3から8へ(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日15日は、2015年、新曲「Road of Resistance」が正式名称となり、トレーラーが公開され、2018年には神バンドのギタリスト、小神様こと藤岡幹大氏が享年36歳にて逝去されました。

 

2018423日に行われた追悼ライブ『My Little GodDVDに封入された冊子によると、15日夜、容態が急変して逝去された後、18日に通夜が行われ、MI Japanの講師たち、彼とともに音を奏でた沢山のアーティスト、ミュージシャンが多数参列。

19日には告別式が行われ、訃報を一般公開したとなっている。

ぼくらがツイッターで知ったときには、すでにお葬式が終わっていたのだ。そしてトラブルで中止された『藤岡幹大のお誕生日会』ライブの予定だった119日にCLUB CITTA’での追悼ライブの日程が発表された。

あれから1年。

メタル銀河の彼方から、本当の神様になった藤岡幹大はきっと新生BABYMETALの歩みを見守っている。

 

東方へ行った聖トマスとは反対に、聖パウロによって西方ローマに伝道され、帝国の国教になったキリスト教は、教義を巡ってしばしば内部対立が起こった。

非キリスト教信者にとってはどうでもいいが、当事者にとって教義の相違は、教会内の権力闘争を含む重大問題なのである。

最初の公会議は325年に行われた第一ニケア公会議で、このときには、キリストは単独で神であるとするアリウス派と、父ヤハウェ・御子イエス・聖霊が一体・同質であるとするアタナシウス派が対立し、結果、後者が選ばれて、三位一体の教義「ニケア・コンスタンチノープル信条」が採択された。これは現在でもカトリックのミサで唱えられる。

次に問題となったのは、聖母マリアを巡る論争だった。

アレクサンドリア総主教のキュリロスがイエスの神性を強調したのに対し、コンスタンチノープル大主教ネストリウスは、イエスは神の御子だが「人間でもある」から、マリアを「神の母」と呼ぶのは間違いで、「キリストの母」と呼ぶべきであると主張した。

西暦431年、東ローマ皇帝テオドシウス2世は、この対立を解消するために、トルコ西部のエフェソスで公会議を招集した。かなり攻撃的な性格だったキュリロスは公会議を強引に主導し、ネストリウスを異端として破門してしまった。

イエスの母マリアを巡っては、現代でもカトリックは「神の母聖マリア」と呼び、無原罪で生まれたとしているのに対し、プロテスタント諸派の多くは、あくまでも人間であり、神格化するのはおかしいと考えており、その点ではネストリウス派に近い。

キュリロスによって破門されたネストリウスの弟子たちは、東ローマ帝国領を離れ、内陸アジアへと布教していった。

5世紀、東ローマ帝国と対立していたササン朝ペルシア(現在のイラク~イラン)の皇帝は、彼らを手あつく保護したため、ペルシア領内に多くのネストリウス派キリスト教徒の共同体が作られた。

498年には、首都クテシフォンに新しい総主教が置かれた。これがアッシリア東方教会の始まりである。

ちなみに、SU-METALが生まれる3年前の1994年、1500年の時を経て、ローマ・カトリック教会の教皇ヨハネ・パウロ2世とアッシリア東方教会総主教マル・ディンハ4世は、『キリスト理解におけるカトリック教会とアッシリア東方教会の共同宣言』に調印し、互いを尊重することを誓った。

7世紀に入るとアラブ人のイスラム教が勃興する。

644年には二代目カリフのウマルが、ササン朝皇帝の親征隊を破り、ササン朝の領土はそっくりサラセン帝国(イスラム国)の領土となってしまった。サラセン帝国では、マホメットの教えを信奉しないキリスト教徒たちは「啓典の民」として扱われた。

旧約聖書にはアラブ人の祖イシュマエルが、ユダヤ人の祖アブラハムの妾の子だったという記述があり、イスラム教は旧約聖書を認めているのである。そのためキリスト教徒は迫害こそ受けなかったが、宗教税を納める義務を課されたため、サラセン帝国を脱出して、さらに東へ、インドや中央アジアや唐へ向かった。

南西インドのマラバール海岸(コーチン周辺)に渡ったグループは、前述したチェンナイのユダヤ人共同体=聖トマス派キリスト教徒と合流したといわれる。

また、中央アジアにあった「弓月」にユダヤ人共同体があったとすれば、時期的なことを考えると、サラセン帝国から脱出したネストリウス派キリスト教徒の受け皿になった可能性が高い。

そしてその一部が、「弓月」と戦っていた唐に到達した。

いやむしろ、唐に敗れた「弓月」の人々が、帰順して唐の領内に入ったというのが正確なところではないか。前回引用した『資治通鑑』では、しばしば「弓月」が帰順したという記述があるからだ。

そして、782年には唐の都長安(西安)に、「大秦景教流行中国碑」が建立される。

景教とは、ネストリウス派キリスト教のことであり、この碑には使徒70人の名前と景教伝来の経緯が刻まれている。

それによると、唐の貞観9年(635年)、アッシリア東方教会の阿羅本という宣教師が、首都長安へ入った。当時、唐は外国人の来訪を歓迎していたため、宰相の房玄齢が長安郊外まで出迎えたという。

貞観12年(638年)には、太宗が教会建設の資金を提供し、大秦寺が建立された。高宗時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に教会を建てるよう詔勅が下され、ネストリウス派キリスト教=景教が唐の領内に広まったという。

これが物証であり、エフェソス公会議以降のネストリウス派キリスト教が、ササン朝ペルシアを経て、中央アジアから当時国際的な広がりを持っていた唐王朝に伝わり、景教と呼ばれて流行した道筋がはっきりわかる。

なお、同時期に唐に留学していた日本の僧空海が、景教を学んだ形跡があり、その縁から現在、高野山金剛峰寺の域内に、この「大秦景教流行中国碑」のレプリカがある。

ただ問題は、7世紀初頭にササン朝ペルシアのアッシリア東方教会の信徒たちが、イスラム勢力から逃れて中央アジアの「弓月」に入り、さらに中国まで到達した可能性が高いとしても、『日本書紀』応神紀の283年に日本へ渡来したとされる秦氏の祖「弓月の君」とは、時代が違い、直接結びつかないということだ。

何の話をしているかというと、BABYMETALの秘数3が、今年から秘数8になるという話だった。

キツネ様=稲荷神の総本社伏見稲荷大社を創建した秦氏は、八幡神社の総本社、宇佐八幡大神宮にも関係している。

稲荷神社と八幡神社は、日本の神社の数を種類分けしたとき、ダントツの1位&2位である。そして、神道や日本神話、さらには、日本語や日本文化そのものにさえ、ネストリウス派あるいは原始キリスト教の影響と思われるものがある。それはこれらの神社に関連した秦氏が景教徒だったと考えるとつじつまが合うのである。

お稲荷様が三狐の神であり、キツネサインが景教の三位一体=秘数3を表すとすれば、八幡、八坂、八雲、八尺瓊勾玉、八咫烏、八咫鏡など、秘数8にもまた秦氏が深く関わっている。

だから、BABYMETALの新しい神話は、秘数3を否定するのではなく、自然に秘数8へと拡張できるのである。

(つづく)