優しさ
自分で自分のことを優しいと思う。
争い事が嫌い。
人が嫌がることをしない。
人が喜ぶことが好き。
誰かが喜ぶようなことをしても、それに対して見返りは求めない。
見返りを求めたら、それは優しさではないと思っているから。
でもさ、人に優しくすることによって、人が喜ぶ顔が見れる。
どこかで人に優しくしている自分に対して悦に浸っているところがある。
人に優しくすることによって、嫌われたり、トラブルになったりすることを避けている。
これって、その人からではないけど、見返りを求めてるってことじゃないか?
俺、全然優しくなんかないな。
埃
こんな話がある。
天国に来た人達に神様が
「今まで悪事をしたことがある人は落ちてある石を拾いなさい」
真っ先に神様が石を拾ったという。
悪事をした事のない人なんているのだろうか?
刑務所に入るような大罪、交通違反、万引き、親の財布からお金を盗んだ、誰かにイジメや意地悪をした、仮病を使ったなど。
叩いて埃の出ない人なんて皆無だと思う。
政治家も警察官も教師も牧師も、恐らく大きさに関わらず悪事はしている。
僕も、色々な悪事を働いた。
叩いたら埃はいくらでも出る。
ただ、そんな経験をして、人の痛みを知り、良い事、悪い事の分別がつくようになり、成長に繋がっているという実感はある。
仮に、どんな罪でも死刑という法律が出来たとしたら、人間の平均寿命は二十歳を下回る。
処刑をする人すら居なくなるだろう。
別に令和ロマンを擁護する訳でもないし、中居さんを擁護する気もない。
むしろ、人を心だろうが身体だろうが、傷付けるのは許せないという想いは強い。
そういう意味ではこの2つの事例は同等に扱えないとも思う。
だけど、自分が裁くことは出来ないし、静観することしか出来ない。
ただ、こんなことが続いていけば、才能ある人達が抹殺されていくのではないかという懸念はある。
恐らく人間界では形が違えどこんなことが繰り返されてきたのだと思う。
魔女狩りみたいなことが形を変えて今も行われている。
人間は愚かな生き物だ。
だから面白いのかもしれないが。
様々な意見
ある事象があると、様々な意見が現れる。
批判する人、擁護する人。
その中でも色んな見解があり、独自の倫理観を披露する。
ネット社会な現代では、そんな様々な意見を目にする数も昔とは違うだろう。
生まれた環境、育った環境、出会った人達、みんな違う。セロリが好きだったり嫌いだったり。
物事に関する考え方が一緒になるはずもない。
だから、十人十色の意見があることは当然なことなのだ。
僕が何かを発したり、インタビューに答えたりした時に、批判的なもの、賛同するもの、感銘するもの。中傷するもの、色んな意見をいただく。
別に構わない。
批判的なものでも、こんな意見もあるんだ。
まあ人それぞれ考え方は違うからで収まる。
問題なのは、自分の主観以外のことを受け入れないということだ。
自分の言っていることが正しく、絶対だ。
この意見に反するものは間違っている。
こういう人がとにかく多い。
「俺が合ってる、お前が間違っている」
「いいえ、あなたは間違っている。私の方が正しい」
ネットだと、侵害派、擁護派みたいな派閥戦争みたいなことにもなる。
自分の考えを持つことは大切なことだと思う。
その考えに誇りを持つのもいい。
同時に、人の意見を聞くことも大切だ。
討論は必要だが、口喧嘩に生産性はない。
ネットで行われているのは、口、文字という武器を使った戦争。
確実に相手を傷付けようとしている。
言葉の先が鋭利になっている。
一方的なものもあれば、やり合うものもある。
まさに地獄絵図。
この世に正しいものはないと思っている。
正しいか間違っているかは、個人にしか存在しない。
正しいと思っていたものを間違いと感じたり、間違っているものを正しいと思うようなこともあるだろう。
とある出来事や人の話を聞いて変化することもある。
固定観念が強い人、脳が凝り固まっている人との話し合いは意味がないのでしないようにしている。
それと、言葉遣いは暴力性を持たないでいてほしい。
まあ色々自論を述べたが、今僕が書いてることも、別に正しいとは限らないということだ。