サムネ                
この年(昭和24年)は、朝鮮関連団体と日本共産党が手を組んで騒乱事件を起こしたほか、北朝鮮側と南朝鮮側の対立も深まっていった。
団塊の世代は、0~2歳。昭和18年生まれの方が、小学校入学の年齢でしょうか?
GHQが「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、在日本朝鮮人連盟が「治外法権的地位にないこと」を発表し、「暴力主義的団体」として解散指令が出た。
それまで、朝鮮人は勝手に鉄道旅券を発行して乗っていたのだろうか? これを取締れなかった国鉄や警察は元より、同じ鉄道を利用していた日本人も、さぞかし悔しかったことだろう。
まして、済州島四・三事件に端を発する麗水・順天事件で、李承晩の圧迫が厳しさを増すと、日本への密航、逃亡者は大幅に増加した。これに便乗して、徴兵逃れ、働き口探しで密航した朝鮮人も加わった。
李承晩は「反共」を前面に出していたため、密入国者の多くは、共産主義を目指す傾向が強く、この時期日本共産党との連携も進んだようだ。
父母世代の穏やかな日本人の多くは、GHQから「敗戦」を強く強いられていたので、朝鮮人の横暴にも、目をつぶらざるを得なかったのだろう。
米飯不正受配で、取り締まりにあたり、温情処置を取った巡査を「不正を行った」と日本共産党が宣伝し、自殺に追い込む痛ましい事件も起こった。
この辺りから、敗戦国と云う自虐的な観念が定着し始めたのかもしれない。

前の年(昭和23年)に始まった国鉄関連の事件が、本年に入り各地で多発する。この闇は、事件後に共産党員が大量に検挙されることも多かった。その後、GHQ謀略説や警察謀略説もささやかれた。
三鷹駅ホームから現場を見る人々
GHQは絶大な権力を行使すれば良いだけなので、主権回復後にメディアを賑わせた、「レッドパージ目的」だけでは、説明が付きづらい。
またこの時期に、原因不明の鉄道事故も多発している。仮にGHQの陰謀だとしても、これほどの回数を繰り返すのは、不自然過ぎる。
特に「三鷹事件」では、10名の容疑者の内、非共産党員だった竹内景助だけが、無期懲役(2審で死刑)と云う判決が出て獄中死。息子さんが冤罪、名誉回復のために奔走していた。
DNA鑑定が進んだ現在なら、未解決事件の多くは解決していたのだろう。

この年10月になって、蒋介石率いる国民党軍を追い詰めて、毛沢東率いる共産党軍が「中華人民共和国」建国の宣言を行う。
支那事変では、常に日本と戦ってきた国民党軍は疲弊していた。一方、日本とほとんど戦ったことになかった共産党軍は、ソ連が日本軍の武装解除した武器を渡したために、戦局が一変したとも言われている。

