読書 「1 田中絹代は負けない」 | ゆうべ見た映画

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1954年 (昭和29)から34年間 松竹大船撮影所で 

プロデューサー、シナリオ研究所長などをされた

升本喜年 (ますもと きねん)さんのご本

「松竹映画の栄光と崩壊」

 

非常に読みでのある、読み出したら止まらない

500頁近い長編で

 

松竹だけではなく 

激動の昭和に翻弄された 実録日本映画史です

ほんとに 面白いんですよ

 

ご紹介したい箇所は 

たくさん、たくさんあるのですが

 

今回はこのご本から 『田中絹代は負けない』の項と

他、画像などは あちこちから抜粋で

田中絹代さんを 4回に分けてご紹介します

 

          赤薔薇

 

 

田中絹代 (本名)は 1909年 (明治42)

山口県下関市に

四男四女の 末娘として生まれた

 

この日、田中家の庭では 歳末の餅つきをしていたが

突然 母が産気づき その後、彼女を出産

 

「絹のような白い肌の女の子になって欲しい」と

絹代と名付けられた

 

この頃、父は呉服商を営み

貸し家を20軒も持っていたが

 

絹代が3歳のとき 父が亡くなり

以後は、使用人に有り金を 持ち逃げされるなど

次第に家は困窮していき

一家は大阪市天王寺区に移住した

 

幼い頃 琵琶を習っていた絹代は

小学校を卒業すると 琵琶少女歌劇に入団

楽天地の舞台に立った

 

小柄であどけない風貌の絹代は

実年齢より ずっと幼く見え

観客の紅涙を誘い 人気子役であった

 

やがて 時が経ち成長した絹代は 

映画館に 出入りするうち

映画女優を 夢見るようになり

 

1924年 (大正13) 兄が松竹大阪支社で 

給仕係として働いていた関係で

面接を受け 松竹下加茂撮影所に入社

 

絹代は母とふたりで 京都に移った

絹代15歳のときである
 
 
絹代は その年に映画デビュー
素質を見抜かれ 
翌年には早くも 清水宏監督『村の牧場』で
主役に抜擢された
 
その後は 持ち前の勘の良さで
下町娘、お嬢さん、うぶな娘役など 次々こなし 
 
17歳で出演した 
五所平之助監督『恥しい夢』の 芸者役が出世作となり
この年には12本、翌年には16本もの作品に出演
 
1929年(昭和4)・20歳 
小津安二郎監督の『大学は出たけれど』では
可憐な娘を好演 評判となり
 
『大学は出たけれど』
 
ここで遂に 
それまで トップスターとして君臨していた 
栗島すみ子を抜いて
松竹鎌田の看板スターとなった 
 
入社 わずか5年目である
 
その後は 五所監督による
日本初の本格的トーキー映画『マダムと女房』に主演
その甘ったるい声で 全国の映画ファンを魅了
 
『マダムと女房』
 
続いて
下加茂の大スター・林長二郎 (長谷川一夫)と共演した
『金色夜叉』
 
二人による 寛一・お宮は 大評判となり
全国どこの劇場も 満員札止めの大盛況となった
 
ほか、
五所平之助監督『伊豆の踊子』『人生のお荷物』
島津保次郎監督『春琴抄 お琴と佐助』など
トップスターとして 走り続け
 
26歳で 松竹映画の大幹部
 
1936年(昭和11) 
松竹撮影所が 大船に移った時の
当時27歳の 絹代の月給は850円
 

慶応大学出で 絹代よりひとつ年下の

助監督・大庭秀雄の月給が 30円という時代だった
 


 

 

 

 

つづきます