オタクの真理(1) | 私、BABYMETALの味方です。

私、BABYMETALの味方です。

アイドルとメタルの弁証法
-May the FOXGOD be with You-

―May the FOX GOD be with You―
★今日のベビメタ
本日7月17日は、過去BABYMETAL関連で大きなイベントのなかった日DEATH。

今から5年前、2013年7月16日に放映されたPerfume姉さん司会の音楽番組「MJアネックス」(NHK)で、BABYMETALの三人は、ローリー寺西(すかんち)に、メタルアーティストとして、あるべき脳内円グラフを教わった。
まず、BABYMETALの各メンバーが自分で書いた、現在「頭の中を占めているもの」が描かれたフリップが発表された。
MOAの頭の中は、「アイドル、食べ物、身長、夏休み(宿題)、衣装」のことで占められており、SU-は「ミュージカルのこと、部屋のこと、本の続き、歌のこと」という「世をしのぶ仮の姿」の中高生らしい答えで、YUIに至っては「中間テストのコト!、トマトのコト♡、プール☼、メギツネの振り付け♪」というイラスト付きの完全アイドル仕様だった。


ローリー寺西は、「学校とか宿題とか、もう考えない方がいいね。いや、考えるんだけどやらなくて汗びっしょりっていう地獄を味わうべきだね」とか、「学校を卒業したら宿題なんかないけど、その代わり毎日が地獄だよー。死ぬまで地獄なんだから」とか、しきりに「地獄」を強調し、究極のメタラーの頭の中身として、「HELL、LOVE、HEAVEN」に三分割した脳内円グラフを提示。「地獄は楽しいところだぜ」とキメて見せた。
これに対し、SU-は「くっきりメタルって感じになってるし、カッコいいと思います」と賛辞をささげた。
いやいやいやいや。んなわきゃないだろう。
メタルバンドのメンバー、あるいはメタルを聞くことやメタルファッションが個性、人生の一部になっているメタルファンといえども、頭の中がこれだけのはずがなく、仕事、家族あるいは恋人や友達のこと、各種支払い、来月の旅行のことなど、現実的なことがらが脳内を占めているはずであって、それは中高生だろうが、大人だろうが変わらない。
中高生と大人との違いは、大人の方が、現実的に処理せねばならない、細々したことが多いということで、役所や税金の手続き、保険とか年金とか、健康状態や持病の通院スケジュール、ご近所トラブル、子どもの進学問題等々、中高生の頃は考えもしなかったことが脳内の一角を占める。
要するに、ローリーが示した「HELL、LOVE、HEAVEN」の脳内円グラフは、「アイドル」が「メタラー」を演じるためのステレオタイプ化に過ぎない。
しかし、SU-、YUI、MOAの三人が、中高生なりの「現実」しか書いていないのに対して、ローリーの答えが抽象的なものだったのには意味がある。
「HELL(辛いこと)を通してLOVE(愛)を実現し、HEAVEN(楽園)へ」というのは冗談めかしているが、おそらくローリーの「生き方」に関する信念ないし哲学なのだろう。
中高生と大人の脳内の違いにはもうひとつあって、色んな経験の結果、全てが並列的にあるのではなく、切り捨てるべきこと、大切にすべきことが区分され、人生の目的なり、信念を持った「生き方」が、おのずから現れるところにあると、ぼくは思う。
乃木坂46の「君の名前は希望」という曲は、「名曲」という評価と「キモ曲」としての評価が二分されているのだが、生田絵梨香のピアノ演奏が、地下鉄千代田線の乃木坂駅のジングルにもなっているので、たいていの方はご存知だと思う。
歌詞分析のサイトもいくつかあるし、著名な予備校講師が解説をしたこともある。
内向的な少年が、恋をすることで他者との関わりへと成長していくというストーリーが、「アイドル」に入れ込むオタク心理のメタファーになっているという解釈が多い。
それはそれで正しいと思うのだが、もう一歩突っ込んで、この歌が意図する「成長」とは何かということを論じてみたい。


―引用―
作詞:秋元康、作曲:杉山勝彦、歌:乃木坂46「君の名前は希望」
(原曲Key=E♭)
僕が君を初めて意識したのは
去年の6月 夏の服に着替えたころ
転がって来たボールを無視してたら
僕が拾うまで
こっちを見て待っていた
透明人間 そう呼ばれてた
僕の存在 気づいてくれたんだ
厚い雲の隙間に光が射して
グラウンドの上 僕にちゃんと影が出来た
いつの日からか孤独に慣れていたけど
僕が拒否してたこの世界は美しい
こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかったこと
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名前は“希望”と今 知った
―引用終わり―