掲載した「戦後史 連載リスト」は、リストをご覧ください。

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朝鮮人事件=5件 共産系事件=5件
益田事件 昭和24年01月25日
島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。
枝川事件 昭和24年04月06~13日
1948年12月2日、月島警察署は管内で発生した集団窃盗事件の容疑者2人を逮捕したが、主犯の朝鮮人が逃走中であることが判明した。4月6日に、東京都江東区枝川に潜伏していることを突き止め、同日午後に捜査員3人が検挙に向かった。
捜査員は主犯を発見して逮捕しようとしたが、別人を主張し屋外に出ようとしたところ、捜査員を突き飛ばして逃走した。捜査員は拳銃を威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため主犯に向けて発砲して、逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。
それを見ていた約40人の朝鮮人が、捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させた。アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。
その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。内偵調査を行った結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。19日までに更に10人が逮捕された。
高田ドブロク事件 昭和24年04月07日~11日
1948年秋頃から新潟県中頸城郡中郷村と中頸城郡新井町の朝鮮人集落で、大規模な密造酒の醸造が行われていることを地元警察が察知し、取締りを徹底的に行うため、1949年春まで関係機関で綿密な計画を用意し準備を行ったため、実際の取締りが行われたのは1949年4月7日であった。この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署の窓ガラスを破損させた。
8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた。
予讃線事件 昭和24年05月09日
1949年5月9日午前4時23分、香川県高松市の高松桟橋駅を出発して宇和島駅に向かっていた予讃線準急第一旅客列車が、愛媛県温泉郡難波村(現在は北条市を経て愛媛県松山市北条)にある浅海駅付近にある北条町難波大浦の切通しカーブに時速約55kmで差しかかったところ、機関車が転覆した。その直後、およそ40m突進し続けた列車は、右方の丘に激突した後120度急旋回し高さ8mの崖に乗り出して停止した。さらに炭水車と2両の客車が続いてL字型に脱線し、機関助士ら3名が胴体切断及び全身火傷で死亡したが、別の機関士1名は自力で這い出し奇跡的に生還する。
現場検証によると、継ぎ目板2カ所4枚、ボルト8本、犬釘7本が故意に抜き取られており、レールが75ミリずらされていた。現場付近に残されていたバール、スパナにはローマ字の刻印があり、明らかに国鉄で使っていたものではないことが判明した。しかしその手口が高度なこともあり、犯人は単独犯ではなく5~6人の犯行と見られたため、列車転覆致死傷罪で捜査したが、3ヶ月後に発生した同じく列車転覆致死傷事件である松川事件と同様に事件の真相が判明せず未解決事件となった。
本郷村事件 昭和24年06月02日~11日
6月2日、国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。
平事件 昭和24年06月30日
早朝より、共産党員や在日本朝鮮人連盟の朝鮮人を動員し、湯本町や内郷町の自治体警察に押しかけて、平市警察に応援を出さないことを確約させた後、午後3時30分頃にトラックで平市警察署に押しかけた。
群集はインターナショナルを歌いながら気勢を上げて署内に乱入。午後6時頃になると署長室だけでも80人が侵入するなど大混乱に陥った。侵入を阻止しようとする署員に対しては殴る蹴るの暴力を加え、署の窓ガラスを次々と割っていった。群集の一団は留置場にも侵入し、先程逮捕され留置された者を奪還、逆に警察官を留置場に閉じ込めた。群集は公安委員会の招集と署長の辞職を要求した。この間、署の玄関に赤旗を交差させて掲げ、「人民警察ができた」などと呼号したり、市内各所に検問所を設けて警戒に当たるなど無警察状態に陥った。午後11時頃になって、近県より警察の応援部隊がやってくるという情報が入ったため、ようやく解散した。
温情措置の熊谷巡査自殺 昭和24年06月
米飯不正受配で温情処置を取った熊谷巡査を「不正を行った」と日本共産党が逆宣伝し、自殺に追い込む。父親の自殺後にも、残された小学2年生の子供がいる自宅に共産党員が押し掛けた。
下山事件 昭和24年07月05日~06日
国鉄三大ミステリーと言われた事件の一つ。1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪、翌7月6日未明に死体となって発見された事件。事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、警視庁は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。
東京鉄道局長在任中、「三国人専用車両」を混雑時間に中止したことから、在日朝鮮人らに睾丸破裂の暴行を受けていた。国鉄総裁に就任まもなく、マッカーサー命令で国鉄人員整理で12万人削減の団体交渉にあたっていた。
三鷹事件 昭和24年07月15日
1949年(昭和24年)7月15日午後9時23分(当時は夏時間)に、国鉄三鷹車庫から7両編成の無人電車が暴走。中央本線三鷹駅の下り1番線に進入した後、時速60km程のスピードで車止めに激突し、そのまま車止めを突き破って脱線転覆した。これにより、脱線転覆しながら突っ込んだ線路脇の商店街などで、男性6名が電車の下敷となり即死。また負傷者も20名出る大惨事となった。
国鉄労働組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士の竹内景助による共同謀議による犯行として彼らを逮捕した。そのうち、共産党員1人についてはアリバイが成立したため、不起訴として釈放されたが、残りの共産党員9人と竹内が起訴され、さらに2人が偽証罪で起訴された。
