オタクの真理(3) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

―May the FOX GOD be with You―
★今日のベビメタ
本日7月19日は、2017年、5大キツネ祭りin JAPAN 赤キツネ祭り@東京赤坂BLITZが行われた日DEATH。

教育には、大きく分けて、国や自治体が行う公教育と、家庭や地域社会が任意に営む私教育とがある。
近代国家における公教育は、公費すなわち税金でまかなわれるので、あくまでも国のため、社会のために役立つ人材を養成することが目的であって、学種に応じて、社会に出て働くための知識・技能や、近代人としてわきまえるべき常識=教養を教えるものだった。
一方、「家」あるいは「家」が所属する地域社会(藩、村落)は、時代や国の目的とは関係なく、伝統を継承すべきわが子に対して、その「家」ないし地域社会が歴史的に培ってきた世界観や価値観を伝え、生きる意味や人生の目的を説いた。それにかかる費用は当然私費でまかなわれた。
個人にとって、人生の出発点における自分らしさ=自我同一性というものはその領域に属していて、それぞれの子どもが、生まれ落ちた環境の中で形成していくものだった。
とはいえ、後進近代国家であるわが国では、国のために働くことと、「家」や地域社会のために生きることとは、やや位相が異なりつつも、しっかりと結びついていた。
わが国の公教育制度は、明治5(1873)年に森有礼を中心として策定された学制に始まる。
全国を7つの大学区、239の中学区、42451の小学区に分け、それぞれ官営の大学、中学校、小学校を置き、「国民皆学」をスローガンとした。西欧諸国に追いつき、近代化を図ることが目的だったが、重要なことは、江戸時代までの身分・門地・血縁・貧富の差に関わりなく、全国一律の教育を施し、学力に優れたものは上級学校に進ませ、最終的には帝国大学から政府の役人、すなわち国家の近代化に必要な人材を吸い上げるという能力主義の側面を持っていたことだ。
これは、宗教や身分・階級の格差が大きい西欧諸国ではなし得なかった「機会における平等」を保証したという意味で、世界的に類を見ないものであり、日本が急速に近代化できた大きな原動力になった。
日本の「家」や地域社会は、江戸時代までの封建制度の中で形作られたものである。「家」は最小の生産手段であり、個人は「家」を離れては生きてゆけなかった。
また地域社会(藩、村落)は、その「家」を束ねるものであり、仏教寺院や神社が地域社会の中心にあって、檀信徒、氏子といった仕組みと年一度の祭礼で、地域社会の共同性や倫理の源泉となっていた。


明治時代になって、政治機構としての藩は解体され、職業選択は法令上自由化されたが、個人の帰属感は、依然「家」ないし地域社会に残っていた。
庶民の側から見れば、新政府が定めた公教育制度に従って学び、国家のために働き、「立身出世」することは、自我を形成した家や地域社会への「恩返し」になった。
これは、日本だけのことではない。
人類史の知見から、人間の社会は、狩猟採集少人数集団(バンド)→部族社会→首長制社会(チーフダム)→近代国家というふうに発展してきたことがわかっている。
「家」とは夫婦・親子関係にもとづく、かつてのバンドであり、それが緩やかな血縁関係で広がった部族社会が、現在の地域社会の基盤である。
首長制社会は、王家が複数の部族を武力や宗教によって服属させ支配する大きな社会だが、近代国家はそれをも超え、異なる民族、異なる宗教をも含む多様な集団が、統一された権力と明文法のもとに市場、警察、軍事機構などを共有し、共存する仕組みである。
したがって、近代国家は、その構成員として、かつての部族の名残である地域社会やバンドの名残である「家」を内包するのである。
アイデンティティと強い関連のある文化にしても、「国家の文化」なるものが最初からあったわけではない。「家」や地域社会で、歴史的に培われた習慣や文化を足し算した全体傾向が、その国の文化と総称されているだけなのである。「日本文化」というものが大昔からあって、そのバリエーションとして地方の文化ができたわけではないのだ。
もっとも、わが国では、中国・朝鮮・欧米の文化が中央政府によって輸入され、改良され、地方に広まっていったという経緯もあるから、地方文化にしても、自然発生したものではない。宗教的権威としての天皇をいただく連合国家として3~4世紀ごろに形成されたとみられる日本では、中央と地方の結びつきや均一性が強いということはあるだろう。
それはともかく、近代以降の社会でも、個人、家、地域社会、国は、いうならばトポロジカルな「入れ子」状態になって存在している。
国>地域社会>家>個人であるとともに、個人は家という属性、地域社会という属性、日本人という属性を持つ。これらは本来、切り離すこともできないし、敵対関係でもない。
しかし、わが国では、戦後、この構造が意図的に分断されてしまった。
敗戦後の日本を占領したGHQの目的は、新生日本が、再び大日本帝国のように強大にならないようにすることにあった。
近代国家としての大日本帝国が持っていたさまざまな仕組みが解体された。
とりわけ、日本人の内面を形成する教育の分野は重要な標的だった。
GHQの内局であるCI&E(民間情報教育局)は、War Guilt Information Programを発動し、放送・出版、教育を通じて、日本人に、「東洋のちっぽけな島国のくせに、欧米に対して戦争を起こした日本は悪い国である」という刷り込みを行った。


