サムネ | ||||||||
当初GHQは「民主化」と称して、労働組合、教育改革、公職追放を進めていた。これに便乗した朝鮮人と共産党が引き起こす紛争、暴動が、先鋭化するのを見かねて、5月にレッドパージ(赤狩り)を始めた。 | ||||||||
団塊の世代は、1~3歳。昭和19年生まれの方が、小学校入学の年齢でしょうか? | ||||||||
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終戦5年を迎えたこの年6月に、北朝鮮が南朝鮮攻め入って「朝鮮戦争」が勃発した。一旦、日本国憲法で武力放棄を明文化したが、在日米軍を韓国に送り込んだ結果、8月には日本の防衛に「警察予備隊」を発足させた。 | ||||||||
北朝鮮の急襲に、韓国の李承晩は退却を繰り返し朝鮮半島南端に追い詰められた。李承晩は、この時「保導連盟事件」で韓国の共産支持者を大量に虐殺した。 | 李承晩(写真は1956年) |
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一時は、李承晩による日本への亡命要請もあり、山口県が検討した経緯もあった。 | ||||||||
切羽つまった李承晩は、嫌っていた旧日本軍将校(朝鮮人)に指揮をゆだねた。体制を整えた米軍が本格参戦でして北側に一気に押し戻した。朝鮮の地理を熟知した日本人が、米軍の兵站に関わっていたことは知られていない。 | ||||||||
当時は秘密裏に行われた「日本特別掃海隊の派遣」で、朝鮮戦争に参加して戦死者もいた。 | ||||||||
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朝鮮戦争の激化によって韓国からの密入国者も一段と増加して犯罪が深刻化した。また日本共産党の武闘闘争も警察では抑止が困難になり、占領軍部隊や警察予備隊が出動して鎮圧された。 | ||||||||
秩序を守ってきた警察、裁判所、役場まで襲撃される世相に、普通の日本人は不条理を感じたことだろう。 | ||||||||
相変わらず、日本国内では朝鮮人による組織的な襲撃が繰り返されたが、対象が役所、裁判所まで広がった。そんな中、日本共産党と占領軍が直接激突した「人民広場事件」、全学連の下部組織である都学連が警察予備隊と激突した「早稲田大学事件」が発生した。 | ||||||||
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掲載した「戦後史 連載リスト」は、をご覧ください。 | ||||||||
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_/_/_/_/_/ 1950年 _/_/_/_/_/ 朝鮮人事件=4件 共産系事件=3件 |
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台東会館事件 | 昭和25年03月20日 | |||||||
在日本朝鮮人連盟は、結成以来日本共産党の尖兵として日本各地で暴動を起こし続けてきたが、1949年9月8日、団体等規正令の「暴力主義的団体」として解散を命じられ、その資産は没収されることになった。1950年3月10日に接収を行うことになった。 係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。 旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。 3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した。 |
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GHQによるレッドパージ | 昭和25年05月03日 | |||||||
連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。 | ||||||||
人民広場事件 | 昭和25年05月30日 | |||||||
1950年(昭和25年)5月30日に日本共産党を支持するデモ隊と占領軍が東京の皇居前広場で衝突した事件。占領軍と大衆行動との最初の衝突事件とされる。なお、「人民広場」とは、戦後に共産党などの国体に反対する勢力が「皇居前広場」に対して付けた名称である。 6月1日に共産党はこれは反対派の学生による投石による挑発を受けたものであるとし、集会参加者の逮捕は4日の参議院選挙に対する妨害行為であるとのGHQ批判を行う。翌日、警視庁は都内での集会・デモの禁止措置を発令、更に3日には占領軍の軍事裁判にて逮捕者に重労働10年などの有罪判決が下された。 |
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朝鮮戦争勃発 | 昭和25年06月25日 | |||||||
1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。 | ||||||||
保導連盟事件 | 昭和25年06月27日 | |||||||
李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。 被害者は少なくとも20万人から120万人とする主張もある。 |
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李承晩政権の亡命要請 | 昭和25年06月27日 | |||||||
