桜咲く鹿児島の特攻基地(知覧・鹿屋)を訪ねて | 日暮し三昧

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 令和6年の4月2日~4日にかけて鹿児島にある特攻基地の知覧と鹿屋を訪ねた。かねてから特攻の母と呼ばれ知覧の冨屋食堂で特攻隊員に慕われた鳥浜トメの物語に感動して訪れてみたかった。

 

 もう一つの鹿屋は海軍の特攻基地で陸軍の知覧よりも多くの隊員が亡くなっているがトメさんのような物語が聞こえてこないのは何故か自分でも確かめてみたかった。

 

    鹿児島地図

 

【4月2日 鹿屋特攻基地】

2日の朝、8時10分発の中部国際空港から9時30分着の飛行機で鹿児島空港に降り立つとすぐレンタカーで鹿屋の特攻基地に向かった。

    鹿屋旧特攻基地跡地図

 

 

 1時間20分ほどで鹿屋の市街地に着いたがナビの案内が不確かでコンビニのおじさんに教えてもらい特攻も含む旧海軍の歴史が大量に展示されている「鹿屋航空史料館」に12時前に入館した。

 

 海上自衛隊の案内係の女性隊員に館内を1時間案内してしてもらった。館内には鹿児島の誇る日露戦争の東郷平八郎や零式艦上戦闘機、空母「赤城」の模型などが所せましと並んでいた。

 

 海軍兵士が使っていた航空帽や航空手袋などは80年近くも前の物とは思えない生々しさが昨日のことのように伝わってくる。

 

 

 

 

  これらの海軍の歴史展示物の他に特攻隊員の遺影、遺書、遺品が大量に展示されているが撮影禁止となっているのでここでは紹介できません。

 

 疑問であった鹿屋の特攻基地の跡は現在海上自衛隊の鹿屋航空基地となっていて知覧のような隊員がいた宿舎や食堂などが残されていないのは基地周辺の市街化が原因であった。

 

 知覧のような名物女将のエピソードは見つからなかったが特攻基地近くの「検見崎食堂」で隊員が地元の名酒「桜川」を飲み笑った記録があるようだ。

 

 ただ一つ作家の川端康成が昭和20年の4月から1か月間だが海軍報道班員として鹿屋の特攻基地に赴任した時、うら若き特攻隊員の強烈な生と死に出会い特攻体験を身をもって感じた。

 

 その時のエピソードや特攻に関する作品を作家「多胡吉郎」の「生命の谺(いのちのこだま)」から紹介する。

 

 

 ①理髪店のHさんへの憧れ

 鹿屋駅前で理髪店を営む器量よしで三十前の女盛りのHさんは年下のCちゃんと共に奉仕活動として隊員の頭を刈り取っていた。

 

 頭を刈るときHさんの脇から丸い胸のふくらみが覗き恋もしたことのない隊員にとっては刺激的であった。まさに死を前にした性への飽くなき証であった。

 

②特攻を題材にした作品

 川端康成の特攻を題材にした作品は二つあり生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきが書かれている。

 

 「生命の樹」と「虹いくたび」で後者の「虹いくたび」では出撃を前にした特攻隊員が愛する女性の乳房から石膏で型をとり、別れの水盃用の銀杯を作った。

 

 遊郭の女とは違う乳房への憧れ、つまり母親にも通じる純愛を表した作品でもあった。

 

 

【4月3日 知覧特攻基地】

 2日の午後は鹿屋から高速で知覧まで移動したが天気も悪くナビの不具合で時間を要した。

 

 「知覧特攻平和会館」には夕方着いたが雨で視界が悪いので知覧の特攻の遺跡巡りは3日の朝からにした。

 

   知覧特攻施設地図

 

   知覧特攻平和会館

 

 2日の夜は特攻の母トメが始めた冨屋旅館三代目の女将の鳥浜初代さんの冨屋旅館に泊まった。

 

 宿では食事が出きないので紹介された知覧の町内にある居酒屋「かん太」に入った。

 

 店主は忙しそうで不愛想であったが料理はとても美味しく海老天や湯豆腐、タコの刺身や焼き鳥をたらふく食べた。酒は黒いさ錦のロックが300円と安価で料理もお値打ちであった。

 

    居酒屋「かん太」

 

 

 ほろ酔いで宿へ帰る道すがら生暖かい夜風を感じながら特攻隊員が出撃前に飲み、知覧の町からどんな気持ちで帰ったのかと考えると切なくなった。

 

 翌朝、冨屋旅館の裏にある特攻隊員がくつろいだ離れの前には戦時中の空気が漂い80年前にタイムスリップしたような感じにとらわれる。

 

 その離れでの朝食中には語り部をされている初代さんの息子さんがトメのお話をしてくださいました。

 

   冨屋旅館離れの館

    離れ

 