そのうえで、「お国に忠誠を尽くす日本人」を養成したのは「戦前の悪い教育」のせいだとされ、教育基本法に定めた公教育の目標は、「国のため」ではなく、「人格の完成」になった。
さらに、制度的には、中央政府が公教育を直接コントロールできないように、「教育の独立」が図られた。
伝統的価値観の残る「家」や地域社会の教育力も排除され、国民教育は学校制度の中だけで完結するような一元的な体系となった。そのキーワードが「全人教育」である。
戦前の教育は、国家・天皇に奉仕させるための徳育、軍事教練が中心だったというイメージが強い。しかし、実際には、明治の学制以来、教育内容の中心は、近代国家建設のため≒庶民の立身出世のための知識・技能教育=知育であり、初等、中等教育における体育や倫理・道徳の時間配当は、現在より少なかった。
戦後、金科玉条のように言われた「全人教育」とは、戦前より体育や音楽、図工(美術)などの情操科目の配当が多く、義務教育と並んで、公教育の目的が「国のため≒家や地域社会のため」ではなく、「人格の完成」に変わった恩恵を象徴することとなった。公費で「全人教育」を受けられることこそ、「教育を受ける国民の権利」だとみなされるようになった。
それでも、個人が家や地域社会に帰属感を持ち、伝統的な教育力が維持されていたなら、日本人の価値観や倫理観が大きく揺らぐことはなかっただろう。
だが、戦後の復興や経済成長にともなって、わが国では人口の流動性が高まり、地方から大都市に流入する人が増え、核家族化が進んだ。また、農地改革や有力者の公職追放などによって、地域社会の構造も変わった。それによって、家庭は地域社会から切り離され、伝統的な地域社会も形骸化してしまった。
こうして、戦後のわが国の公教育=学校は、国民教育を一元的に担いつつ、国や行政の影響からも、伝統的な家や地域社会からも「独立」した閉鎖的な「教員の世界」になってしまった。
GHQが指令した「軍国主義日本のための教育は悪」という概念は、日本の再独立後、コミンテルンの影響下にあった教職員組合によって、「日本的なものを教える教育はすべて悪」にすり替えられた。実際にぼくが経験した東京都下でも、1970年代まで、地方の神社の祭礼に参加することさえ「反動」だと教える先生がいた。「日の丸」の掲揚や「君が代」の合唱を拒否する先生は、1990年代後半までいたはずである。
政権与党は、イデオロギッシュな教育現場のありように危機感を持ち、関与を強めていくが、教員組合は、そのたびに徹底的に抵抗した。高度経済成長期以降、「中央教育審議会」を設置して、たびたびの「教育改革」を実施するが、政府の行政部門である文部省内部にも、教員組合と融和する傾向があったため、改革の文言は常に玉虫色であり、ともすれば、より「自由」で「多様」なものになりがちだった。公教育の目的が転倒していることが問題なのに。
国が関与できず、「家」や地域社会が崩壊しても、それに代わる共同体があれば、閉鎖的な「教員天国」に対抗し、地域に根差した、あるいは普遍的な自我同一性を確立するための、任意の価値観教育ができたかもしれない。
移民の寄せ集めで、伝統的地域社会というものがなかったアメリカでは、地域のキリスト教会(パリッシュ・チャーチ)が地域の公立学校と協力して、ヴォランタリーな道徳教育、価値観教育を行っている。
だが、戦後の日本では、公教育が宗教団体の協力をあおぐなどということは思いもよらぬことだった。その背景として、戦前の国家神道の問題が引き合いに出されるが、より本質的には、マルクスが宗教を敵視したために(『ユダヤ人問題に寄せて』)、心情サヨクの先生たちにとって、宗教は唾棄すべき「非科学的な迷信」なのであった。信教の自由は日本国憲法上認められ、その教義や伝統的倫理観を知ることは、自我形成に大いに資するはずなのに、日本の公教育において、宗教は敵視されてきた。
こうして、「人格の完成」を目標に掲げつつも、その「人格」とは、家や地域や国のために無私で働く人間像でもなく、宗教的な良心に生きる欧米ビジネスマン風人間像でもなく、教育学者が机上で作り上げた「個性を生かし、主体的に、自分らしく生きる」という無国籍でフワフワした人間像だった。
前節で述べたように、本来、「個性」や「自分らしさ」は、私的領域に属する家庭や地域や宗教的価値観の中で形成されるものなのだから、公教育が口を出すべきではない。
しかし、一元的な国民教育の目標が、誰にでも当てはまってしまうようなフワフワした「個性」「自分らしさ」になったものだから、自民党は高度経済成長を担う「期待される人間像」を、教員組合は体制を批判する「戦争をしない教え子」という、自分たちが理想とする人間像をそれぞれ主張し、教育が政争の焦点になってしまった。