非常にわかりやすいラブストーリーの始まり。

主人公の「僕」は、「透明人間」と呼ばれるほど目立たない、内向的な性格で、足下に転がって来たボールをも無視するような自我に閉じこもっているタイプの少年として描かれている。
その彼が、「こっちを見て」ボールを投げ返してくれるのを「待っていた」少女を見て、「存在に気づいてくれたんだ」と思い込んでしまった。
いやいやいや。

ここが起点なのだが、すでにツッコミどころ満載である。
球技をしていて、ボールが転がっていった先に誰かがいれば、投げ返してくれると思うのが普通ですよね。だが、そこに何らかの意味、しかも「存在に気づいてくれた」と思い込んでしまうところが、確かに気持ち悪い。
「気づいてくれる」ことを待ち望むなら、自分から積極的に交わっていけばいいのであって、自我に閉じこもり、「透明人間」のようにふるまっていたのは、臆病な「僕」の都合である。
たまたま、ボールを投げ返してくれるのを「待っていた」彼女を、「気づいてくれたんだ」と思い込み、「厚い雲の隙間に光が射して」「僕にちゃんと影が出来た」と感じるのは、思いっきり自己中心的である。この場合の「影」とは、「透明人間」じゃなくなったという意味と、恋をして生活に陰影ができるという意味の両方があるのだろう。
そして「孤独に慣れていた」「(世界を)拒否していた」という「僕」は、「君」に対するこの激しい思い込みによって、世界を「美しい」と思うようになる。
続くサビの「こんなに誰かを恋しくなる自分がいたなんて想像もできなかったことという部分も、あくまでも自分中心である。

この歌詞では、「僕」と彼女が交流し、生身の彼女の人生に関わっていくという雰囲気は何もなく、恋をする自分自身についてのみ「想像もできなかった」と人ごとのように言い、「君の名前は“希望”」と言う。彼女の名前は“のぞみ”ちゃんとか“希子”ちゃんなのかな。
要するに、「僕」の恋は、自分のための恋、自分が世界や未来に希望を抱くための恋なのだ。
だがしかし、この生身性の薄さこそ、ドルオタの心情ではないか。
「こんなに誰かを恋しくなる自分がいたなんて想像もできなかったこと」
というのは、「アイドル」なんて下らないと思っていたのに、何かのきっかけで動画を見てしまい、全力で歌い踊るその姿にハマってしまったぼくらBABYMETALファンにも共通する。
だから、この歌詞を「恋」の歌だと思うと、気持ち悪さだけが目立つが、アイドルオタクの心情を現したサブリミナルソングだと考えると、秋元康の意図がよくわかる。

―引用―
わざと遠い場所から君を眺めた
だけど時々 その姿を見失った
24時間心が空っぽで
僕は一人では生きられなくなったんだ
孤独より居心地がいい
愛のそばでしあわせを感じた
人の群れに逃げ込み紛れてても
人生の意味を誰も教えてくれないだろう
悲しみの雨 打たれて足下を見た
土のその上に そう確かに僕はいた
こんなに心が切なくなる恋ってあるんだね
キラキラと輝いている
同じ(おんなじ)今日だって僕らの足跡は続いてる
君の名前は“希望”と今 知った
―引用終わり―

