3から8へ(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

★今日のベビメタ

本日13日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH

 

これは一つの仮説である。BABYMETAL公式ツイッターの画像が正八面体であり、BABYMETALの設定に込められた「秘数」が、これまでの3から8へと変わっていくという妄想を証してみようという試みである。

結論から言ってしまえば、これまでの三狐=稲荷神=キツネ様を包含しつつ、8を秘数とした神といえば八幡神である。YUIMETAL脱退後の新生BABYMETALは、八幡神を守護神としていくのではないか。

この物語は、ずっと昔、もっと昔の紀元前10世紀、遥か彼方のユダヤに始まる。

紀元前995年。

モーゼによるエジプト脱出後、カナンの地に定住したユダヤ人共同体が初めて戴いたのはサウル王だった。羊飼いの末子で、不眠症のサウル王のために竪琴弾きを務めていた少年ダビデは、ペリシテ人との戦いで、巨人ゴリアテを礫の一撃で倒す。アイドル的なダビデの人気のため疑心に駆られたサウル王は、ダビデを攻撃するが急逝してしまい、ダビデはユダヤの王となった。

ダビデ王朝は息子のソロモン王の時代に最盛期を迎えるが、ソロモン王死後の紀元前922年、王国は後継者争いの果てに、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。

ユダヤ民族は、旧約聖書創世記にある始祖アブラハムの孫ヤコブの息子12人にちなんで、12支族に分かれていた。そのうち10支族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)を擁するのが北のイスラエル王国で、2支族(ユダ族、ベニヤミン族)を擁するのが南ユダ王国だった。

それから200年後の紀元前722年、メソポタミア北部に興ったアッシリア帝国が攻め込み、北イスラエル王国は滅亡する。イスラエル10支族の王族はアッシリアに連れ去られ、以降行方不明になってしまう。これが「失われたユダヤ10支族」である。

南ユダ王国も、それから136年後の紀元前586年、アッシリアを滅ぼした新バビロニア帝国に攻め込まれて滅亡し、王族の2支族はバビロニアに連れ去られる。これが「バビロン捕囚」である。古代の中東では、戦争の勝者が荒廃した土地を再興するために、奴隷労働者として、敗者の人民を連れ去るということが普通に行われていたらしい。

ちなみに旧約聖書の多くは、バビロニア文化の中に置かれたユダヤ人が自分たちの習慣や民族的アイデンティティを失わないために記述されたとされる。

紀元前532年、新バビロニアを制圧したアケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、ユダヤ人が帰郷することを許可し、ユダヤ2支族はエルサレムに戻る。

だが、エルサレムは、アレクサンダー大王のマケドニアによる統治、その後裔のセレウコス朝シリアの支配を受ける。

ようやく紀元前166年、ユダヤ人の祭司一族がセレウコス朝シリアに対する独立戦争(マカバイ戦争)を起こし、ハスモン王朝を創立する。

そしてイエス・キリストが生きた紀元前4年~西暦30年ごろには、ローマ皇帝と同盟し、ハスモン家から妻を迎えた異民族出身のヘロデ大王とその息子たちが、ローマ属州となったユダヤ王国を統治していた。

当時のユダヤ人民衆は、ローマ帝国の総督とヘロデ王家、さらにはユダヤ教の大祭司階級の二重、三重の支配を受けていたが、イエス・キリストは、大祭司の課する戒律や習慣に縛られず、本質的に神の愛に応えて「良き人」として生きることを説いた。

だがこれは既得権を持つ支配階級には不都合であり、十字架にかけられた際の罪状は「ユダヤ人の王」=Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum=INRIだった。

十二使徒のひとり聖トマスは、師イエスが十字架にかけられて死んだ後、三日目に蘇ったと仲間の弟子たちに聞かされても、「釘を打たれた傷跡に指を入れて確かめなければ信じない」と言い張った。

八日目に、弟子たちが集まっているところへ復活したイエスが現れ、トマスに「さあ、傷跡に指を入れてみなさい」と言った。トマスは「わたしの主、神よ」と言って泣き崩れた。するとイエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者になりなさい」と言った。(ヨハネ福音書2024-29