ぼくの考えでは、価値観ひとつとっても、公教育が教えるべきものと、私教育で涵養すべきものは、切り口が違っていなければならない。
例えば、人のものを盗むことは、「悪い」ことだ。
だが、なぜ盗んではいけないかの理由は、立場によって異なるはずなのだ。
まず国民のスタンダードとなるべき公教育では、盗みが悪いのは「法律違反」だからである。共存を目指すのが近代国家の仕組みだから、犯人は、裁判をうけて確定した罰を受ければそれで済む。
しかし、伝統的な地域社会で盗みが許されないのは「それを許していては、信頼しあい、助け合う共同体の暮らしが成り立たなくなるから」である。だから、たとえ法律上の処罰が済んでも、その共同体では暮らせなくなるといった、より厳しい社会的制裁が下される。
そして、よりパーソナルな価値観にもとづく「家」では、盗みは例えば「お天道様に対して恥ずべきこと」であって、つまり、ここで初めて躾や倫理観を含む人間性や教育の問題になる。しかも処罰としては、親が責任を取って身代わりになったり、地域社会を家族ごと抜けたりすることで、わが子に更生のチャンスを与えるという愛情ベースのオペレーションが行われる。
こういう重層的な判断に曝されることで、人は、初めて「盗みが悪い」という価値観を、とことん身に染みて理解するのだ。
しかし、戦後は、文科省が1)乳幼児期、2)学童期(小学校低学年)の課題に設定しているように、倫理=善悪の基準形成は学校教育に一任されてしまい、家や地域社会がもっていた教育力は削がれてしまった。
しかも、閉鎖的な学校空間の中では、学ぶ目的が「国や社会や家族の為に働く」という観点から切り離されて「独立」し、「自分らしく生きるため」になってしまったために、「悪いこと」は、「お天道様に恥ずかしいから」でも「共同体から排除されるから」でもなく、「法に触れなければよい」「バレなければよい」「自分さえよければよい」ものになってしまった。
はっきり言おう。
公教育の目的を「国や社会のために働く人間を作る」に戻した方がよい。
公教育で小学校高学年から青年期の課題とすべきなのは、「社会の一員として自立した生活を営む力の育成、法やきまりの意義の理解や公徳心の自覚」(中学校)、「他者の善意や支えへの感謝の気持ちとそれにこたえること、社会の一員としての自覚を持った行動」(高校)、すなわち「社会のルール」だけでよい。
そして、「自我同一性」や「自意識」、「自分らしさ」の涵養には、公教育は関与せず、私教育つまり「家」や地域社会の教育力に委ねるべきだ。
公教育の目的が「自分らしさ」の涵養というフワフワした内面性にあって、社会を動かす現実のルールの習得にまでたどり着かないから、大量の「自分探し」ピープルが社会にあふれてしまったのだ。
教育は国から独立していなければならないというスローガンは、政治に指図されない「教員の世界」の中で、自分たちだけが理想の人間を育てる権利をもつのだという願望に過ぎない。
民主主義社会である以上、教育もまた、正当な選挙で選ばれた国会議員が多数決で定めた法に従って行われるべきなのである。
ポイントは、「教育の独立」にあるのではなく、「公教育は人格教育をすべきではない」というところにある。
要するに、独裁的政治権力者が、国民に「かくあるべし」という人格を強要するのは、勘弁してよねという意味だ。

