逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯 -21ページ目

逢茶喫茶σ(・ε・`)逢飯喫飯

A Counterpoint of the Formless Self and the Omnipotent

[ まとめ ]


強迫性障害 (OCD: Obsessive Compulsive Disorder)とは、


自己の判断力に対する不安や懐疑によって生じる精神障害 である。


よって、症状を克服するためには、判断の主体性を取り戻す訓練が必要となる。


(※なお、この記事は投薬治療を否定するものではない)


---------------


[本文]


あることが正しいということは、どのようにして判断されるのだろうか。


まず、何かの基準を参考にして決めるとしよう。


では、その基準が正しいという判断は、いかにして判断されるのだろうか。


例えば、周囲の人々がその基準を承認していることを判断材料としよう。


では、「周囲の人々による承認が正しさを保証する」という判断は、


果たしていかにして判断されるだろうか…。



こういった思考実験は無限に続けることが出来る。


結局のところ、ある物事に対する正しさを決定する究極的な要因は、


自己の判断力に他ならない。


(※カール・ポパー が帰納的思考の妥当性を否定したことに似ている)



強迫性障害の患者は、自らに生じた不安感を払拭するために


何らかの「完全な確証」を求める。


手が不潔かどうか。鍵を閉めたかどうか。人を車で撥ねてしまっていないか。



しかし、そういった物事に対する完全な確証は存在し得ないし、


その「確からしさ」を強迫行動や、他者や医者といった自己の外部に求めても、


最終的には自己判断が迫られることには変わりない。



つまり、OCD 克服の本質は、物事に対する判断の主体性を取り戻すことにある。


この考え方は生理学的にも正しい。



実際、強迫性障害に罹患している状態の脳は、


物事の判断に関わる部位(※線条体帯状回 など)が異常興奮しやすく、


一度興奮し始めると容易には安静状態に移行しない。


つまり、脳は判断の確定を求めているにも関わらず、保留状態がループしてしまっている。


この状態を「脳に鍵がかかった状態(Brain Lock )」と呼ぶ専門医もいるほどだ。



この凝固状態を解きほぐすには、前頭葉 (※意識的な行動を司る部位)の補助を借りて


不毛な判断の堂々巡りを主体的に脱するしかない。


すなわち、「自らの意思で主体的に判断する」という行為を繰り返すのだ。



自動操縦機能が弱まった部位を手動で動かし続けることは、


凝り固まった歯車に潤滑油を注す行為に似ている。


意識的な主体的判断を繰り返していくうちに、本来備わっている機能が回復していくのだ。


これを観念的に表現すれば、判断の主体性を再確立することに等しい。

Wikipedia における「実存主義 」の項目を読んでいて気付いたんだけど、


概念説明が再帰的な文章になっていて、意味を成していない。


以下に引用してみる。


---------------------------------------------------------------------------------

実存主義(じつぞんしゅぎ、英: Existentialism )とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。

---------------------------------------------------------------------------------


