今日の夜、報道ステーションで年金記録問題が取り上げられるようです。

紙台帳とオンラインの記録突合せの現場の映像もでるようです。
管理体制は、製造業並みの徹底した管理で頑張っているのですがどのように放映されるか気になるところです。9億枚の紙を1.7万人で3年間で見るという
人類史上最大級のプロジェクトです。ただ、その意味があるかどうかは人によって評価はいろいろでしょう。私は東洋経済の年金特集に寄稿したように反対でした。

が、だれもやれないとして受ける人がいなくて、そのままやってもムダ金になる
だけと思い、私がお手伝いして、オペレーターとして効率と品質を限界まで
追求することに徹しました。そうしているうちに枝野さんに仕訳で呼び出されて
テレビで「悪い官僚」として映ったのも今ではよい思いでです。

さて、こうした作業をしても結局、宙に浮いた記録として基礎年金番号に紐つかないものが残るのでしょうが、この意味についてちょっと言及したいと思います。

どうもネットを見ていると、「宙に浮いた」という状況は、そのお金が無くなった
と勘違いしている人がいますが、そうではありません。お金は収納されているので
記録に残っているのです。お金は今の年金の資金としてあります。ただ、その権利が
住民基本台帳や基礎年金番号に紐づかない番号についているだけです。

これは、本人確認の方法が、事業所で「人名+住所+生年月日」でやっていたためです。そして、宙に浮く理由の一つががこれらを就職時に昔はごまかしていたことです。

例えば、生命保険業界は大企業でも他の業種の3倍の頻度で
「宙に浮く」現象が起きています。これはどうも外交員が若いほうがよいと理由で
あったのではないかと推測されます。また、中小の不動産も頻度が高く、これは
おそらく、宅建の免許の名義貸しが原因のようです。
また、夜の商売の人も多かったようです。どうもかっては紡績工場に付帯する高校に進学して、卒業と同時に夜の商売に付く際に、年齢を偽るが当然とされていたところもあるようです。

もちろん、こうした不正を防ぐことが役所としての当然の業務ということはありますが、事業所経由での業務でかっては限界があったことも否めません.
今より
様々な面でおおらかだった時代に就職時に住民票をあらゆる職業の人に求めることは
難しかったと思います。またそこまで厳しく運用することが、様々な理由のある人に
対して果たしてやるべきか悩ましいことだったと思います。

しかし、今日ではこのような問題を徹底して排除するには個人のIDを割り付け、
就職時には絶対に本人確認をすることを徹底するかしかありません。
また、国民年金の徴収率を高めるためには、アメリカのように銀行口座の
開設時にもIDが必要にして、すべての金銭移動を把握することが必要と思います。
こうしたことを前提としては歳入庁は当然やるべきと思います。
(歳入庁を作ると言っている政治家いますが、就職時や銀行口座作成からの一連の
業務プロセスを定義しシステム化しないと意味がないことをよく理解してほしいと思います。組織を作っても業務プロセスとシステムが統合されないと看板の掛け替えにしかなりません)

私としては、本人の申告ベースで善意に頼る方式では無責任という世論なので
そのような厳格な管理体制に進んでいくしかないと思います。

ただ、社会というのは自立した個人の善意で回る部分と一種の遊びがあって潤滑に
廻る部分もあると思う部分も正直はあるのですが…。

結局、「国民は悪くない!政府が悪い」と批判するだけでは、管理社会を招くだけではないかと少々危惧します。ちょうど、池に柵がなく事故があれば、行政の責任になるので池を柵で囲い近寄ることもできなくなる事象と同じですね。
維新の政策で最低賃金について廃止か引下げが打ち出されているようだ。
維新の公式サイトの「政策実例」では、「市場メカニズムを重視した最低賃金制度への改革」と
されていることが確認できる。