「わざと遠い場所から君を眺めた」という二番の冒頭の歌詞で、「僕」の気持ち悪さは一層深くなる。これではストーカーではないか。
「時々その姿を見失った」というのは、彼女に気持ち悪がられ、避けられているのだ。
そして「24時間心が空っぽで」「一人で生きられなくなった」と言っておきながら、「孤独より居心地がいい」「愛のそばでしあわせを感じた」というのは、もう理解に苦しむ。
恋は苦しい。押せば引かれ、押されれば引く。男女の気持ちはシーソーのように揺れ動くのであって、相手に認めてもらおうとすれば、孤独だった時とは違って、常に相手の気持ちを忖度しなければならないから、相手の一挙手一投足に縛られ、毎日、焦燥感や嫉妬にさいなまれる。居心地がいいわけがないというのがぼくの経験だ。
もし、相手に無視されていること、避けられていることを「居心地がいい」「愛のそば」にいると感じられるとすれば、それはマゾヒスティックなストーカー気質そのものではないか。
だから、こんな「僕」とは、秋元康の想像上の人物造形に他ならない。つまり、「君」とは「僕」が見つけた「アイドル」のことだ。
「僕」は「遠い場所から」見る「アイドル」に恋をしたのであって、「その姿を見失った」というのはお目当てのメンバーがテレビに出ない時期=「ロス」のことである。
それは次の連で、より一層はっきりする。
「人の群れに逃げ込み紛れてても人生の意味を誰も教えてくれないだろう」とか、「悲しみの雨 打たれて足下を見た土のその上に そう確かに僕はいた」「同じ(おんなじ)今日だって僕らの足跡は続いてる」というのは、不自然なほどポジティブではないか。
「悲しみの雨」「こんなに心が切なくなる」とは、結局、彼女に振られたことを暗示しているのだから。内向的な少年が、初めて恋した相手に振られてポジティブになれるわけがない。
つまりこれは、「アイドル」に恋をすることで、「人生の意味」とか「実存感覚」とかが得られる、つまり疑似恋愛感情が昇華し、内向的な自分を抜け出し、他者や世界とリアルにつながる「成長」ができるのだ、というサブリミナルメッセージに他ならない。
だからといって、こういうサブリミナルメッセージに意味がないのか。
秋元康の「商品」を売るための「罠」に過ぎないのだと言い切っていいのか。

―引用―
もし君が振り向かなくても
その微笑みを僕は忘れない
どんな時も君がいることを
信じて まっすぐ 歩いて行こう
何にもわかっていないんだ
自分のことなんて
真実の叫びを聞こう
(転調E♭→E)さあ
こんなに誰かを恋しくなる
自分がいたなんて
想像もできなかったこと
未来はいつだって
新たなときめきと出会いの場
君の名前は“希望”と今 知った
希望とは明日(あす)の空
WOW WOW WOW
―引用終わり―

「もし君が振り向かなくてもその微笑みを僕は忘れない」「どんな時も君がいることを信じて まっすぐ 歩いて行こう」

ここはCメロになっていて、「僕」の仮想の恋物語が終わり、成長した心境が提示される。「もし~ても」という仮定の係り結びになっているが、こんなストーカー気質の「僕」を彼女が避けたのは確定事実なのだ。
そして、サブリミナルメッセンジャーとしての秋元康が言いたいことは、後段の「僕は忘れない」「信じてまっすぐ歩いて行こう」だろう。
もし、彼女が現実の存在なら、「君がいることを信じて」はおかしい。信じるまでもなく、生身の彼女は彼女の人生を歩んでいるのだから。
そうではなく、この「君」は、「僕」の心の中に内在化された「アニマ」のことだ。
もしかしたらそれは現実に「僕」が出会った存在なのかもしれない。だが、話しかけることもできなかった「君」は、「僕」の中にいつの間にか内在化し、理想の女性像に変わった。それは思春期の少年の心の中に形成された存在であって、人生のおりに触れて「僕」を励まし、導く存在である。
だから心の中にあるその存在を「信じて」生きていくということになる。
欧米なら、この「君」は、間違いなく大文字のYOU、つまり神のことだ。
だが、少なくともこの歌では、「君」はテレビの中の「アイドル」に仮託された、「僕」つまりアイドルファンにとって内在化された「アニマ」のことである。
「アイドル」は神の“偶像”のことであって、前回述べたように、「アイドル」ファンと宗教の信者の心理は共通点が多い。
だから、転調前の「何にもわかっていないんだ 自分のことなんて」と、自我に閉じこもる思春期の少年に、「想像もできなかった」アイドルファンになることを呼び掛けている。その証拠に、ご丁寧に「何にも」の後に空拍を入れて強調しているのだ。

そして、転調後のキーはE。IDZの最後やギミチョコやメタ太郎の最後やTHEONEのイントロで使われる、心理的安定を示すEなのだ。
だがしかし。
もし、アイドルオタクが、内在化された「アイドル」=「アニマ」によって、内向的かつ自己中心的で閉じこもった自我から解放され、生身の他者との交わりや、社会の現実の中に「デビュー」あるいは「更生」していけるなら、それはそれで結構なことではないか。
あまりにも自己中心的で気持ち悪い「僕」が、恋をすることで、「成長」していくストーリーを歌った秋元康作詞によるこの歌は、ある意味で「教育的」といえないだろうか。
(つづく)