 朝食のあとはトメ観音堂にお参りしてから知覧特攻の遺跡を巡った。車ですぐの所に「知覧特攻平和会館」や「灯ろう」「特攻平和観音堂」や「三角兵舎」はまとまっていて歩いても充分見て回れる。

 

    石灯ろう

   特攻平和観音堂

 

桜の花が舞い散るこの石灯ろうには知覧以外の出撃者も合わせて千二十八柱の御霊がまつられている。

 

 

 

 粗末な三角宿舎には隊員の寝泊まりをした小さな布団(毛布)が所狭しと並べられていた。

 

 知覧特攻平和会館には飛行機もろとも敵艦に体当たりした特攻隊員の遺影、遺書などが大量に展示されているが撮影を禁止されている。

 

 しかしその他の特攻機などの展示物は許されていた。

 

    遺品室

 

 

   米空母に突入した戦闘機

 

【特攻の母 鳥浜トメ】

 

 この本の特攻隊員に囲まれた人が隊員に「おかあさん」と呼ばれて愛された冨屋食堂の女将「鳥浜トメ」である。

 

 

 

 トメは出撃前の隊員に好きな食べ物を何でも言わせて与えていた。トメは金が無くなると自分の着物を売ってでも隊員の食べ物を用意していた。

 

 夜遅くまで隊員を飲ませているトメは幾度も憲兵にとがめられた。トメは憲兵に「死に行く者に門限が何ほどのものか」と食ってかかり何度殴られても夜遅くまで隊員への飲食を提供し続けた。

 

 ここではトメの次女、赤羽礼子の書いた「ホタル帰る」にある沢山のエピソードのうち涙無くして読めない3人の隊員のエピソードを紹介する。

 

①ホタル帰る(宮川三郎軍曹)

 

 出撃前夜、近くの小川で飛んできたホタルを見て宮川はトメに「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」と言い残して帰っていった。翌日の夜、大きな源氏ボタルが店に入ってきた。

 

 それを見て「宮川さんが帰ってきたよー」と叫ぶ娘の声がした。その後、トメ達は行き遅れた隊員と共に涙を流して「同期の桜」を歌った。

 

②アリランを歌った特攻兵(光山文博少尉)

 

 

 トメが可愛がっていた光山が出撃前夜、自分は朝鮮人だと告白した。光山は祖国のためにトメや娘達と一緒にアリランを泣きながら歌った。

 

 戦後50年も経って韓国のテレビ局の取材班が「アリランを歌った特攻兵」を探したことから光山のことが親族に伝わった。

 

③白いパラソルで見送った母(南部吉雄少尉)

 

 出撃の時、一機の飛行機から赤いテープが吹き流しのように流された。南部の飛行機であった。

 

 その時白い着物を着た母親は大空に向けて白いパラソルを大きく左右に降った。連れ子であった可愛い息子のために母が選んだ最大の別れの挨拶であった。

 

 その後も毎年のように南部の両親は息子の好物であった甘納豆を持参して冨屋を訪ねてきた。

 

【知覧から鹿児島市内へ移動】

 

 知覧特攻平和会館には遺書を真剣に読む女子高校生達を横目に見ながら余りに膨大な史料を見るのに疲れて午後からは鹿児島市で3日の夜宿泊するプラザホテル天文館に落ち着いた。

 

 

【4月4日 鹿児島市内観光】

 

 鹿児島市内は朝から今にも泣きだしそうな天気であったが折角鹿児島まで来たからには市内観光をと鹿児島駅からシティーバスに乗って城山、鶴丸城跡、仙厳園へと訪ねた。

 

 

 

 島津光久によって築かれた壮大な庭園のある島津家の別邸である仙厳園はインバウンドでややもすると外国かと思うほど外人が多かった。

 

 あいにくの天気で桜島は見えなかったが必見の価値のある場所である。

 

    晴天時の桜島と仙厳園

 

【あとがき】

 

 改めて特攻隊の歴史を振り返ると昭和19年10月の「レイテ沖海戦」で日本軍はもはや勝ち目が無く最小の武器で敵の艦隊を撃沈する戦法として「神風特別攻撃隊」が生まれた。

 

 敷島隊の戦闘機がフィリピンで空母「セントロー」を体当たりで撃沈させ思いがけない成功体験から常道の戦法となってしまった。

 

 特攻隊の発案者は本土決戦の急先鋒で海軍司令官の「大西瀧次郎」でまさに人命軽視の作戦であった。

 

 しかし出撃した特攻隊員たちは皆、母を思い、愛する妻や恋人を思って日本の未来のために昇華していった平均21歳の若者たちであったことだけは忘れないほしい。

 

 最後に鹿屋から出撃された隊員908名と知覧から出撃された隊員402名の英霊よやすらかにと祈るものである。