1950年(昭和25年)東京地方裁判所の鈴木忠五裁判長は、非共産党員の竹内の単独犯行として無期懲役の判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした。一審判決で竹内が死刑ではなく無期懲役とされたのは、解雇されたことへの反発があったこと、計画性がなかったことと人命を奪うという結果を想定していなかったことが情状として挙げられた。
一審で6人を死亡させたと認定された竹内への無期懲役判決に対しては、読売新聞、毎日新聞、産経新聞などのマスコミは被害者や遺族の意見などを紹介して批判したが、朝日新聞は竹内への無期懲役判決に肯定的見解を示していた。これに対し検察は、全員の有罪を求めて控訴・上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所は、1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。
竹内は死刑判決後も、文藝春秋誌に陰謀説を訴える投稿をするなど無実を訴え続けたが、1967年(昭和42年)、脳腫瘍のため45歳で獄死した。
塩釜事件 昭和24年07月14日~19日
宮城郡多賀城村において民団の構成員が電柱にビラを貼っていたところ、朝連の構成員がこれを剥がしたため、民団の構成員が民団塩竈支部に連行し、詫び状を書くように強要した。朝連は塩竈市警察に救援を要請し、警察官が現地に駆けつけ、同日夜に朝連の構成員を保護して引き揚げた。翌15日、民団側は仙台市内で朝連を糾弾する集会を開いた。一方の朝連も塩竈市で集会を開き、仙台から帰ってくる民団側を待ち構えていた。警察の厳戒態勢により、双方の陣営による小競り合いがあったものの、大きくならずに済んだ。17日、朝連は無届の街頭演説を行ったため、進駐軍の宮城地方軍政部の命によって代表者4人が逮捕された。そのため朝連系朝鮮人が抗議のために警察署に押しかけるなど新たな波紋を呼ぶこととなった。
19日、民団・朝連の双方が場所は同じ海岸前広場で、時間も同じ午後6時であった。民団・朝連の双方は互いを罵倒して険悪な雰囲気になったが、警察の厳重な警備により、大きな混乱も無く終了した。
松川事件 昭和24年08月17日
三鷹事件から約1か月後の1949年(昭和24年)8月17日午前3時9分頃、福島県信夫郡金谷川村を通過中だった青森発上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車牽引)が、突如脱線転覆した。現場は、東北本線松川駅 - 金谷川駅間のカーブ入り口地点(当時は単線。複線化後の現在では下り線)であり、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線。機関車の乗務員3人(49歳の機関士、27歳の機関助士、23歳の機関助士)が死亡した。
現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。更にレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25m、重さ925kgのレール1本が外され、殆ど真直ぐなまま13mも移動されていた。周辺を捜索した結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。
事件発生から24日後の9月10日、元国鉄線路工の少年が傷害罪で別件逮捕され、松川事件についての取り調べを受けた。少年は逮捕後9日目に松川事件の犯行を自供、その自供に基づいて共犯者が検挙された。9月22日、国労員5名及び東芝労組員2名が逮捕され、10月4日には東芝労組員5名、8日に東芝労組員1名、17日に東芝労組員2名、21日に国労員4名と、合計20名が逮捕者の自白に基づいて芋づる式に逮捕・起訴されたが、無実を示すアリバイなど重要な証拠が捜査機関により隠されていたことで死刑判決から5回の裁判を経て逆転無罪で確定した。
下関騒乱事件 昭和24年08月20日
大韓民国政府は1949年より、韓国外に居住する同胞を対象にした「在外国民登録」を開始した。民団は、「この登録を怠る者は朝鮮人としての資格を喪失する。無国籍人になることを望む以外の者は登録せよ。」と宣伝したため、朝連側が憤慨し、一触即発の事態になっていた。
警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。
朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。
在日本朝鮮人連盟の解散指令 昭和24年09月08日
GHQが「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」で、朝連が「治外法権的地位にないこと」を発表しており、1949年(昭和24年)9月8日にはGHQにより団体等規正令の「暴力主義的団体」として解散を命じられ、その資産は没収されることになった。
関東朝鮮人強盗団事件 昭和24年09月13日
警視庁捜査第三課は、関東一帯を荒らしまわっていた十数人規模の朝鮮人強盗団の取調べをしていたところ、ある被疑者が背後にある200人規模の大強盗団の存在を自供し、発覚した。
同年12月1日、警視庁は「集団強窃盗特別捜査本部」を設置するとともに、東京都や神奈川県など55ヶ所を家宅捜索し、79人を検挙した。その後の捜査で、最終的に260人(朝鮮人215人、日本人45人)を検挙した。
捜査の結果、強盗殺人1件、強盗45件、窃盗861件の犯行が明るみに出た。
武生事件 昭和24年09月20日
午前5時頃、福井地方裁判所武生支部及び福井地方検察庁武生支部の建物から出火。一時間あまりで裁判所の裁判記録、検察庁の証拠書類等を含め全焼した。
地方における司法行政の中核を成す施設での火災であること、加えて消火活動に向かう消防車が走行の妨害工作を受けたことなどから、警察は悪質な放火事件として断定。捜査が進められた結果、暴力団組長及び組員らが検挙されるに至った。
首謀者として逮捕された在日朝鮮人の暴力団組長に死刑が求刑されたが、無罪判決。共犯として起訴された組員による単独犯行として、求刑通り無期懲役が言い渡されている。
中華人民共和国建国 昭和24年10月01日
中国大陸において国民党を破り、中国大陸の大部分を制圧した中国共産党により北京市にて建国宣言した。

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