3から8へ(4) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日16日は、2013年、NHK「ミュージックジャパン」でPerfumeと共演し、Kawaii girl Japanに出演して、世界征服を明言。2017年には、RED HOT CHILI PEPPERSUSツアーに帯同することが発表された日DEATH

 

今年2019年、430日に平成天皇が譲位され、51日に新天皇が即位する。

即位に当たっては、宮中でさまざまな儀式が行われる。

これを「政教分離原則に反する」とか言って毛嫌いする人があるが、そういう人はなぜ近代の人権思想の中で政治と宗教を切り離したのか、理解していないことが多い。

政教分離とは信教の自由を政治的弾圧から守るための原則である。その原点は異なる宗教への理解と尊重である。日本文化に根づいた神道を尊重したり、面白がったりできない人に、政教分離を語る資格はない。もっともそういう人は、たいてい頭から天皇制を否定したいだけなのだが。

さて、即位の際、宮中では「賢所大前の儀」が行われる。

「賢所」(かしこどころ)とは宮中三殿のひとつで、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)が安置してある場所のことである。

宮中三殿には、「賢所」のほかに、神武天皇以来の天皇・皇族の霊が祀られている「皇霊殿」と、八百万の神が合祀された「神殿」がある。

「神殿」は、もともと「八神殿」といい、天皇を守護する八柱の神が祀られていた。

その神々とは、

第一殿    神産巣日神(かみむすびのかみ)     

第二殿    高御産日神(たかみむすびのかみ)

第三殿    玉積産日神(たまつめむすびのかみ)

第四殿    生産日神(いくむすびのかみ)

第五殿    足産日神(たるむすびのかみ)

第六殿    大宮売神(おおみやのめのかみ)

第七殿    御食津神(みけつかみ)

第八殿    事代主神(ことしろぬしのかみ)

の八柱である。

神道では、『古事記』に最初に現れる天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱を「造化三神」といい、世界を創生した神々であるとする。

八神殿には、第一殿に神産日神、第二殿に高御産日神がいて、天御中主神の名がないが、実は第三殿の玉積産日神、第四殿の生産日神、第五殿の足産日神の三柱に分かれているのがそれである。つまり、第一殿から第五殿までの5柱で造化三神を表しているのである。

第七殿の御食津神はみけつ=三狐の神ウカノミタマだからキツネ様だ。ちゃんといますね。

第六殿の大宮売神はキツネ様のお母さん、別名ダンスの神、アメノウズメである。

第八殿の事代主神は大国主命の息子で、素戔嗚命の孫にあたる。言霊を司る神である

お気づきかもしれないが、大宮売神は素戔嗚命の妻、御食津神は素戔嗚命の娘、事代主神は素戔嗚命の孫。つまり第六殿から第八殿はすべて素戔嗚命の縁者である。

だが、ここには日本神話の主役で、天孫族=天皇家の祖である天照大神がいない。

それは、「賢所」に安置してある八咫鏡が、天照大神の憑代だからということなのだが、実は宮中の八咫鏡はレプリカ(形代)であり、本物は遠い伊勢神宮に置かれたままである。

東方キリスト教で日本神道を説明するプロテスタントの牧師/研究者の久保有政氏は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の造化三神を、天の父ヤハウェと御子イエスと聖霊の三位一体を表しているとする。

そして、御子イエスを表す高御産巣日神こそ天照大御神であり、アマテラスが女神であるという属性は、あとから加わったものだという。

なぜそう断言できるのか、はっきりとはわからないが、八神殿に天照大神がおらず、遠く離れた伊勢の内宮に鎮座したままであるというのは確かに不自然である。外宮の豊受大神=御食津神=ウカノミタマはちゃんといるのに。

もし久保説のように、造化三神の高御産巣日神が三位一体の御子イエスであるとすれば、神には性別がないのだから、男神でも女神でもどちらでもよいことになり、天照大神でもあるという説に矛盾はなくなる。SU-METALイケメン説ですね。

それはともかく、確かに天照(あまてる)という名がつく男性神もいる。

「聖徳太子」のブレーンとして、6世紀後半から7世紀前半にかけて政権中枢にいた秦氏の族長、秦河勝は、601年に木嶋坐天照御魂神社(京都府京都市右京区太秦)を創建している。

この神社は養蚕、機織りを生業とした秦氏らしく「蚕の社」ともいわれ、不思議な三柱鳥居や、元糺之池(もとただすのいけ)がある。

天照御魂(あまてるみたま/あまてるみむすびのかみ)という神は、女神の天照大神ではない。この神社の主祭神は天御中主神であるが、「御魂」を「みむすび」と読むところから、天照御魂はその別人格=三位一体の神、高御産巣日神&神産巣日神とも考えられるのだ。

