オタクの真理(2) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

―May the FOX GOD be with You―
★今日のベビメタ
本日7月18日は、2015年、雑誌「Metal Hammer」273号の表紙にBABYMETALが登場し、即完売。2017年には、5大キツネ祭り in JAPAN 黒キツネ祭り@東京赤坂BLITZが行われた日DEATH。

文部科学省は、管轄下にある学校、つまり幼稚園から高校までの児童・生徒の発達、成長を4つの段階に分け、それぞれの段階で達成すべき課題をあげている。
―引用―
文部科学省HP「子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題」より抜粋。
1)乳幼児期
・愛着の形成(人に対する基本的信頼感の獲得)
・基本的な生活習慣の形成、道徳性や社会性の芽生えとなる子ども同士の遊びなどの体験活動の充実
2)学童期、高学年)
(小学校低学年)
・「人として、行ってはならないこと」 についての知識と感性の涵養や、集団や社会のルールを守る態度など、善悪の判断や規範意識の基礎の形成
・自然や美しいものに感動する心などの育成(情操の涵養)
(小学校高学年)
・抽象的な思考への適応や他者の視点に対する理解
・自己肯定感の育成
・自他の尊重の意識や他者への思いやりなどの涵養
・集団における役割の自覚や主体的な責任意識の育成
・体験活動の実施など実社会への興味・関心を持つきっかけづくり
3)青年前期(中学校)
・人間としての生き方を踏まえ、自己を見つめ、向上を図るなど自己の在り方に関する思考
・社会の一員として自立した生活を営む力の育成
・法やきまりの意義の理解や公徳心の自覚
4)青年後期(高校)
・人間としての在り方生き方を踏まえ、自らの生き方について考え、主体的な選択と進路の決定
・他者の善意や支えへの感謝の気持ちとそれにこたえること
・社会の一員としての自覚を持った行動
―引用終わり―

教育学と心理学のサブジャンルである発達心理学では、青年期の最重要課題は自我同一性=アイデンティティの獲得、自尊感情の獲得であるとされる。
だが、文部科学省によるこの表には「自我」とか、「自意識の目覚め」とかいう言葉はない。これらは心理学用語であり、教育学で用いられる発達段階(=成長)の指標ではないのだ。
このへん、なかなか面倒くさい。
実はよく見ると、この表にもそれらしい記述はある。
1)乳幼児期と2)学童期の小学校低学年では、「基本的な生活習慣」や「善悪の判断や規範意識」を身につけること、つまり大人のいうことを素直に聞くことが課題とされているのに、小学校高学年になると、いきなり「他者の視点に対する理解」とか「自己肯定感の育成」「自他の尊重の意識」という言葉が出てくる。要するに、この頃には、自己と他者と区別する意識、すなわち自我ないし自意識が目覚めているということが前提されているのだろう。
ぼくが「自分が自分であること」に目覚めたのは、小学校3年生ごろ、引っ越した新しい団地のトイレで、「あ、今ぼくが心の中で考えている声は、自分以外の誰にも聞こえていないのだ」ということに気づいた時だった。やや早熟だったかもしれない。
ぼくが声に出して言ったり、文章に書いたりしなければ、心の中で何を考えていても伝わらない。要するに人間はウソがつけるのだ。
それから現在に至るまで、ぼくは、ぼく以外の世界に囲まれて、誰にも聞こえない心の声を発しながらたった一人で生きてきた。
それは、誰でもそうなのだ。どんなに愛している恋人や配偶者や血を分けた子どもでも、テレパシーで語り合うことはできない。
40歳の頃、世はITバブルで、仕事に入れ込みすぎたぼくはうつ病になった。脳内物質が分泌せず、笑えなくなり、毎日焦燥感と絶望感にかられて過ごした。向精神薬で手の震えが止まらなかったこともある。家族に大迷惑をかけた挙句、一度目の離婚をした。それから、ぼくをこの世に生み出し、ぼくの心の声を常に聞いている存在がいることを知った。それが神というものだった。
うつ病にかかりやすい性格が、自我や自意識の強さとどう関連しているか、あるいは思い込みの激しさとどうつながっているかは、よくわからない。
だが、親や教師なら誰でも経験しているように、自我の目覚めた子は、単純だった幼児期の子どもらしい性格がガラリと変わる。極端に潔癖症になったり、自分の容姿や声を恥ずかしく思うようになったり、未熟な自我が傷つくのを恐れて自分の殻に閉じこもったりする。逆に幼児期の万能感を延長しようとして「王様」のように、近親者に対して暴力的にふるまったりすることもある。
中学に入って、まだ自我が弱いうちに、チームスポーツの部活や地域の同世代グループなど、集団の中で自分の性格や役割に気づき、自然に自己形成できれば、ほぼ何も問題は起こらない。

だが一人で作業することが多い文化系の部活や、自分の体力や能力の未熟さが露見することを恐れる「帰宅部」の子だと、どうしても「一人好き」が多くなる。
集団の中で揉まれることを避け、部屋にこもって誰にも邪魔されないゲームやファンタジーの世界に耽溺することで、自我はタケノコのように拡大していく。中には「中二病」を発病したり、集団の中では自分の存在を消す習慣をもった「透明人間」、つまり「君の名前は希望」に描かれた「僕」のパーソナリティになったりする。


ぼく自身にもそういう傾向や経験があるが、自分にこだわるあまり集団を避け、他者との関わりの中での自己形成ができない子ども=オタク予備軍をどうするかは、大きな問題なのである。
さきほどの発達段階の表をよく見ると、3)青年前期と4)青年後期の課題は、前半の「自己の在り方に関する思考」(中学校)、「自らの生き方について考え、主体的な選択と進路の決定」(高校)という「自分に関すること」と、後半の「社会の一員として自立した生活を営む力の育成、法やきまりの意義の理解や公徳心の自覚」(中学校)、「他者の善意や支えへの感謝の気持ちとそれにこたえること、社会の一員としての自覚を持った行動」(高校)、すなわち「社会性」とに分かれていることがわかる。
しかし、本人が「自己のあり方」や「自らの生き方」について拘泥しすぎ、周りの大人も、彼の主体性を重んじてその結論をじっと待っていると、後半の、人としてあるべき社会性の獲得がいつまでたってもなしえないという事態が起こる。
そして、このことが、現在のわが国の教育で最も根深い問題である、不登校や引きこもり、ニート、自殺といった問題につながっている。
ぼくの考えでは、この原因ははっきりしている。
戦後の公教育が「全人教育」幻想に支配され、かつ伝統的な文化や宗教的バックグラウンドもなく「個性を尊重し、自分らしく生きるのが尊い」というフワフワの人間観が持ち込まれ、小学校高学年から高校生にいたるまで、公教育の場で心理学的な「自分探し」をすることが第一義だと思い込んでしまったからである。
(つづく)