梁塵秘抄とBABYMETAL(1) | 私、BABYMETALの味方です。

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アイドルとメタルの弁証法
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★今日のベビメタ

本日5月6日は、2012年、さくら学院2012年度転入式が行われ、中元すず香が2代目生徒会長に就任した日DEATH。

 

『梁塵秘抄』は、平安時代末期、後白河法皇(1127~1192)、がその晩年に「今様」(いまよう)という形式の歌を編纂した歌集である。

これがなぜBABYMETALと関係するのかは追って説明していくが、一言でいえば、これがわが国初のアイドルによる流行歌集だからである。そして、それを夢中になって収集し、歌集にしてしまった後白河法皇は、わが国初のアイドルオタクだった。それも少年期からの筋金入りのオタクであり、平安末期の政治的激動の中を生き抜きながらオタク道を貫き、今に残る『梁塵秘抄』を世に残した。

つまり、日本のアイドル文化の源流は、平安時代の後白河法皇にあるのだ。

日本古典文学の学者さんや和歌の専門家にはお叱りを受けそうだが、これはぼくのブログであり、珍説を披露する自由くらいはあるだろう。

平安時代は、天皇と藤原家を中心とした貴族による政治体制が約400年間にわたって続いた日本最長の安定した時代だった。これに次ぐ江戸時代は約260年間であり、明治維新から150年、敗戦後の時代はまだ73年しか続いていない。

この長い平安時代に、日本文化の原型が形成されたのであり、それはぼくらの生きている現代にも受け継がれている。日本文化を考える際、平安時代をリアルにとらえ直すことは重要だと思う。

『古事記』の神武天皇行幸の条に見られるように、天皇が自ら歌をたしなむのは、日本文化の精髄である。最古の和歌集『万葉集』には天皇の歌が多く集められており、平安時代の『古今和歌集』以降は、天皇が時の最高歌人に命じて編纂させる勅撰和歌集を作った。

後白河法皇も、藤原俊成に命じて『千載和歌集』を勅撰した。

そこに集められた「歌」は、基本的に5・7・5・7・7の定型様式を持った和歌であった。

和歌は、即興で作り、披露されるときには朗々と節をつけて歌われるが、文字として和歌集に収録されて、文学として味わわれ、貴族の教養となるものであった。

これに対して、文字通り「歌=音楽」として演奏され、歌唱されたのが、「催馬楽」(さいばら)「猿楽」(さるがく)「田楽」(でんがく)そして「今様」という形式だった。

「催馬楽」は、奈良時代から平安時代の初めに完成した形式で、素朴な恋愛感情など風俗古謡の歌い手に、大陸から渡来した笏拍子、琵琶(びわ)、箏(そう)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)などの楽器を用いて伴奏するもので、形式が整うと、宮廷音楽としての「雅楽」へと発展した。歌と伴奏という形式なので、踊り、舞いを伴わない。

「猿楽」は、歌舞音曲、物まね、曲芸、軽業、手品などを含む芸能一般のことであり、歌はその一部であった。

「田楽」は、もともと田植えの農耕儀礼の素朴な歌と踊りだったものが、「ささら」や腰鼓などの楽器を伴奏とした集団舞踊となり、平安時代後期には、各寺社に「座」が組まれて、お祭りの際に催され、貴族に大人気の芸能になった。

ぼくのイメージでいえば催馬楽はクラシック音楽、猿楽は芸人、田楽はダンスパフォーマンスということになる。

それらの中から、歌唱される「歌」として独立した、いわば大衆の流行歌が「今様」だった。

後白河法皇が生きた平安時代後期には、もちろんテレビもラジオもステレオもなかったが、これら各ジャンルの芸能が併存し、貴族たちがお気に入りの芸人を屋敷に呼んだり、祭りの際には各寺社のスポンサードにより、街のあちこちで様々な芸能が演じられたりしていたのだ。

これら芸能の担い手、すなわちアーティストは、貴族でも武士でも農民でもなく、庚午年籍=律令体制の編戸に組み込まれない、いわば化外(けがい)の民だった。

『日本書紀』の天智天皇紀には、「戸籍を作り、盗賊と浮浪人(ウカレビト)を断つ」と、庚午年籍を作った理由を記載しているし、『日本霊異記(下)』には、「越前国加賀郡に浮浪人の長あり。浮浪人を探りて、雑徭に追い使ひ、調庸を懲り乞ふ」という記事もある。

続日本紀には「乞索児(ホカヒビト)一百人を陸奥国に配す」という記述もある。

ウカレビトとかホカイビトというのが戸籍の「外」の民であり、国家が彼らをなんとか自分たちの支配下に置き、税を取ろうとしたことがわかる。

のちに人形使いのことを指すようになる傀儡子(くぐつ)は、平安時代には、巫女や遊女を含むこうした芸能の民一般を指しており、国家に有用な生産活動を行わない人々だったにも関わらず、存在していた。それどころか、芸能人として貴族にもてはやされたのである。

これらの人々は政治史の表舞台にはほとんど出てこないが、『梁塵秘抄』をはじめ、古典文学作品や、著名な人物の生涯に関わるなど、ところどころにその存在が記録されている。

というのも、貴族の宴席にはこうした傀儡子や遊女が欠かせないものであったらしく、一方では、歩き巫女のように、全国を行脚して託宣を伝える半ば神職、半ば放浪芸人のような存在もいて、文学作品の背景として、あるいは著名な人物と交流する機会が多かったからである。

『梁塵秘抄』にしぼれば、そこに収録された「歌」の多くが、「遊女」によるものとされている。

「遊女」といえば、江戸時代の郭にいた花魁を連想してしまうが、平安時代には、傀儡子=化外の民に属する女性のことであり、春をひさぐこともあったが、むしろ洗練された歌舞音曲の「芸」を売る芸能人のことだった。

後白河法皇は、1127年に鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(しょうし)の間に生まれた。諱は雅仁(まさひと)。

父の鳥羽上皇-法皇が、院政期に異母弟の近衛天皇を皇位につけたため、後白河が天皇になる可能性は少なかったが、近衛天皇の急死により立太子を経ずに、1155年(28歳)に第77代天皇となった。

在位3年の1158年(31歳)に、実子の二条天皇に譲位して上皇となり、出家して法皇となった後、34年にわたり院政を行い、政治の中心に居続けた。

後白河の院政と二条天皇の親政の対立が元で、保元・平治の乱が起こり、二条天皇・平清盛・木曾義仲・南都北嶺の寺社勢力との対立により、何度となく政治生命を絶たれそうになるが、後白河はその都度生き延び、源頼朝に鎌倉幕府設置を許し、平安時代に幕を下ろした。

これが後白河法皇のいわば「表」の生涯であるが、実は、異母弟が天皇になったため、気楽な立場になった後白河は、即位する前の少年期に「今様」にハマり、『愚管抄』(慈円)によれば、父の鳥羽天皇からは「天皇の器ではない」と思われていた。

『梁塵秘抄口伝集』には、本人によるこのような記述がある。

「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」

「今様」が、歌曲であることがよくわかる。昼夜を分かたず歌い続けたために喉を傷め、声が出なくなったが、50日連続、40日連続で歌い続けたという。アホである。

「稽古」を怠らなかったとあるが、誰が後白河を指導したのか。

それは、伝説の歌姫、女傀儡子の乙前(おとまえ)であった。

(つづく)

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