つまりここに祀られているのは、造化三神=三位一体の神なのだ。そう考えると、神社なのに三本鳥居があるのは父--聖霊の三位一体を表し、元糺之池は洗礼に使われたのだと思えてくる。

もっとも伊勢神道では、天御中主神は豊受大神だという伝承もあるらしく、そうなるとこの神社は、ウカノミタマを祀る稲荷神社の先駆的存在ということになる。

秦河勝が次に創建したのは、蜂岡寺(のちの広隆寺)だが、ここには、前述したように国宝弥勒菩薩半伽思惟像があり、親指と薬指をつけたキツネサインの印を結んでいる。これは、アッシリア東方教会のイコンに見られるキリスト教の三位一体を示すハンドサインである。つまり、この寺は仏教ではなく、景教の寺だったのだ。

秦河勝は、推古天皇3年(644年)駿河の国に遠征したあと、赤穂の坂越に隠棲し、その地で亡くなったとされ、647年ごろ創建された大避神社(おおさけ)に祀られた。

この「大避」の元の字は「大闢」で、音読みするとダヴィとなり、ダビデを表すという説もあるが、これはどうだろうね。

だが、確かにこの神社には、異様な胡王面があり、社伝では、河勝が弓月国から持ち来ったもので、智天使ケルビムを表すとされている。

一方、族長が引退した後、平安京に残った秦一族の秦忌寸都理(はたのいみきとり)は、701年に松尾大社を創建する。

祭神は、大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと、別名市杵島姫命)。この2柱は素戔嗚命の孫と娘だ。大山咋神は、キツネ様=宇迦之御魂大神の弟である大歳神の子、市杵島姫命は天照大神と素戔嗚命との誓約による宗像三女神のひとりで、SU-が生まれた広島の厳島のことだからである。

松尾大社は京都の四条通の西端、桂川を越えたところに位置するが、東端の鴨川を越えたところには牛頭天皇=素戔嗚を祀った八坂神社=祇園神社があり、東西で対になっている。

八坂神社は、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。「伊利」の「使主」といえば、イリ河沿いにあった「弓月」を思い出さないだろうか。やっぱり何か秦氏、景教と関係しているのだ。

そして和銅年間(708-715年)には、秦伊呂具(はたのいろぐ)によって伏見稲荷大社が創建される。

この神社は八坂神社から一直線に南へ下った稲荷山にある。

主祭神はもちろん宇迦之御魂大神=キツネ様であり、お母さんである大宮能売大神(アメノウズメ)と、その再婚相手である佐田彦大神(猿田彦)が祀られている。

ここまでは、三本鳥居といい、弥勒菩薩像のキツネサインといい、宗像三女神といい、みけつ=三狐といい、どうも秘数3が強い。

秘数8が表に出てくるのは、秦氏と関連が深いとされる八幡神社からである。

秦氏が直接八幡神社を創建したという記録はないが、なぜか関連づけられているのは、秦(はた)と八幡(やはた)の発音が似ていること、秦氏が根拠地とした豊前の宇佐八幡宮が総本社とされることなどが理由と思われる。

最古の八幡宮とされるのは、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建とする誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)である。

また、725年に創建された宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の社伝では、八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したという。

そのため、宇佐八幡神社では、応神天皇を主神として、宇佐氏が信仰した比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っているが、全国の八幡神社では、比売神ではなく応神天皇の父である仲哀天皇と、母である神功皇后を合わせた3柱を祀っているところが多い。

しかし、誉田八幡宮や宇佐八幡の社伝とは異なり、「正史」に「八幡」という単語が初出するのは、『日本書紀』ではなく、8世紀の『続日本紀』天平9年(737年)からである。

これはどういうことか。

宇佐八幡宮は、宇佐と名前がついているが、土着の豪族宇佐氏の祖霊神社ではない。

『日本書紀』が上梓されたあとになって、八幡神=応神天皇は霊験あらたかだとされ、主祭神として祀るために、比売神が鎮座していた山の上に新たに社殿が作られた。中央からは神宮司として大神(おおみわ)氏と、祭祀担当として、秦氏の支族とみられる渡来系の辛島氏が派遣された。これが725年の宇佐八幡宮の創建である。

宇佐氏が宮司を務めるようになったのは、平安時代の860年に京都の郊外男山に石清水八幡宮が勧請されて以降、朝廷の管理が緩くなってからである。

また、誉田八幡宮もHPで前述の社伝(詞書)を紹介した後、「おそらく八幡宮信仰がさかんになった結果、応神天皇ゆかりの地に社殿が建立されたと考えられます。」と述べている。