「教育の独立」を主張し、教育の目標を「人格の完成」に置き、生徒の内面を教導しようとするのは、それと同じことではないか。
原則的には、個人の内面は、国の「公式ルール」から自由であるべきだ。さらに「家」や地域社会の「教え」からも自由でいい。アイデンティティなど、「これだ!」と定めた人生上のある時点で、勝手に自分で見つければいいのだ。
だが、社会の公式ルールはそうはいかない。
児童・生徒は、一生「学校王国」の中にいる職業教員と違って、学校を卒業したら、否応なく、家族のために、地域社会や国の仕組みの中で働かなくてはならないのだ。

だから学校は、公教育は、公式な社会のルールを教える場所。

家庭・地域社会は、人生の出発点にあたって、とりあえずの世界観を身につける場所でいいではないか。
かつての日本では、大人としてのイニシエーション、元服は12歳から16歳だった。
しかし現代では、思春期に「自分らしく生きる」ために「自分探し」が必須の過程だと刷り込まれたために、ティーンエイジャーになって、体も知識もそこそこ成長したはずなのに、自分可愛さのあまり、集団の中で存在を消し、「世界を拒否」する「透明人間」になってしまい、家庭や社会や国のために今自分ができること、これから自分が果たすべき役割や責任に気づかない子どもを大量に育ててしまった。
人生の目的が「自分」だと思い込めば、自分としか向き合わなくなる。
そうして出口の見えない暗闇に閉じ込もってしまえば、脳内物質が分泌されなくなり、ますます怯えたハムスターのような精神状態になってしまう。
自分が生まれてきた意味や、人生の目的は、誰にもわからない。
だがそれを、「自分のため」だと教えるのはどう考えても間違っている。
自分の意志で生まれてきたのではないことを考えれば、命は与えられたものであり、自分以外の、家族や、地域社会や、国や、世界の人々のために使うのが使命だ、と気づくのが自然ではないか。
さて、ここでこんなことをほざいていても、まあ、何の足しにもならない。
問題は、「君の名前は希望」に歌われているような「透明人間」が、「アイドル」に入れ込むことによって公教育の犠牲たる「自分探し」から脱却し、現実社会に適応できるのか、少なくともそのきっかけになるのかということである。
ぼくは、なると思っているんですねえ。
(つづく)