さて、よく最低賃金の引き下げをすることで雇用が拡大して、最低賃金以下の賃金でも
働く人数が増えるから、生活保護に頼るよりましだという説明がある。

経済学的にも正しいように思える。しかし、これは完全競争の労働市場の説明だ。

これが企業が一社しかない独占市場や独占的市場であれば実は逆に雇用は減ってしまうのだ。

日本の労働市場は、労働者の流動性が低く独占市場や独占的市場のモデルのほうが当てはまって
いる可能性がある。

このような労働市場の捉え方の実証的研究としては、1992年のアメリカのニュージャージーの
実験が有名だ。

1992年のニュージャージー州は、最低賃金を引き上げだ。ニュージャージー州の賃金は
最低賃金引き上げ後上昇したにもかかわらず、雇用は若干増加、同時期、最低賃金は引き
上げられなかったペンシルバニア州の隣接地域の雇用は逆に減少したという実験だ。

この実験は労働市場をどのようなモデルでとらえるかという点でその後の研究に大きく
影響を与えている。その後も日本でもアメリカでも様々な研究が行われているが、
はっきりしないことも多い。

一つ言えることは、いきなり「最低賃金の撤廃」などということはあり得ないということだ。
あくまでも、まずは最低賃金の引き下げぐらいから初めてそれがそのどのような
効果をもたらすかをよく見ていかなければならない。

また、このような施策では、過去からの慣性もよく考える必要がある。
すでに、企業で働いている労働者の労働条件を書き換えることを難しい。
すると、新規採用者やアルバイトに対してのみ適用されることになるだろう。

このような場合に日本では若年層にのみ影響がおよび、中年や熟年層には
影響がいかないだろう。このことが新しい世代間格差を呼ぶことになる可能性が
極めて高いと考える。





どうも最近「日本維新の会」の躍進で「新自由主義」やら「競争」やら「市場主義」について
ネット上で議論が巻き起こっているようだ。
さて、私は「市場主義」者だと自認しているが、「日本維新の会」の主張するような
「競争さえすればよい結果になる」、「競争に負けたら自己責任」というのは賛同できない。

そもそも、「市場」が経済学的に厚生を高めるためには、経済学では初歩的なことだが
前提がある。それは、次のような前提だ。

1.原子性:市場は小さな生産者と消費者がそれぞれ多数いて、それぞれの行動は大きな影響を
他者に与えない。特に全ての会社がプライス・テイカーでなければならないことに注意。
2.均一性:すべての商品は同じ商品名である限りは完全に代替可能である。
3.完全情報:全ての会社と消費者はすべての商品の性質と価格を(他社のものまで)知っている。
4.平等なアクセス:全ての会社が製造技術へのアクセスを持ち、リソースや情報は完全に無料で
移動可能である。
5.自由な参入:全ての会社が市場に自由に参入・退出できる。

こうした全体が成り立てば、それは社会的厚生の増大に役立つ。

しかし、実際にはこのような条件が成り立たないことがある。ことに完全な情報を
市場参加者が入手できない情報の非対称性がある場合が多い。
例えば、中古車市場が有名だが、保険市場もそうだ。保険は、一定のルールで縛らなければ
病気がちな人ほど保険に加入したがることになる。このような例を「市場の失敗」という。

そこで、加入にはルールがあって、
医師の診断などでいったん情報を補完して一定の健康状態の人のみを加入させているのだ。

こうした「市場の失敗」を避けるためには、政府の規制や業界のルールなどがあるのだ。

ルール無視で、競争さえすればよい結果を生むわけではない。
市場が適切に機能するためにこそ、一定のルールや規制が必要なのだ。

そういう意味で、維新の橋下代表代行が言うように、「選挙に勝ったらそれは白紙委任を受けたのだ」というのこそ、「市場の失敗」の良い例だと思う。選挙前に行ったことをすべて反故にできるということは、情報の非対称の極みを意図的に実現していると言えるだろう。

しかし、このような「市場」についての基礎的な認識を持って議論するマスコミがないことは
非常に問題だと思う。海外の新聞を読んでいれば、政治家の経済政策をクルーグマンとかが
わいわい評論していて読者が考えるよいベースになるのだけど。