李承晩政府は朝鮮戦争の勃発2日後、日本の外務省に「6万人規模の亡命政権を山口県に樹立したい」と打診した。これに対し、当時の田中龍夫・山口県知事は「日本の住民も配給が不足している状況」と難色を示しつつ、韓国人5万人を収容する「緊急措置計画書」を作成した。 計画によると、山口県阿武郡など4地域に20か所の避難キャンプを設置し、臨時兵舎1棟に200人ずつ、計250棟の兵舎を建設して5万人を収容する予定だった。計画書は米軍に提出され、田中知事は予算支援も要請していた。ただ、釜山が陥落を免れたことで亡命計画は実行されなかった。 |
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連島町事件 | 昭和25年08月15日 | |||||||
1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)に対し「団体等規正令」を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。将来に不安を抱いた朝鮮人らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。 こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。 | ||||||||
警察予備隊の設置 | 昭和25年08月10日 | |||||||
勃発した朝鮮戦争において、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることなり、日本における防衛兵力・治安維持兵力が存在しないこととなった。GHQの「警察予備隊令」により警察予備隊を設置。 | ||||||||
日本特別掃海隊の派遣 | 昭和25年10月16日 | |||||||
朝鮮戦争には、第二次世界大戦の終戦以降日本を占領下に置いていた連合国軍、特に国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍の指示により、日本の海上保安庁の掃海部隊からなる「特別掃海隊」も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。 | ||||||||
早稲田大学事件 | 昭和25年10月17日 | |||||||
午後1時、全日本学生自治会総連合(全学連)の下部組織である東京都学生自治会連合(都学連)に加盟する早稲田大学、東京大学、中央大学、法政大学の学生約500人が、レッドパージに対する反対を掲げ、早稲田大学自治委員会の主催で「平和と大学擁護学生大会」を大隈講堂で開催する予定であった。しかし、大学側が講堂の使用を拒否したため、自治会は校庭で開催し、同時に、大学当局に対して講堂の使用許可を要求したが、これを拒否された。 午後7時50分、予備隊三個中隊および周辺警察署の応援約300人を投入し、排除活動を再開したが、学生らは瓦礫片を投擲するなどの激しい攻撃を行ったため、警察官と学生双方に重軽傷者を出す事態となった。この事件によって、学生143名が公務執行妨害の罪で検挙された。午後8時30分ごろには反対活動が学生らによって自発的に中止されるようになり、午後9時には大学構内での運動が収束した。 |
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長田区役所襲撃事件 | 昭和25年11月20日~27日 | |||||||
11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が「市民税免除」と「生活保護の徹底」を要求して、神戸市長田区役所に押しかけた。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出したため、神戸市警察が出動、30人が逮捕された。 24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。 27日朝、長田区にある西神戸朝鮮人学校に千数百人の朝鮮人が集結。神戸市警察は全警察官を総動員して対処した。朝鮮人は投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。 遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された。 |
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大津地方検察庁襲撃事件 | 昭和25年12月01日 | |||||||
午前10時30分頃、日本共産党地区委員や旧朝連の幹部ら3人が大津地方検察庁を訪れ、勾留されている同志の釈放を検事正に要求した。検事正がこの要求を拒否したところ、朝鮮人約100人が集まり検察庁内に侵入しようとした。大津地検は大津市警察に警察官の派遣を依頼、大津市警だけでは足りないため、国家地方警察にも救援を求めた。警察官到着後、検察庁は解散を命じ、実力で排除した。その際に2人を逮捕し、群集は一旦解散した。 この日の大津市は雨が降っており、職にアブれた日雇労働者は失業認定のために公共職業安定所に集まっていた。手続き終了後、日雇労働者は大津市役所経由で大津地方検察庁に集まってきた。すると、先ほど解散した朝鮮人の群集が再結集して、日雇労働者の集団を巻き込むような形で、再度地検に突入してきた。 日雇労働者は特に反抗的ではなかったが、朝鮮人は暴徒化し、警察官に襲いかかってきた。この事件で43人が逮捕された。 |
戦後史 連載リスト | |||||
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