この文中の「実存」に内部リンクが張ってるんだけど、


そのリンク先が「実存主義」にリダイレクトされている。



つまり、「実存主義とは人間の実存(=実存主義)を哲学の中心におく」


…と説明になっていない。「カバとは動物のカバのことである」みたいな文章。



さて、「実存」というのは多義的だから端的な説明をするのが難しいけど、


要するに、「本質(essence)」と対比される「存在(existence)」の中で


人間について述べたものが「実存」と言えるんじゃないかと思う。



英語やドイツ語では「実存」も「存在」も同じ existence/Existenz だから、


あえて両者を分けて考えるのは、


日本特有の翻訳文化が生み出した悲喜劇と言えるのかもしれない。



でも、同じ Wikipedia でも「本質 」の説明はまともだから、


きっと実存哲学をやってる連中の程度が低いんうわなにすんだくぃkrぽえわfdsg



ということで、実存主義とは、「人間はかくあるべき」という地点ではなく、


「人間は(実際に)こうである」という地点から哲学を出発しよう、という考え方なんだね。


「理想的な人物像」よりも「生身の人間」が


「上意下達」よりも「現場の積み上げ」が大事だよってわけだ。



これを AKB48 を用いて説明すると、


「アイドルは天使のように可愛くなければならない!」 という原則論から、


「AKB48 はアイドルと言えるのだろうか?」 という議論をするよりも、


「実在するアイドルの平均的な顔面偏差値ってどうよ?」 という実態論から、


「AKB48 はどのくらいアイドルと言えるのだろうか?」 といった議論をしよう、


みたいな感じでしょうか。いや、何かちょっと違う気もするなあ 笑

このブログも含め、大抵のブログは「自分語り」を主な内容としている。


そして、そういったブログに書き込まれるコメントは、


本文の一部を反復するだけのヤマビコ型コメントか、


本文とはまったく無関係な主張を書き捨てるオレオレ型コメントである。



例えば、こんな記事があったとする。


「今日はカレーを食べました。夏なので夏野菜を入れてヘルシーです☆(写真)」



こういった内容に付くコメントと言えば、


「夏野菜のカレーを食べたんですか。美味しそうですね(^ω^)」


「夏野菜ってヘルシーですよね(>///<)」


といったヤマビコ型コメントや


「夏になると無性にスイカが食べたくなるよ(゚∀゚)」


「昨日は雨がスゴかったですが、大丈夫でしたか?」


といったオレオレ型コメントだ。



ヤマビコ型もオレオレ型も無内容という点では同じで、


単に「ブログをみてますよ」という意思表示のためだけに書き捨てられる。


いわば、文字の廃棄物である。



そこにコミュニケーションはなく、


短文を通した自己存在の再確認だけが空虚に連なっている。


それは自己再帰的な会話であり、統合失調症患者の一人会話に似ている。


野球で喩えれば、キャッチボールではなく、壁当てだ。


すなわち、ブログを介したコミュニケーションに実体はない。



この考え方を敷衍すると、


ネットにおいて実体的なコミュニケーションは存在しない。



いや、私たちは確かにコミュニケーションしているように感じる。


しかし、それは相互にコミュニケーションしている


と誤解し合うことによって生じる幸福な錯覚に過ぎない。



あるいは、次のように言い換えることも出来る。


もしネットを介した人間同士の関わり合いをコミュニケーションと呼ぶのなら、


人工無脳 との空虚な会話もコミュニケーションと呼べる。


人工無脳との会話をコミュニケーションと呼ばないのならば、


ネット上にもまた、コミュニケーションは存在しない。

トビイロケアリの羽蟻が大量侵入してきたと思ったら、


次は紙魚(※シミという名前の小さな昆虫)が足首に纏わり付いていた。


一瞬、死を覚悟した。自殺的な意味で 笑



今年の夏は、ちょっと部屋の中で昆虫と遭遇し過ぎじゃないかと思う。


個人的にクモはまったく怖くない。蚊も問題ない。


だけど、それ以外の虫はご遠慮願いたい。



虫たちだって生存本能に操られた哀れな存在に過ぎないことは分かるんだけど、


こちらとしても遭遇したからには退治せざるを得ない。


我々と彼らは決して出遭ってはいけない間柄なのだ。



ところで、紙魚の予防法は湿気を溜めないことだという。


恐らく今日は気温が低かったのでエアコンをかけておらず、


また雨が降り続いていたので、部屋に湿気が籠もっていたのだろう。



ここでスキンケアとかけまして、昆虫のシミと解く。その心は?


乾燥が大敵です。

ある日、一人のお坊さんが団子屋の店先で草団子を食べていた。


すると、どこからともなく無骨な野武士が現れ、お坊さんに尋ねた。



「拙者、故あって諸国を放浪している者だが、ちとお尋ねしたいことがある」



ところが、お坊さんは返事どころか、男を気に掛ける素振りもない。


そんな態度が気に入らないのか、野武士はわざとらしく大袈裟に咳をして続けた。



「拙者は剣に生きる者として、死んだらどうなるのか心配で仕方がないのだ。


 そこでひとつ、地獄と極楽とはどんなものなのか、お教え願いたい」



だが、お坊さんはあくまで無関心な態度を崩さず、黙々と草団子を頬張る。



「どうか、この通りだ。拙者のような無学な男に知恵をお授け下され」



野武士は頭を垂れて教えを請う。その姿を見て、お坊さんが初めて口を開いた。



「武芸者の分際で死後のことなぞ気にかけるとは、呆れたものだ。この腰抜けが」



この辛辣な言葉に腹が据えかねたのか、野武士は腰に下げた刀の鞘に手をやって叫んだ。



「人が下手に出ればいい気になりおって、クソ坊主がッ! すぐ謝れ! 謝らなければ切って捨てる!」



野武士の激しい剣幕にも関わらず、お坊さんは微塵も動じることなく、団子の残りを口の中に放り込む。



「おのれ、もう勘弁ならぬぅ! 死んで詫びろ!」



野武士は素早く刀を抜くと、大上段に構えた。


その顔は茹蛸のように紅潮し、額には薄っすらと汗が滲んでいる。


興奮のあまり、呼吸は激しく乱れ、ささくれ立った唇が微かに震えていた。



「これで最後だ。どうだ、謝る気はないか」



お坊さんは団子をゆっくりと飲み込むと、野武士を一瞥して微笑んだ。



「何を笑っておるのだ! もう許さんぞッ! 死ねぇい!」



野武士が頭上高く掲げた刀身を振り下げようとしたその瞬間。



「それが地獄じゃよ」



お坊さんが穏やかな声でそう言い放った。


野武士は口を開けたまま硬直し、やがて刀が重過ぎるとばかりに膝から崩れ落ちる。


そして、握った刀を脇に放り投げ、お坊さんの足元に擦り寄って深々と土下座した。



「あ、いや…拙者、何と申すべきか皆目見当が…」



お坊さんはゆっくりと腰を落とし、野武士の肩に手を置いた。



「それが極楽じゃ」