3から8へ(2) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日14日は、2013年、日テレ「ハッピーMusic」に出演し、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」をテレビで初披露し、世界征服の書初めを発表した日DEATH

 

紀元前111年、前漢の武帝は万里の長城を築いて匈奴と和睦し、チベットに武都郡を置いて、匈奴の影響下にあった羌族、氐族を支配した。

だが、羌族はたびたび叛乱を起こしたという。後漢時代の西暦35年の叛乱の際、光武帝は将軍馬援に命じて羌族を撃たせ、降伏した者を天水・隴西・右扶風の内郡に移住させて郡県の管轄下に置いた。

そのとき、降伏したチベット人から次のような話が伝えられたという。

「中国から西に3年間旅をして、中国の距離の測り方で197000里行くと、ある国につき、そこでは辛酉元年(西暦1年)にマリヤという処女が、天の神の示しを受けて子を孕んだ。彼女は子を産むと、布に包んでまぶねに寝かせた。そのときすべての天使が音楽をもって空中を満たした。」

この話は1700年ごろ道教僧の徐道が書いた『神仙鋼鑑』にある。

明らかに新約聖書にあるマリアの処女懐胎とイエス生誕の話である。

1700年代の中国は清の時代で、近世の書物だから、福音書の話が知られているのは当然であり、これが本当に1世紀の情報なのかどうかは疑わしい。

だが、チベットの北、現在の新彊ウイグル自治区、キルギス、カザフスタンの国境近く、イリ河沿岸に「弓月」という名前の、漢人にとっては異民族の国があったのは史実である。

北宋の司馬光が英宗の命によって編纂した正史『資治通鑑』(1084年成立)には、唐の高宗~武則天の代に、イリ河沿岸にあった「弓月城」「弓月」を攻略した記述がある。ちょっと長いが引用してみる。

―引用―

199巻唐紀15(西暦651年)

秋、七月。西突厥の沙鉢羅可汗が庭州へ来寇し、金嶺城と蒲類県を攻め落とし、数千人を殺略した。左武候大将軍梁建方と右驍衛大将軍契苾何力を弓月道行軍総管として、右驍衛将軍高徳逸と右武候将軍薛孤呉仁を副官とし、秦、成、岐、雍の府兵三万人及び回紇五万騎を徴発してこれを討伐するよう詔が降りた。

201巻唐紀17(西暦662年)

軍が還って疏勒の南へ至ると、弓月部が再び吐蕃の衆を率いて来て、唐軍と戦おうとした。海政は、兵卒達が疲れ切っていてとても戦争はできないと判断し、軍資を吐蕃へ贈り、和平を約束して還った。

202巻唐紀18(西暦672年)

十二月、丙午、弓月、疏勒の二王が来降した。西突厥の興昔亡可汗の時代に諸部が離散し、弓月も阿悉吉も皆造反した。蘇定方が西討で、阿悉吉を捕らえて帰国した。弓月は南は吐蕃と結び北は咽麪を招き、共に疏勒を攻撃してこれを降した。上は鴻臚卿蕭嗣業へ兵を与えて派遣し、これを討伐させた。嗣業の兵が到着する前に、弓月は懼れ、疏勒と共に入朝したのである。上は、その罪を赦し、帰国させた。

203巻唐紀19(西暦682年)

阿史那車薄が弓月城を包囲した。安西都護王方翼が軍を率いて救援に駆けつけ、伊麗水にて虜を撃破し、千余の首級を挙げる。

214巻唐紀30(西暦737年)

九月、戊午、處木昆、鼠尼施、弓月など、もともと突騎施へ隷属していた諸部が、皆、州を率いて帰順し、安西の管内への移住を請うた。

(『資治通鑑』全訳データベース@Wikiより)

―引用終わり―

この「弓月」が、日本に渡来した秦氏の祖先であるという説は根強く、かつ弓月=秦氏が、聖トマスがアジアで伝道した東方原始キリスト教徒であったという説も根強い。

これは戦前の景教(ネストリウス派キリスト教)の研究者佐伯好郎氏が唱え、日ユ同祖論、あるいは秦氏=弓月=ユダヤ人渡来説のベースとなっているからである。

だが、インド南部のチェンナイまでたどれる聖トマスの足跡が、天山山脈を越えてチベットに伝わり、さらに北に位置する中央アジアの「弓月」が、ユダヤ人による原始キリスト教国であったという明確な物証はない。

「弓月」が文書に現れるのは引用した『資治通鑑』であり、佐伯説にいうところの、弓月の王族=秦氏が、万里の長城建設の苦役に耐えかねて、朝鮮半島を経て日本に渡来したという説は、時代が一致しない。

引用したように「弓月」は7世紀後半~8世紀前半に唐と戦っているが、万里の長城が建設されたのは、秦の始皇帝と前漢の時代、すなわち紀元前3世紀~1世紀のことであり、1000年近く差がある。「弓月」が紀元前からあり、1000年以上続いたという物証はない。

また、『日本書紀』にいう「弓月の君」が120県の人民を率いて渡来したのは応神天皇の御代である西暦283年とされるので、これも時代があっていない。

「弓月」が唐と戦っていた651年、聖徳太子のブレーンといわれる秦河勝はすでに歴史の表舞台から去り、赤穂の坂越に隠棲して亡くなり、かの地の大避神社に祀られている。

ただ、前述したように、ユダヤ人共同体のネットワークが、アジア全土に張り巡らされ、とりわけシルクロードの北ルート上に位置するチベットや「弓月」が、交易によって栄え、それを狙って後漢帝国や唐帝国による「西域」攻略の標的となっていたことだけは間違いないようだ。

(つづく)