようになるという恩恵もある。また、側筋と極めて近いが、骨盤を意識して走るというのもある。倒れている骨盤をもう一度起こそうとすることで、体幹を使う事にもつながるし、右足と左足にそれぞれつながっている骨盤の高さを常に一定にさせることで、走るたびに左右に体が傾くのを抑えることができる。すると、左右に分散されてしまっていた運動エネルギーを、推進力に変えることができる。
他にも、肩甲骨を意識したり、肩を意識したり、呼吸を意識したりするなどして、なんとか走りきることができた。
あともう一箇所前頭葉を意識して走ったこともあった。ここを意識する事で何が変わるかは初めはわからずに意識をしてみた。つまり、とりあえず意識を向けてみた。そうしたら、後々になって、自分を鼓舞させるイメージが沸いてきた。それは直接、今走っている事のモチベーションにつながるものだったので、一時的にテンションが上がった。それがブースターのように働いて、ペースが上がった。
走るときはほぼそうやって走ることに意識を傾けるので、今のところは知っている最中に音楽を聴くというようなことはあまり必要性を感じない。ただ、走っている最中に、自然と自分の中から曲が流れてくるというのはある。今だと、ケツメイシの「さくら」なんかがヘビーローテーションだ。
「一点に集中しすぎないで、しんどくなったら他のところに精神を集中させてやればよい」ということで、走っている私はスラムダンクを思い出した。
山王工業戦での湘北チームを一人の人体と捉えてみればよい。
あの戦いはまさにそうした休み休みの戦い方の勝利だと言える。
ルカワは常に沢北と戦っていたわけではない。ルカワは前半にベンチに一度引き下がったりもした。
まだ精神をそこに集中するときではないと見越しての采配だった。
逆に、河田弟が出てきた時には、ここぞとばかりに湘北は桜木で一対一の勝負を挑んだ。
序盤のすっぽんディフェンスで疲れさせられた三井は、中盤ではめっきり息を潜めていたが、終盤に見事に巻き返した。
状況に応じて、意識の集中のポイントを変幻自在に変えていくということは、個人レベルでも組織レベルでも重要だと言えるんじゃないだろうか。WBCの日本チームはまさにそれを体現したとも言える。
「どこに意識を集中させればよいか、どこを休ませるべきか」を見極める力、それは実践を通じて磨かれていくものだと思う。特に、意識を向ける部位というのは、今でこそ骨盤や肩甲骨といった感覚が掴めるが、以前では無意識の中に埋もれていた感覚である。
最近分かってきた感覚といえば、他に肉を食べると下腹部がぽこっと膨らむということである。
肉は消化にものすごいエネルギーを消費し、同時にガスを発生させる。ぽこっとお腹の原因はそのガスが充満したもののようである。そういう意味で肉を食べると、非常に走る時にも不都合であるどころか、日常生活でも問題が起きる。食後に、突然意識レベルが低下するのだ。食後の眠気は安眠とはまったく関係ないという話がある。これは恐らく、43度くらいの風呂に漬かったときの眠気と同じで、両者は単なる意識障害にほかならないからだ。
つまり、肉も43度の風呂も人体にとってはかなりの負荷をかけているもので、決していいものではない。
そういうことで、最近、肉の摂取を意識的に減らしている。
野菜、海藻類、木の実類、きのこ類、穀物、豆類、小魚、果物を積極的に摂るようにしている。
この一週間は断酒もしている。
夜の8時以降には基本的に何も食べない。
おかげさまで、身体が軽い。
さっき観たテレビによると、結婚披露宴や居酒屋での残飯はものすごい多いらしい。
テーブルに食べきれないまま残されたフルコースのお皿が並んでいる。「いやー今日は豪華な披露宴だったなあ」と、ワインで高潮した顔で膨らんだ腹を叩き満足げにしている。
「今日は祝儀をはずんだから元はとらねえとな」と、高価な伊勢海老を堂々と残し、こんなご馳走を残すくらい今日は食べたんだから今日は満足、とでも言いたげ。
消費消費。二人の結婚も所詮、消費。
「今日は割りカンなんだから、頼まなきゃ損。」とばかりにテーブルに乗り切れないくらいの料理と酒が次々と運ばれてくる。
テーブルの上に、大量の皿とグラスと残飯がたくさんあるのを見て、「今日はたくさん食ったなあ」となんだかいい気分になって、「これだけ今日は派手に飲み食いしたんだから、ちょっとくらい金払ってもいいや。今日は使う日だ!」などと思って、気持ちよくお金を払って帰る。
店を出たその脇で、「喰いすぎた気持ち悪~」と、今にも吐きそうな輩。それを介抱する女。そんな何気ないことがきっかけで、私たち結婚する事になりました。つきましては、披露宴ですが・・・・・・
永遠に続く。
ストレスを発散させるために食べていないか。
その発散行為によって、内臓はオーバーヒート寸前の勢いで消化するという「付け」を払わされている。
「日本の緻密で繊細な野球が、あんな力任せのアメリカンベースボールに負けるはずがねーだろ」っていう一方で、食生活が意外とアメリカンだったりして。
走り始めて5ヶ月。こうも人は変わるのね。