要するに、宇佐八幡宮も誉田八幡宮も、『日本書紀』上梓前は存在しなかったのだ。

なぜなら、「応神天皇」は『日本書紀』の創作だからだ。

『日本書紀』に記述された「応神天皇」は実在しない。3世紀の日本は、卑弥呼の時代だ。

だが、河内に大規模な前方後円墳が作られた時代に、実際に「応神天皇」のような大権力者が存在したことは間違いない。

後述するが、両社が社伝で「応神天皇」「欽明天皇」と関連づけられて記述されているのは、秦氏の由来と合致する。

秦氏が本当に「応神天皇」「欽明天皇」に仕えたかどうかはともかく、八幡宮の由来と秦氏の由来が一致するのは、遅くとも6世紀には中央政権の中枢に上り詰めていた秦氏が『日本書紀』の「応神天皇」=八幡神を信奉し、支族を派遣して豊前、河内の故地に作らせた神社だったからではないか。

なぜ、秦氏は本拠地山背国の、素戔嗚命の色濃い稲荷神社や松尾神社だけでなく、遠い豊前や河内に八幡神社を作ったのだろうか。

神功皇后と応神天皇の関係を、前述の久保有政氏は、聖母マリアと御子イエスの関係になぞらえている。

『日本書紀』の記述を要約してみる。

仲哀天皇が九州地方の熊襲を討伐しに行った際、気丈な神功皇后も同行した。筑紫橿日宮で武内宿禰を審神者として神託を行うと、熊襲ではなく、朝鮮を攻めよとの託宣が出た。だがそれを疑った仲哀天皇はその晩のうちに急死してしまう。

神功皇后はそのとき応神天皇を妊娠していたが、腹に石を巻いて出産を遅らせ、男装して熊襲討伐を果たし、海を渡って三韓征伐を行った。

その後、神功皇后は生まれた応神天皇を擁して大和に戻ろうとするが、仲哀天皇と前妻の間に生まれた長男と次男が阻止しようとした。長男は猪にぶつかってあえなく死ぬが、次男には苦戦する。神功皇后と武内宿禰は、紀伊半島を迂回して「東から」攻め込んで次男を破り、ついに応神天皇を即位させることに成功する。

猛母というべきで、聖マリアとはどうも性格が違いすぎる。しかし、しょせんこの描写も『日本書紀』執筆者の創作に過ぎない。それでも、もし久保氏のいうとおり神功皇后と応神天皇が、福音書の聖母子を投影しているとしたら、応神天皇を主祭神とする八幡信仰は、御子イエスを信仰する「隠れ蓑」ともいえる。

このように、秦氏が関連した神社には、三位一体や聖母子など、キリスト教の影響が見え隠れする。逆に、徹底して女神としての天照大神が出てこない。

さらにいえば、「八幡」に見られるように、記紀神話には「八」のつく言葉がよく出てくる。

日ユ同祖論者がよくやる手で、日本語では意味不明だ」が、ヘブライ語で解釈すると意味がわかるという言葉がある。例えば、次のようなものである。

「八幡」はイェフダ/ヤフダyehudaで、「ユダ族」という意味。

「八坂/弥栄神社、八尺瓊勾玉」のヤサカyasakaは、「神を見る」という意味。

「八千代に」は、ヤチヨニyahtsiyoniで、「神のシオンの民」という意味。

「弥生」は、ヤヨイyayehiで「唯一の神」の意味。

「八咫鏡、八咫烏」は、ハヤタhaytahで「必ず成る、そうなれ」の意味。

などなど。

そももそ、ユダヤ教、キリスト教の神ヤハウェは、ヘブライ語で「ヤー」というのだから、「八」を「や」と読んで頭につく単語は、ヘブライ語で解釈すれば、すべて「神の~」という意味になるわけだ。

八尺瓊勾玉、八咫鏡は三種の神器。あとひとつは八坂=素戔嗚が八岐大蛇から採った天叢雲剣(草薙剣)である。すべてが「八」に関係している。

稲荷がINRI=ユダヤの王ナザレのイエスであり、八幡神=応神天皇もまた聖母神功皇后に守られた御子イエスだとしたら、それを信奉した秦氏は間違いなくキリスト教徒だったということになる。

そして「や」と読む「八」がヘブライ語のヤハウェだとしたら、日本神話には、想像以上に秦氏の信仰が多く取り入れられているということになる。

どうしてこんなことが起こったのか。

(つづく)