この逸話から、聖トマスは「疑い深いトマス」とも「研究家のトマス」とも呼ばれ、弟子たちの中でも実証主義者的な性格を持っていたらしい。

イエスの死後、イエスの弟子たち=原始キリスト教団は、エルサレムで身をひそめるように共同生活をしていたが、やがて、イエスを弾圧する側のパリサイ派にいたパウロが回心して教団に加わり、ユダヤ人の住む都市を巡って、トルコの沿岸部からギリシア、ローマへと宣教を始める。

新約聖書の使徒行伝にはそれしか記述がないが、同時期、十二使徒の聖バルトロマイと聖トマスは、カスピ海沿岸から東へ、アジア内陸部への宣教の旅に出た。

聖トマスはインド南部のチェンナイに到達し、そこで死んだ。現在もチェンナイには聖トマス教会があり、そこに墓がある。

『聖トマス行伝』という文書もある。

それによると、聖トマスは、王から宮殿建設を託されたが、資金を貧民に施してしまい、王には「現世ではなく、天国に宮殿を建てる方がいい」と説いたという。

王は怒り、聖トマスを幽閉するが、王の弟が死んで天国に宮殿があるのを見、生き返ってそのことを王に伝えると、王はキリスト教に改宗したという。

長らく偽書とされていたが、そこに出てくるインドの王グンダファルとその弟ガドの名前が刻まれた硬貨が近年発掘され、史実であると立証された。その王とは、1世紀に、現在のアフガニスタン、パキスタン、インド北西部の領域にインド・パルティア王国を築いたゴンドファルネスのことであった。

発掘された硬貨には王の肖像とともに、パルチア語とサンスクリット語で「神に忠実な者」という称号が刻まれており、紀元後1世紀のインドに原始キリスト教が伝わったのは事実らしい。

インド・パルティア王国の南隣には、釈迦の一族であるサカ族が治めるインド・サカ(スキタイ)王国があり、チェンナイはさらに南である。

実証主義者聖トマスは、自分の目で見た復活のイエス=神の確信に満ちて、北部のインド・パルティア王国でキリスト教を伝えたのち、どんどん南に下り、最後はインド最南部のチェンナイにまで到達したのだ。

さて、なぜ、ゴンドファルネス王は、見ず知らずのユダヤ人聖トマスに宮殿建設を任せようとしたのか。

『聖トマス行伝』によると、十二使徒は分担を決めて伝道旅行に出ることを決めたが、インド担当となった聖トマスは気が進まずシリア周辺でウダウダしていた。

ちょうどその頃、インド・パルティア王国を建てたゴンドファルネス王は、優れた大工を求めて、シリアにハッバーンという使者を送った。聖トマスは奴隷としてハッバーンに買われ、インドへムリヤリ連れていかれた。実はそれこそ、嫌がる聖トマスをインドへ連れていくための主イエスの導きだったという。

現実的に考えれば、ユダヤ人の建築技術の先進性あるいは「大工といえばイエス、その弟子なら安心」とかいう情報が、インドにまで伝わっていたということだろう。それはシリア、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド北部に至る都市にユダヤ人が住んでおり、交易や情報のネットワークがあったためだろう。

聖トマスがインドに到達したのはイエスの死から数年後だから、西暦70年に起こったローマ軍によるエルサレム破壊と大離散(ディアスボラ)はまだ起こっていない。

だから、この当時アジア内陸部の各都市に集住していたのは、紀元前722年の北イスラエル王国から連れ去られた10支族の末裔、あるいは紀元前532年のバビロン捕囚終了後も、エルサレムに戻らなかった南ユダ王国の2支族の末裔だろう。

例えば、インド南西部ケララ州コーチンには、コーチン・ユダヤ人と呼ばれる人々がいて、ソロモン王時代にユダヤ本国との交易をしていたが、本国の分裂後、そこに留まったといわれる。

要するに、商業の民ユダヤ人は、ソロモン王時代も、南北分裂時代も、アレクサンダー~セレウコス朝時代も、イエスの時代も、西暦70年のローマ軍による大離散ののちも、各地でユダヤ人としてのアイデンティティを保ちつつ暮らしていたのだ。

そのひとつが、現在の新彊ウイグル自治区、キルギス、カザフスタンの三国の国境沿いにあった「弓月」国であるという。

(つづく)